008
だがひとはその時になって初めて、いかに自分が自惚れていたのかに気づく。
「ドラクル様!」
アウグストの悲鳴のような声が自分を呼ぶのを、ドラクルはどこか遠い場所で聞いていた。全ての感覚が遠ざかり、闇に沈み、いずれ何も見えなく聞こえなくなる。痛みは熱さと同じで、火傷が酷すぎると痛みを感じなくなるものだというのと同じように、あまりにも酷い怪我は痛みを感じなくなるのだと知る。
ああ、これが死か。やけに冷静な頭でドラクルは思った。
冷静になれるのは、吸血鬼が一度や二度くらいならば、死んでも生き返ることができる生物だからだ。薔薇に囲まれて眠る死体が甦った魔族だと伝えられる吸血鬼の特質は、その再生能力。その能力は死さえも超える。
けれど、問題が全くないわけではなかった。吸血鬼の再生能力はその本人の持つ魔力の強さと、死に至った時の肉体の破損率が影響する。吸血鬼と言うだけあって出血にも弱く、また病死は蘇生可能範囲外だ。
そして、蘇りには自分自身の力だけを必要とするのではなく、外部からの助けが必要だ。他者に目覚めを促されて、初めて生き返ることができる。そして甦らせる側も死者に自らの力を分け与えるのだから、少なくはない犠牲を払うこととなる。
だからドラクルは思った。
私が一度死んだら、もう目覚める事はないかもな。本当の意味で私を必要とする存在など、この世には、いない。
◆◆◆◆◆
事の始まりは、ブラムス王からの命令にある。その内容は、国の西側の大森林を見回ってほしいという依頼だった。
「西、ですか?」
「ああ。そうだ。エヴェルシードやカルマインと国境を接する辺りなのだが、最近そこに盗賊が出るようになったという話だ」
「盗賊……?」
謁見の間に呼び出されて、ドラクルは膝を着きながらブラムス王より命令の詳細を聞いていた。漆黒の壁に緋色の絨毯が敷かれた部屋の奥、黄金に薔薇の透かし彫りの装飾が施されている玉座に坐した王は、忌々しげな顔をしながら説明する。それを聞くと、どうやら彼の苛立ちというのはドラクルにではなく、その話題に出てきた盗賊の方へと向けられているらしい。
「ああ。そうだ。規模は大体二十人程度らしいが、とにかく強いらしい」
「人種は?」
「ヤツラの髪の色は蒼に赤に橙、それから緑も一人いたとか」
「エヴェルシードにカルマインにルミエスタ、セラ=ジーネですね。他に様子は」
エヴェルシード、と聞いてドラクルの胸には引っかかるものがあったが、それを表に出すわけにもいかない。何食わぬ顔で会話を続けようとしたが、玉座に座る王は軽く手を振って合図をした。近く寄れ。
ドラクルはつい一瞬顔をしかめてしまったが、それでも断りを入れて立ち上がると、父王の傍らにまで歩み寄った。
「蒼の人数が半数を占める。ルミエスタやセラの人間はほんの一握りだ」
「……この国に一番近いのはエヴェルシードですから当然とも言えるでしょうが、ごろつきの集まりにしても随分人種に偏りがありますね」
「ああ。それにな、遭遇した者の話では、ヤツラ、エヴェルシードでなくともどこか共通して、訓練された人間の匂いがしたらしい」
「訓練……軍人ということですか」
ドラクルは顔をしかめた。
「エヴェルシードは多分そうだろうな。そして残りの者たちが傭兵崩れといったところか。あのエヴェルシードの兵では、個々の能力値は高くても基本的に戦いを知らぬ我国の者では勝てぬ。そこでドラクル、国一番の剣の使い手と名高いお前に命じる」
ブラムス王は側近く侍ったドラクルの顎に手を伸ばすと、その顔を自らの方へ仰のけさせながら言った。
「西の森の盗賊を退治て来い。王宮警護の兵をそれように編制して討伐隊を組む。彼らを率いるのは、お前だ、ドラクル王子」
ローゼンティアには軍というものが存在しない。そのため、こんな時は差し向ける人手に困る。王宮の警備兵をそのために特別手当を出して一時的な討伐軍として組むのだが、その指揮官を誰にするかが問題だ。
ドラクルは主に宰相のような立場で国政に関わることが多いが、剣の腕も人並み以上に立つ。第一王子という立場は、多くの者の上に立つのにも打ってつけだ。だからこそ、ブラムス王から直々に命じられた。
「はい。ローゼンティアの臣として、必ずや王命に応えましょう」
「頼んだぞ。我が息子よ」
白々しい挨拶で締めくくり、謁見の間を後にしたその足で討伐軍に任命された者たちのもとへと向かった。
国の西側は他の場所と同じように、大森林に閉ざされている。鬱蒼とした森林の背の高い木々の足元には荊がひとの背の高さほどにまで伸びて檻のように道を塞いでいて、とうてい只人が入ってこられるような場所ではない。
やるべきことを終わらせるのは、早い方がいい。そう思ってドラクルは、的確すぎるほど的確に指示を出し、命令を受けたその日には討伐隊の面々を率いて、王城から幾つものを街を越えた西の森にいた。……もしかしたらそれは、命令を遂行するために早く現地へと赴いたというより、少しでも公然とブラムス王と顔を合わせなくてもいい時間が欲しくて、それでさっさと城を出てきたのかもしれないけれど。
それでも仕事は仕事だと、ドラクルは湿ってやわらかくぬかるみかけた土の上を、馬をゆっくりと歩かせる。
大森林の木々は背が高く、その枝に葉を鬱蒼と茂らせる。ひとの眼に黒と見紛うほどに濃くその緑が映るほど重なる葉陰のせいで、この森は年中薄暗く、陽光が届かない。そのためいつも土が湿っていて木々の幹にはどれも黴が生えている。苔むしたその巨大な森の中を、薔薇の甘い香りが常に満たしているのだからなおたまらない。
国外からの侵入者を阻む荊も、ローゼンティアの住民であるドラクルたち吸血鬼に対しては別だった。彼らが進もうとすると、荊の方で勝手に蠢き道をあける。
ここは魔族の住まう国。
ドラクルたちには何でもないことだが、たまに人間の旅人がこの国を訪れるたびにそんな光景を見ては驚く。吸血鬼と人間の間には隔たりがある。普段は意識しないそれを、そんな風に時折つきつけられるのだ。
所詮ひとはひとの鏡である。ドラクルたちは吸血鬼だが、意志を持ちその疎通が可能な生命体であるならば条件は人間と変わらない。その最低限の要素だけを胸に持って世界を見つめると、光の反射によってものが見えるという仕組みのように、ひとは自分をその相対するひとからの反射を通して知るのだと気づく。
生活習慣も文化も身体能力値も思想も何もかもが違う。相手を自分と同じだと考えるのは浅はかだ。自分以外の存在はどこまでいっても他者であり、それに理解を求めるなど実に愚かなこと。
それを、ドラクルは九年前に知った。ヴラディスラフ大公フィリップと王妃クローディア。二人はブラムス王に恨みを持ち、その復讐のために正統な後継者ではないドラクルに王位を継がせたかったのだ。だがドラクル自身は……
そんな形で復讐を望んだのは、両親であってドラクルではない。彼の望みではない。それでも今ドラクルが他国の力を利用してまでローゼンティアを簒奪しようとするのは、両親のこととは関係ない、ただドラクル自身の恨みのためだ。
本当の意味で、他者を意のままに動かすことなどできようはずがない。相手は自分とは違う瞳で世界を見ている。
「殿下、こちらに不審な痕が」
「どこだ?」
討伐隊に選ばれた兵士たちは、常にはないこの事態の解決役に抜擢されるだけあって皆真面目で優秀だった。いくら向こうは二十人がかりとはいえ吸血鬼族が退けられないほどの腕前を持つ盗賊を退治しなければならないのだから、その責任は重大だ。
一行の中には、ドラクルの部下であるアウグストも混じっていた。本来カルデール公爵である彼は自分の領地でもないこの場所で起きた事件など管轄外なのだが、ドラクルの秘書官として自ら志願してこの場に赴いている。それだけでドラクルの負担は、大分軽くなる。
「やはり、誰か人間が足を踏み入れたようですね」
討伐隊の人数は二十人。吸血鬼の身体能力は人間とは違うので、本当はもっと減らしても良かったのではないかと言われたが、それでも一度勝てなかったという前例がある。それに相手が最強の軍事国家であるエヴェルシードの軍人が多いというのならば、一応の警戒も必要だろうとこの人数を揃えてきた。
薔薇の茂みの陰に残る落し物。地面から盛り上がった、苔むした木の太い根を踏んだ泥の痕、焚き火をして消した後の、綺麗にならされた地面。森の様子からは、確かにこの場所に誰かが侵入した形跡が見て取れた。
「どうやら相手が近いようですよ」
そんな話をしていると、唐突にその時はやってきた。人の気配を探して歩き回った森の中で、ドラクルたちは見事に盗賊たちを見つけ出し鉢合わせてしまったのだ。
はじめこそ驚いた反応を向こうもしたものの、すぐに我に帰り戦闘体勢に入ったのはさすがと言うべきか。
彼らの動きは、一部その辺りのごろつきと変わらない者が交じるものの、報告どおり大体が訓練を受けた軍人のものだった。
「奴らを捕らえろ!」
そして号令をかけたドラクルの声に、中の一人が微かに反応を見せる。
そういうことか、ドラクルは納得する。もともと、この話を聞いた当初からどこかで考えていたことだった。
盗賊たちを取りまとめる首領らしい一人は、ローブのフードを目深に被っている。その体格はむくつけき大男やら不健康に痩せ細った人相の悪い男たちが集まる一行の中ではすらりと細身の小柄とさえ言えるようで、しかも彼が顔をあげた一瞬に見えた髪は藍色で、瞳の色は朱金だった。蒼い髪に橙色の瞳を持つエヴェルシードの民でも、その色は珍しいのだと言う。
まさか、国唯一の王子様が自らお出ましになられるとは。皮肉に、ドラクルは奇妙に口元が歪むのを感じる。正統な第一王位継承者のロゼウスをおかいこにしてくるみこんでこういった戦線をドラクルに任せるローゼンティアとは、なんという違いだろう。勿論守られるべき王子の立場や性格にも違いはあるのだろうが。
盗賊を率いていた男は、先日顔を合わせたばかりの少年、エヴェルシード王子のシェリダンだった。向こうもドラクルの姿には気づいたようだが、確信までには至ってないらしい。先日の対面と今回の討伐遠征とでは、ドラクルは少し髪型を弄っている。
それにローゼンティアには、この顔は多いのだ。全く同じとは言わないがドラクルはブラムス王に似ていて、その理由はブラムス王とドラクルの実父ヴラディスラフ大公フィリップが双子の兄弟だからだ。その父親たちを持つ従兄弟同士の関係であるドラクルとロゼウスも、兄弟と言って疑われたこともない。シェリダン王子はドラクルとブラムス王の両方に会ったことがあり、ヴラディスラフ大公が王弟だとも知っているだろう。
そして事態をややこしくすることには、吸血鬼の長命による特質がある。成長期の終わりごろから身体の老化が緩やかになる吸血鬼は、実年齢と外見が釣り合わない。ブラムス王は人間で言う三十代にも見えないし、ドラクルだって二十歳前で充分に通じてしまう。
それでも全員ドラクルの部下ならばまだしも、王宮警備の兵で構成されたこの討伐軍の前でシェリダンに正体を明かすわけにもいかない。むしろ、それでなくともドラクルはエヴェルシードの王子であるシェリダンに、馬鹿正直に正体を明かす気などないのだ。
「やってしまえ!」
向こうも覚悟を決めたようだった。シェリダンが恐らく正規の彼の部下だろう、盗賊の振りをする兵士たちに指示を出す。もともとローゼンティアへの攻撃はドラクルがシェリダンに持ちかけたことであり、それが失敗してもエヴェルシード側にはこれといった不利益はないのだし、ここでドラクルごと殺しても問題はないと考えたのだろう。
恐らくドラクルとの取引どおりローゼンティアへ攻め込むならどうするのが一番いいか、盗賊を装った軽い襲撃で魔族と呼ばれる特殊な生き物である吸血鬼の様子を探りに来たのだろうが、それを無にする決断が一瞬でできるところがこの王子の優れたところなのだろう。あの同盟に関しては、もしもドラクルが取引相手ではなくまったく関係のない相手だとしたら、万が一にでも露見すれば両国の存在を危うくする事実だ。それこそ理由のない喧嘩を売ってきたとして、二国は泥沼で益のない争いに突入する。そうならないためには、この場で決着はつけておかねばならない。
ドラクルの指示で討伐隊は馬に乗ったまま剣を抜いて動き出し、盗賊たちもこちらに向かってきた。
突然の争いによって森の中は戦場に変わる。馬の蹄に引きちぎられた草の青臭い匂い。うっかりと荊の茂みに触れたマヌケなごろつきあがりの悲鳴も聞こえる。
難なく二人を倒したドラクルの目の前に、フードを被った細身の影が立ちふさがった。たびたびフードの下から覗くのは、炎そのものの朱金の瞳だ。
すでに幾人かの敵も味方も馬を失っている。ドラクルとシェリダンも例外ではなく、剣を合わせるうちに両者とも馬を失った。ドラクルの場合は馬を斬られ、そこから飛び降りる際に仕掛けた攻撃を避けるために、シェリダンは自ら地面に降りた。そのまま息継ぐ暇もなく仕掛けてくるシェリダンの攻撃をいなしながら、ドラクルはこの事態をどうやって切り抜けるか考える。
その時だった。
「殿下!」
シェリダンは美貌で知られた彼の母譲りの容姿の割に、人間にしては腕が立つ。その相手で手一杯だったドラクルに、背後から別の兵が迫った。――――避けきれない!
「がはっ……!!」
「ドラクル様!」
無防備だった背中から一突きされて、正面にいたシェリダンの頬にも降りかかるほど盛大に血を吐いた。
アウグストの悲鳴のような声が自分を呼ぶのを、ドラクルはどこか遠い場所で聞いていた。全ての感覚が遠ざかり、闇に沈み、いずれ何も見えなく聞こえなくなる。痛みは熱さと同じで、火傷が酷すぎると痛みを感じなくなるものだというのと同じように、あまりにも酷い怪我は痛みを感じなくなるのだと知る。
ああ、これが死か。やけに冷静な頭でドラクルは思った。
驚いたのは、彼と剣を合わせていたシェリダンも同じようだった。まだドラクルが自分の先日の取引相手本人か確信がなかったためだろう。ドラクルが刺された瞬間、同じように目前でぎょっとした彼は、その口で退却命令を叫ぶ。
「撤退だ!」
「ですが!」
「いいから、とにかく退け!」
このまま戦っても意味はない。どころか、ドラクルは重傷だ。敵の指揮官は倒されたと叫ぶ彼の声に応じて、盗賊たちは撤退していく。討伐隊に関しては、事情を知るアウグストが迂闊に盗賊を追わぬよう指示を出した。
そして、自分こそ怪我でも負ったかのように蒼白な顔をして、地に伏したドラクルの元へと駆けつける。
「ドラクル様!」
吸血鬼にいくら甦りの力があるとは言え、万能ではない。死から甦る者自身の魔力や、甦らせる者の魔力、肉体の破損率。諸々の条件が重なってようやくそれはなる。だから、思う。
私が死んでも、私の死を嘆く者も、私を甦らせる者もいないかも知れない……。ドラクルは自らを刺し貫いた一撃が、体内の重要な臓器のことごとくを傷つけていったのをわかっていた。傷の状態が酷い。痛みすらもう感じない。
どんなに足掻いたところで、死とはこんなにも簡単に訪れるものなのか。
「ドラクル様、しっかりしてください! ドラクル様……!」
叫ぶアウグストの声を聞きながら、ドラクルの意識は死と言う名の闇に堕ちた。
◆◆◆◆◆
灰色の空の下、穏やかな風が吹いている。僅かに明るく、けれど光の射さない花曇の季節だけは、吸血鬼でも昼間でも外に出る事ができた。
昼と夜では、見るものの様子が何もかも違う。表と城の内側でも違うけれど、深夜の庭園と真昼の庭園は、それを初めて知る者には信じられないほどの差があった。
――お前はいずれ、この国を継ぐことになるのだから。
薔薇の色が違った。乾いた風に香るその甘い匂いが違った。夜のように周囲の闇と同化しない灰色の昼の空は、思ったよりもずっと高い位置にあった。世界は自分がこれまで思っていたよりも広かった。
ドラクルの肩に手を置いて、父王は言った。
――いろいろなものを見て、いろいろなことを知らなければいけないよ。
少し離れた場所で、アンリがまだ小さい弟のヘンリーの面倒を見ている。ドラクルの妹のルースは何が楽しいのか茂みの側で一人遊びに耽り、アンとミザリーは手を繋いで庭園のあちこちを見て回っていた。
まだロゼウスが生まれる前であり、王もドラクルも、誰もが何も知らない頃。
――ドラクル、お前が私の息子である事は、私の誇りだ。
――はい、父上。ご期待に添えられるよう、頑張ります。
あの頃、父は優しかった。笑顔を返されて、ドラクルはますます喜びに頬を紅潮させた。
幸せだった。確かに、幸せだった。
だから、これは夢なのだ。
◆◆◆◆◆
「兄様……」
涙声に名を呼ばれてドラクルは目を覚ました。
身体が動かない。徐々に甦ってくる感覚が、自分は今やわらかい羽をたっぷりと詰め込んだ枕と布団に埋もれるようにして寝台に横たわっていることに気づかせる。鉛のように重い瞼を無理矢理持ち上げると、そこにはロゼウスの泣き顔があった。
部屋の扉を開ける気配がして、仕事を終えたらしき侍女が出て行く。よくよく見ればロゼウスの背後の天蓋は自室の寝台のもの。いつも通りの自分の部屋だった。なのに、そこに漂う空気は違う。ロゼウスが紅玉の瞳に涙を溜め込んでいる。
「ロ…ゼウ、ス」
「……良かった。もうこのまま、ずっと目覚めないのかと」
不安な泣き顔から、ゆっくりと微笑へと変わるその表情を眺めながら、ドラクルはぼんやりと何があったのか思い出そうと試みた。まだ頭の芯がはっきりせず、自分がどうしてこのような状況にあるのか理解できていない。しかし。
「父上も今まで、ずっとここにいたんだ」
ロゼウスの言葉に一気に頭が冷え、全ての記憶が蘇ってきた。
「私は……ッ、くぅ……!」
飛び起きようとすると、胸部を中心に激痛が走った。目の前が黒と赤に眩む。
「動かないで。傷が深いんだ。ようやく意識が戻ったばかりなんだから、大人しく……」
身を起こそうとするドラクルの上体を押さえ込み、ロゼウスはゆっくりとその身を再び寝台に横たえようとする。腕を伸ばしてそれを制し、なんとか上半身だけは起こした状態で、ドラクルは状況説明を唯一この場にいる弟に求めた。
「兄様は、森に出たっていう盗賊を討伐しに行って、刺された。それで……一度死んだんだよ。その後はカルデール公爵の指示で討伐隊は動いて、盗賊に関しては取り逃がしたんだけれど、隊の者たちは全員無事に城へ戻って来た。それで、兄様の蘇生をした」
吸血鬼は人間とは違う。尖った耳や老化の遅い外見上のこともそうだが、何より特徴的なのは死んでも甦ることができる、という魔族の中にしても稀有なその性質だった。もちろん死者がなんでもかんでも生き返るわけではないが、条件さえ揃えば、一度生命活動を停止した肉体の蘇生は可能だ。若者や身体の頑丈な者ならなお回復しやすい。
「……隊の者たちは無事、か。馬は数頭失っただろうが」
「うん」
「アウグスト……カルデール公爵はどうしている?」
「公爵は昨日までは城に留まって後始末をしていたんだけど、今日は流石に領地の方へ戻ってる。兄様の目が覚めたから、さっき使いをやったよ。後で来ると思うけど。兄様がいない間の仕事はルース姉様とヘンリー兄上が肩代わりしてたよ。討伐隊の兵たちは、兄様の戦いぶりはとても見事だったって。それから――」
「ロゼウス」
平静に見えて軽い興奮状態にあるのか、泣き笑いの表情のままつらつらとしゃべり続けるロゼウスの言葉を遮って、ドラクルはそれを尋ねた。
「私を甦らせたのは誰だ?」
吸血鬼は人間とは違う。死んでも甦ることはできる。だがそれは、どんな状況下でも蘇生可能というような、都合の良いものではない。
死者の蘇生に関する重大な要件の一つに、蘇生させる側の存在が必要となる。必ず吸血鬼でなくとも構わないが、死者に自らの命を分け与え、その覚醒を促す導き手だ。
この能力は誰もが持ちながら、誰にでも使いこなせるものではない。そしてロゼウスの母クローディアの生家であるノスフェル家の地位がローゼンティア国内において高いのは、それが関係していた。ノスフェル家は死者蘇生の術に長けた一族なのだ。
だから。
「俺です。ドラクル兄様」
寝台脇に椅子をおいて座っていたロゼウスが、ドラクルの膝に身を伏せる。
「良かった……生き返ってくれて」
それを聞いて、ドラクルの胸に湧き上がるのはまず喜びより憎しみよりも、もっと複雑な感情だった。
「お前、が」
ノスフェル家の王子、ロゼウス。世間には知られていないが、ブラムス王の、正統なる後継者。真の第一王子。
そのロゼウスが自らを甦らせたことに対し、ドラクルは。
「くっ……くくく、ははははは」
「……兄様?」
なんという皮肉。
笑いが止まらない。身を震わせるたびに治りきらない胸の傷に痛みが走るのに、それでも喉から、自然と嘲笑が込み上げる。
「馬鹿だ、ロゼウス。お前、なんで……」
止まらない笑いとは対照的に、言葉は続かずに途切れる。ああ、なんて愚劣、なんて滑稽、なんて皮肉。馬鹿だ、馬鹿だよ、お前も。
私も。
「何をやっているんだ? お前は。放っておけば良かったろう。私など。私が死ねば、もう何の問題もなくこの国はお前のものになる……」
「ドラクル? 何を?」
彼の言葉の意味がわからないのだろう、ロゼウスは訝りに眉根を寄せている。ローゼンティアの王位継承権は表向き第一位がドラクル、二位は第二王子のアンリが持っている。その次がロゼウスであるのに、ドラクルが死ねば全てロゼウスのものになるなどと。
何も知らないロゼウスの言葉は、もはやドラクルの胸に燻る火に、ゆっくりと油を注ぐだけにしかならない。じわじわと勢いを増して消えないその日が、国一つを包むほどの業火になって全てを飲み込むのは、決して遠い日のことではない。
けれど争いの火種が巻かれるのも、ドラクルが生きていればこそ、だ。
「一体何故、お前は、私を――……ッ!」
歪な笑いが続くはずだったドラクルの言葉が再び途切れる。しかし今度はただ途切れるのではなく、慌てて喉と口元を押さえた彼の口からは、目覚めた途端のこの行動で開いた傷口から込み上げた血が零れていた。その色は、ぞっとするほどに黒いものと、鮮やかな朱色が交じっている。
「っ、もう喋るなドラクル。肺や内臓が幾つも傷ついているんだ、安静にしていないと」
「うるさい! 離せ!」
悲鳴を上げる身体の痛みを無視して叫び、ドラクルは無理矢理ロゼウスの腕を振り払う。
「他の誰の手を借りても、お前の助けなど必要ない!!」
もうたくさんだった。
もう、こんな惨めな思いは。
けれどそれを完全に振り切ることを、ロゼウスの方が許さない。
「ごめん」
普段から裏表のあるような顔を見せないロゼウスだが、それは形だけの謝罪だとドラクルにもわかった。しかし彼がその意味を考えるよりも、ロゼウスが行動に移る方が早い。
「ん……っ!」
眠り姫の目を覚ますのは王子様の口づけと相場が決まっている。だからというわけでもないだろうが、吸血鬼の口づけには魔力が宿っている。
ロゼウスは自らの唇を、ドラクルの血に濡れた唇に押し当てた。手首を掴んで動きを封じる力が有無を言わせず、柔らかなそれが触れた瞬間に、自らの中に力が流れ込んでくるのがわかった。
だからこそ、渾身の力をこめてドラクルはロゼウスを突き飛ばす。けれどその頃にはもう遅く、ロゼウスの魔力によって、ドラクルの負った傷はその殆どが跡形もなく消えていた。内側の痛みも残らない。
理解したその瞬間、ドラクルは行動に出ていた。カッと頭に血が上るのと同時に、ロゼウスを殴り飛ばす。
ドラクルだとて一般の兵士以上に鍛えている。決してひ弱ではない。さすがに体格の違う相手に思い切り殴り飛ばされたロゼウスは、樫で作られた重たい椅子ごと床へと吹っ飛ぶ。先程のドラクルの吐血とは違い、口の中が切れたためだろう、血が口の端を伝っている。出血に弱い一族だと言うのにこんなことで流血して、一体何をやっているというのか。
無様だった。たまらなく惨めだった。
「やめろ……」
命じるドラクルの声も、身体も震えている。ロゼウスのおかげで傷は綺麗に消え去っているが、それでもまだ、胸の奥のどこかがいたい。それでも? いや、むしろそれだからこそと言っていいだろう。
あのまま、死んでいくのを放っておいてくれれば良かったのだ。
「やめろ。私に触れるな。関わるな。目の前から消えろ」
「兄様……」
「お前など顔も見たくない。死んでしまえ、いや、生まれてこなければ良かったんだ!」
それだけは言ってはならない言葉が口をついて出る。だが、ドラクルは自分を止められなかった。
顔をあげたロゼウスは、ただただ呆然としている。傷ついた素振りも見せないのは、事態をよく飲み込めていないからのようだ。
この十年、ずっと耐えてきた。それまで十七年間父だと信じていた王からの虐待にも。そして何も知らない周囲の眼差しの純粋さにも。追い詰められた弱い心がこの弟に同じ虐待を繰り返すその虚しさにも。
まだ耐えろというのか。
そして生きてこの目で見ろというのか。自らが廃嫡とされ、それまで持っていた全てのものがロゼウスの手に渡る瞬間を。
「私は、お前が嫌いだ」
「兄様……」
「お前がいるから。だから、私の存在価値が奪われる。お前が生まれてきたから私は要らなくなった。……お前さえ、いなければ良かったのに」
ロゼウスの存在は、ドラクルにとって墓標を眺めているようなものだった。その十字架の足元、墓碑には自らの名前が刻まれている。
正統なる血を引く男児であるロゼウスが生まれた時から、王子としてのドラクルの存在価値は全くなくなってしまった。この世に、存在する意味がなくなってしまった。ロゼウスがいれば、ドラクルはいらない。
これが、ロゼウスが生まれなければ事情はまだ違っただろう。ドラクルには王になりうるだけの能力がある。エヴェルシードほど厳格な男女差はないが、正統な実子でも王女であるアンと比べてしまったら、王弟の子息である男子のドラクルの方が能力的にも上であり、王となれる可能性は皆無ではなかった。
けれどロゼウスと比べてしまったら、ドラクルに勝ち目はない。正統な血をひく男子で、その潜在能力はドラクル以上。どんな理由があったら、この「弟」を追い落として自分が王位につけるというのだ。
「お前なんか嫌いだ」
表面を取り繕うのは得意なはずだった。腹芸の一つもできねば政治の世界になど入り込めない。
なのに、これまでどんな相手にも冷徹で鋭い皮肉を冷静に返して来れたはずのこの唇が、今紡ぐのは子どものように稚拙な、感情を示すだけの言葉ばかりだ。
片膝を立てて身を乗り出したままの寝台がぎしりと軋む。音のない部屋にそれは思いがけず大きく響き、合図のように、ロゼウスはゆっくりと立ち上がる。殴り飛ばされて腫れてきた頬に軽く触れる。再生能力の強い吸血鬼ならもう数分でそれも消えてしまうだろう。
だが、ドラクルが彼を殴り飛ばした事実は消えない。
消えないのに。
「俺は兄様が好きだよ。兄様が……ドラクルが好きだよ。誰よりも」
ロゼウスは寝台の端へと寄ってきて、ドラクルへと手を伸ばす。怯えたように震えた指先がそれでも触れる。
ドラクルの濡れた頬に。
「ドラクルが好きだよ」
それはどういう意味での好きなのか。家族として、王族として、男として、兄として。
それとも、ドラクルという存在として?
「馬鹿だお前は」
馬鹿だ、馬鹿だ。それ以外に思いつく言葉がなく、ドラクルはただ繰り返す。ロゼウスは馬鹿だ。自分を虐待していた兄に、かける言葉が違うだろう。
先ほどのあの腕力、いくらこちらが重症患者とはいえ、大の男を軽々と押さえ込む力があるならばどうしていつも抵抗しなかった。本当はできたのだろう? お前の力なら。
――ねぇ……ロゼウス。
――何?
――私のこと、好きかい?
――……うん。俺は、兄様が大好きだよ。
何故頷くんだ。いちいち、それこそ馬鹿の一つ覚えのように。憎めばいいだろう。初めの一度こそ騙し討ちで頷くように誘導しても、二度目からはその言葉の先に何があるかわかっていたはずだ。嫌だ、と、お前なんか嫌いだと叫んで逃げれば、そして内密に父王にそれを報告すれば避けることができたはずのこの手に、どうしていつも応えた。
と、そこまで考えてドラクルは、それがまるまる自分にも当てはまることに気づいた。夜毎繰り返されるは忌まわしき行為。父王の寝室に招かれるたびに触れてくる手を、自分は本当は拒否できたのではないか?
できるはずのそれができないのは、どうして。
「……愛しています、兄様」
ロゼウスは触れたドラクルの手を閉じ込めて、祈りのように指を組む。二人は顔立ちだけでなく、白い指の形も良く似ている。折りたたまれたその指は、果たしてどちらのものなのか。
ロゼウスはドラクルにとって、美しく残酷な荊の墓標。
どちらかが生きれば、どちらかの存在は不要となる。決して同じ場所に存在することなどないのに。
「ずっと一緒にいてください……兄様」
懇願する声の切なる響きが、ドラクルの胸をあまやかに裂いた。