薔薇の闇は深く 03

012

「連絡がついたか」
 双眼鏡を目から外して、シェリダンはそう傍らの家臣に確認する。従順な部下は優雅に跪くと、事の次第を報告し始めた。
 ローゼンティアとエヴェルシードの国境に存在する森の中だ。年明け早々実父を幽閉して無理矢理にその王位を奪い取った若き国王シェリダン=エヴェルシードは、国境に待機させるには多すぎるほどの兵士をすでに配置していた。
 ここまで大人数を友好国の国境に配備するなど普通は考えられないものだが、薔薇の国と呼ばれ、荊の這う大森林に国を囲まれて他国の動向にそれほど強い感心を持たないローゼンティアからは、何も言われることがなかった。地形か、吸血鬼の習慣か、それとも先日ヴラディスラフ大公と名乗った取引相手が手を回した結果か、詳しいことはわからないが、とにかくこの国境に軍隊を配置することについて、ローゼンティア側からの咎めはない。
 すでに先日、吸血鬼の生態と能力を攻め込む前によく知ろうと、盗賊としてこの国に潜り込んだシェリダン自らの案内で彼らはこの地にやってきた。合図があれば、すぐにでも攻め込めるようになっている。
「それで、本物か」
「はい。先日と同じ筆跡、同じ紙に形式、間違いないものだと思われます。可能な限り早く、ローゼンティアに襲撃をかけてほしい、とあります。……いかがいたしましょう?」
「早く、か」
 渡された手紙、伝書鳩の足に結び付けられていたそれに目を通しながら、シェリダンが複雑な顔をする。
「あの男……確かに先日の戦いで、死んだと思ったのにな。別人だったのか? いや……吸血鬼など、よくわからんな」
 苛烈な気性を備えたエヴェルシードの少年王は、口元に指を当ててそう思考を零す。確かにあの時、部下の剣にかかって死んだ相手は先日の取引相手に見えた。だが人間と交わらず国内でだけ婚姻を結ぶローゼンティアの性質上貴族間で似た顔などよくあるという。はっきりとした事は言えない。
「まぁ、どちらにしろ、この国を侵略するという目的は変わらないが……もらうぞ、ローゼンティア王国」
 薔薇に閉ざされた国とはいえ、使い道などいくらでもある。これまでは友好関係を保っていたが、シェリダンの父王はすでに玉座から引き摺り下ろされた。
 そもそもシェリダンに言わせれば、このローゼンティアとわざわざ友好関係を維持して何があるというのだ。手を結ぶことに特に旨味のある国ではないし、いくらヴァンピルの身体能力が戦闘向きで高いとは言っても、数ならば比較にもならない。さっさと侵略してしまえばいいものを。
 欲しいものは力尽くで奪え。それがエヴェルシードの原則だ。
「あの憎しみに歪んだ目をした男は、多少私と同類の匂いがしたがな」
 本当は取引など端(はな)からする気はない。隙を見せる相手の方が悪いのだ、とエヴェルシードは今にもその領土を侵そうと、ローゼンティアを包む大森林に足をかける。双眼鏡で見ても遠目に争いが起こっている様子もなく、先日ヴラディスラフ大公と名乗った男が国内でどのような役割を果しているのかは謎だが、街並みに警戒されている様子もないのだ。攻め入るのに不都合はないだろう。
シェリダンは兵士たちに指示を出した。

 ◆◆◆◆◆

 身体が重い。傷が癒えきらない。このまま何事もないように振る舞い動き続ければ、遠からず自分は死ぬだろうという確信が彼にはあった。いや、「死ぬ」という表現は正しくない。死んでも生き返る吸血鬼にとってそれがさほどの重みを持たないと思われるのならば、こう言うべきであろうか。「消滅」と。
 次に人間的な致死量のダメージを食らったならば、それが恐らく最後だろう。
 彼にはわかっていた。それでいて、甦ってもまだ残る首の傷を治す気はなかった。そのせいでいつも息苦しいような、痛いような違和感に悩まされるが、吸血鬼の甦りは万能ではないのだ。一度死の淵に落ち込むような傷を受けて即座に全ての負傷をなかったことにできるような、そんな強力な能力者は通常いない。
 だからドラクルの怪我を一瞬で治療して見せたロゼウスの能力は特別なのだが、彼はそのことを知らない。
「ロゼウス」
 目当ての者の前に立ち、彼は口を開いた。
「父上」
 見上げてきたロゼウスが驚いたように目を瞠る。
「父上、どこかお怪我を?」
「いや。大したことではない。それより……エヴェルシードが攻めてきた。お前も知っているな」
「はい」
 ローゼンティア城内は朝から騒がしい。国境付近の領地を治める貴族から、これまで友好関係を保ってきた隣国がローゼンティアに向けて軍隊を差し向けているという報告を受けたのだ。
 人間の世界を騒がせる侵略という言葉を普段意識することもないローゼンティアの民はすっかり浮き足立ってしまった。この国唯一の城、王城はこの国の要だ。王族たちは一階の広間や各階の重要施設に詰めて敵の襲撃に備えている。
 ここ、黒い床に紅い絨毯を敷き、白い薔薇を飾られた謁見の間でもそれは同じだった。城内を捜し歩いて、ようやくのことで第四王子を見つけたブラムスは、細い姿を見つめながら息を吐く。
「ロゼウス。ドラクルは?」
 その言葉に、ロゼウスは眉を曇らせた。城内の混乱が大きい理由に、現在第一王子が行方不明という事実がある。
 王太子のドラクルは、その有能さでこの国を支えていた。国王がおらずともドラクルさえいればその事態に適切な処置をすることができると信じられていたはずの王子が、今は雲隠れしてしまっている。ますます不安になる民や他の王子王女たちを宥めて対応したのはロゼウスであり、彼は国の最後の砦であるこの謁見の間にて敵を迎え撃つと決めている。
「兄さ……ドラクル兄上は現在……」
「いないのか。わかったよ」
 困った顔のロゼウスの報告を軽くいなして、ブラムスは話の先を変える。
「父様?」
 ロゼウスの頭に手をおき、そっと撫でた。そして耳元で言い聞かせる。
「ロゼウス、ドラクルのこと好きかい?」
 問いかけながら、ブラムス王は自らの胸の内を探っていた。私はどうだった? あの子が好きだったか? ……ああ、大切だったよ。あの子にならこの国を任せても心配ないと、ずっと信じていたのに。
 確かめるまでも無くわかっていたことではあるが、こんな事態になってもなお、ブラムスの中にドラクルを憎む気持ちは見当たらない。
 自らが傷ついたことを理由に他者を傷つけて良いわけではないが、裏切られたのは確かに彼も同じだったのだ。いろいろと複雑な感情を抱え込まされもしたが、それでも。
「……はい」
 何の屈託もてらいもなく、とはさすがにいかない。僅かに陰の差した表情で、しかしはっきりとロゼウスは頷いた。
「そうか。ならば支えてやってくれ。助けてやってくれ。あの子を」
 その声には、限りない愛情と、祈るような響があった。実の息子であるロゼウスさえ、ブラムスからそんな声を聞かされたことはない。
「……父上?」
 頼む、と今にも消えそうなほど弱弱しい囁きで懇願する父の様子に、ロゼウスは不審を覚えた。けれどそれを言葉にする暇もなく、ブラムスは彼から身体を離す。
「来るぞ、戦乱の国、エヴェルシードが」
 扉の向こうから響く大勢の足音に意識を集中して、鋭い視線を向けた。

 ◆◆◆◆◆

 大勢の人間の気配が王城へと接近する。ローゼンティアには存在しない軍隊。エヴェルシードが自国を蹂躙しようとするのを、ドラクルは離れた場所から見ていた。
 地下組織に手を回させて確保した隠れ家の一つである。ここならばエヴェルシードにも見つからない。小高い丘の上にあり木々に埋もれた見つかりにくい小屋。その表に立ち、ドラクルはアウグストとルースと共に、自らが呼び寄せたエヴェルシードの軍隊がローゼンティアに侵入するのを見下ろしていた。
「いいのですか?」
「最終確認か? アウグスト。それも、何に対しての?」
 くす、とドラクルは笑う。かろやかなその様子に不自然な箇所は無く、紅い瞳に陰湿な影はもはやない。
 けれど、闇の中で生きる吸血鬼たるアウグストでも知っている。
 影とは、光があるからこそできるものなのだ。今のドラクルにはそれまでどれほど打ちのめされようとも微かに保たれていた光がない。その姿全体が、影そのものになってしまっている。影が影を背負おうともそこにはただ闇が広がるばかりだろう。
 そしてローゼンティアは滅びる。
「……尋ねたいことは山ほどあります。ブラムス王に止めをささないまま来てしまったけれどよろしいのでしょうか。今から滅びるこの国はあなたの祖国ですが本当に滅ぼしてよろしいのでしょうか。あなたと同じくヴラディスラフ大公と王妃たちの間に生まれた王子王女、つまりあなたの御兄弟の皆さんがまだ王城に残っていますけどよろしいのでしょうか。エヴェルシード軍にはとにかくローゼンティアを侵略しろと伝えているだけで、王城を陥落するまでに通った街々で彼らが無辜の民にどんな非道をするかも予測できないのですがよろしいのでしょうか。……だけど今のあなたには、もう何を言っても無駄なのでしょうね。ドラクル様」
 静かな声でアウグストはそう締めくくる。
 彼は何があってもドラクルについていくと決めたのだ。そこに正義も善悪も関係ない。ただ昔受けた恩を返したいという思いがあるのみ。だから、ドラクルがやっていることが何であるかなど、アウグストには関係ない。
 けれど閉じた瞼の裏に、白銀の髪を靡かせ、紅い瞳に穏やかな光を湛えてこちらを見つめてくる青年の姿が映る。大事な友人にさえ何も話さず、アウグストはここまでドラクルについてきた。そしてこれからもドラクルを見捨てる事はないだろう。
「そう心配しなくても、ヘンリーなら大丈夫だろうさ。アウグスト」
「え?」
「あそこには……ローゼンティアにはまだロゼウスがいる。あの子がいる限り、エヴェルシードに攻め込まれてもそう悲惨な状態にはなるまい。一時的には追い詰められたとしても、ロゼウスは必ず形勢逆転してみせるよ。それだけの力はある子だから」
「……ドラクル様の弟君ですものね」
「いや、違うよ」
「え?」
「おや、これは言ってなかったかい? ……私の母は、ヴラディスラフ大公がたまたま手をつけた侍女の一人。私が王妃クローディアの子とされたのは、ちょうど同じ頃に彼女が王の子を流産したからだよ。……だから余計に、王家も王も、王子であるロゼウスも疎ましかった」
 初めて聞く話に、さすがのアウグストも顎を外しそうになっている。
 長年、実はまったく血の繋がらない間柄でありながらそれでも弟なのだと信じてきた相手のことを語るドラクルの瞳は不思議と穏やかだった。アウグストには、何よりもそれが恐ろしい。
 ロゼウスの力を一番知っているのは、彼に自らの持てる全てを教え込んだドラクル自身だ。だからこそ、彼を憎まないドラクルがアウグストにはわからない。恨み嫉妬した様子はあっても、彼にロゼウスを憎む気持ちはないように見えたからだ。
 その疑問に対する答を、ドラクルとは結局二親同じではなく、大公を父とする異母兄妹のルースはすでに得ているようだった。
「ひとってね、救われたい相手からの救いでなければね、救われないの……だからね、」
 寂しげにそう囁きながら、ルースは兄の背中に視線を移した。丘の崖際に立ちドラクルは眼下の凄惨な光景を眺めている。予定通りエヴェルシード軍は進軍を開始して街々は襲撃を受けて荒れ始めた。あちこちで火の手があがるのは、薔薇の国と呼ばれるローゼンティアはその名の通りそこかしこに薔薇が植えられているため、燃やすものに事欠かないからだ。そして吸血鬼は炎に弱く、わかりやすい地獄絵図が彼らの足元で展開されている。
 そのどんな光景を見つめても、今のドラクルは無反応だった。
「救われたい相手に救われなければ意味がないのと同じように、憎みたい相手だけを憎みたい理由があるの……ドラクルが憎むのはひたすら、父上であるように」
 ドラクルにとっての父は実父であるヴラディスラフ大公フィリップではない。そんな、エヴェルシードとの取引に偽名として使った程度の男の事など、彼は歯牙にもかけない。ドラクルがこの世で唯一父親と思える相手は、ローゼンティア国王ブラムスだけ。
 これまで散々ドラクルを弄んでおきながら、最後の最後で、彼のことすら必要ではないと思い知らせたあの父。彼だけがドラクルの父親だ。そう思うからこそ、なお傷が深くなる。
 結局誰もが見たいものを見ただけだった。それを、嫌というほど思い知る。
ドラクル自身も、ブラムスはもっと国王然とした立派な存在なのだと思っていたかった。少なくともロゼウスの実力がドラクルに勝ることを知らず、ただ血筋のみを重視して王位につけ、暗愚の王の害を民に押し付けても構わないと考えるような人物なのだとは、思いたくはなかった。
 そしてブラムスもドラクルに対して、都合の良い思いを押し付けただけだった。弟大公と自分を裏切った王妃に対しての復讐とするべくドラクルを手元に置き、それでいてロゼウスの教育を任せた彼にとって、ドラクルはきっと意志ある一個の存在ではなかったのだ。いつか自分を廃嫡へと追い込む弟王子を育てるドラクルがどんな気持ちだったのかなど、ブラムスは考えていなかったのだから。
 今になって事態を冷静になって見つめなおすたびに、ドラクルは込み上げる嘲笑を抑えきれない。なんて滑稽な茶番だったのだろう。この十年は。私がこれまで見てきたものは。私のこれまでの人生は。
 狂気の笑いを零す彼を、アウグストとルースの二人は、複雑としか言いようのない表情で見つめる。
 彼が本当に哀れな狂人なら、いっそ簡単に憐れむことができたのだ。しかしそうではない。断じてそうではない。ドラクルは全てわかってやっている。全てをわかっていて……それでも止められないのだ、この憎しみが。
 眼下の地獄を見つめながら、ドラクルはやけに淡々とした声で言った。
「ロゼウスはさぞや私を憎むだろうな」
 先だってまで固執していたのは父王で、今その唇にのぼる名前は弟王子のもの。感情を読み取らせない声音の、しかし言葉選びが何よりも雄弁にその思いを語る。
「追ってくればいいさ。ロゼウス。他の誰でもない。お前が私を殺しに来い」
 熱を帯び、恋人に睦言を囁くような甘さでそう言い切ったドラクルの表情には奇妙な恍惚がある。
 彼は狂気を抱いてはいるが、狂人と化しているわけではない。
「ドラクル様……」
 ドラクルがロゼウスにしたことは、ドラクル自身がブラムスにされたことでもある。繰り返し虐待を加え、泣かせては宥め、持ち上げては突き落とし、その存在価値までも否定し。
 だからこそ、この復讐劇を完成させるのは彼でなくてはならないとドラクルは言うのだ。
 ロゼウスがドラクルを恨み、憎み、憤怒のと嫌悪の限りを持ってドラクルを殺しに来るというのならば、その時こそドラクルがブラムス王に抱いた憎しみの正しさが証明される。それはやはり裏返してみれば、どこまでも父親に拘ったドラクルの想いの表れ。
 狂気と理性の狭間に落ち込み、深い闇の中で手の届かない場所にある光を見つめながら、ドラクルはロゼウスを待つ。そして彼に殺された時こそ、ドラクルのブラムスに対する復讐は完成する。なんて歪で滑稽な、これは喜劇なのだろう。
 ここにある闇は、深い。
「エヴェルシード軍が王城へと侵入し始めたわ」
 ルースの声が淡々と戦況を告げた。薔薇の国が炎に包まれていく。
 燃えていく街並みの中、灰になる花を見つめながら彼女は思った。
 吸血鬼はもともと魔族、人間ではない。その残酷な本性を抑えるのが、この馨しき薔薇の香り。魔力を持つと言われる薔薇は、吸血鬼の狂気を抑える力もある。
 けれど果たしてそれは、本当に良いことなのだろうか。
 吸血鬼としての本性を薔薇の魔力によって押さえ込み、地上で生活する者たちが辿ったのは結局こういった道。血筋に拘り、王制という政治の仕組みに拘り、人間に似せようとした暮らしの結果、そんな無理が生まれた。こんな性質は本来、吸血鬼が持ちえるものではなかったはずなのに。
 正統な血筋だとか、後継者だとか、玉座だとかそんなことは関係なしに、もっと素直にひとを憎むことができていたのならば、事はここまで複雑で大きくはならなかったはずだ。
 実の親子だとか兄弟だとか、そんなことは関係なしに、もっと素直に愛することができていたのならば。
 今更こんなことを言っても詮無い事だとわかっている。それでも思わずにはいられない。
 眼下では薔薇の街が燃え続ける。王城に隣国の兵士たちが雪崩れ込む。
 炎は赤色。ローゼンティアに咲く薔薇の殆ども赤。赤は吸血鬼の瞳と同じように血の色だけれど、同時に命の色でもあった。
 だからこそ、薔薇の闇は深く。
「もうすぐ、夜が明けるね」
 滅びを眼下に、絶望を胸に、その両手は父王の首を絞めた際についた赤い血に染まったまま、ドラクルがぽつりと呟いた。
 吸血鬼の眼を焼く朝の光が、世界に等しく降り注ごうとしている。

 了.