B-HISTORIA

硝子の棺

 何が起こったのか、全くわからなかった。
「気がついたみたいだね」
 声をかけられて振り返れば、そこに立っているのは見知らぬ少年のようだった。少年と言っても自分と六、七歳も違う、年頃と言った感じの少年だ。高校生らしい制服が壁にかけられている。
 その壁も、並ぶ机も自分の全く知らないものだ。ここは自分の知らない部屋、知らない場所。
「ここ、どこ……?」
 肩も背も気だるい重みに支配され、身動きすると、腹部が痛んだ。まだ寝ぼけた頭でそんなことを尋ねると、目の前の人はくすりと笑った。
「教えてあげない」
「なんで――――……っ!」
 そこでようやく気がついた。知らない人、知らない場所、カーテンの締め切られた部屋に差し込む光はなく、今がいつだかもわからない。
背負っていたはずの鞄は見当たらない。今は小学生だからと言って律儀にランドセルばかり背負うのではなく、学年が上がるにつれ適当な鞄を使う生徒が多いけれど、その鞄も見当たらない。自分はあれを持ったまま友達と公園に出かけて、規則違反だけれどあらかじめ家から持ってきていたゲーム機で遊んで帰るところだったはずなのに。
 夕暮れの空が鮮やかな茜に染まる中を家に帰ろうと歩いていて、道で誰かに声をかけられたのだった。それから…それから……!?
「あ―――ぼ、僕……」
 縋るような思いで、少年を見上げる。どうやら成長期が皆より遅いらしい自分よりずっと背の高い、声変わり後の少年だ。身につけているのは黒いシャツ、黒いズボン。艶やかな髪も瞳も黒。その黒と白い肌の中で一つだけ鮮やかな赤い唇が、言葉を紡ぐ。
「君の思っているとおりだよ」
 耳にかかる髪をかきあげながら、毒のような甘い囁き。
「君はね、俺に誘拐されてきたんだ」

 ◆◆◆◆◆

 掴みかかろうとした腕をいとも容易く捻り上げられ、それまで寝ていたベッドに体を押し付けられ押さえ込まれる。呼吸だけでも確保しようと顔をシーツから背けると、ちょうど自分を押さえ込む黒い少年の、愉悦に歪んだ笑みが見えた。猫が遊びで虫を嬲り殺すよりもっと残酷な微笑だ。
「やだ……やだ! 助けて! 誰か!!」
 場所はわからないが恐らくどこか、マンションの一室であろう部屋の、防音設備がそんなにしっかりしているはずはないけれど叫んだ声は届かない。もがくこちらの口を塞ぐでもなく、少年は冷静に告げる。
「お隣さんはしばらく留守にしているよ。他に声が届くようなところもないしね」
 堪えていた涙が溢れる。
「なんで! どうして僕なんだよ!」
 誘拐なんて殺人なんて犯罪なんて全て自分には縁のない世界のことだと思っていた。居今がいつだかはわからないけれど、対数時間前までは確かに穏やかな日常を送っていたはずなのに。
「うち、全然金持ちなんかじゃないから! 姉ちゃんの受験でいっぱいいっぱいだし、なんか特別な仕事してるわけでもないし」
「別に身代金を取ろうってわけじゃないよ。しいて言うなら、目的は君自身だ」
 そう言って彼は、こちらの体をまさぐってくる。片腕で押さえ込まれたまま、シャツやズボンの中を弄り回されて気持ち悪い。ふと、最近テレビで見たニュースが頭の中をよぎる。少女を狙った暴行事件が広まっているという。
「僕、女の子じゃないよ!!」
「そうみたいだね」
 最後の希望も、あっさりと頷かれ打ち砕かれる。下半身を乱暴に撫で回されて、悲鳴をあげた。
「いや……やぁあああ!」
「声も可愛いね」
 肌を撫でる手のひらの感触が離れたと思ったのも束の間、どこからか取り出した紐で、彼はこちらの両腕を拘束する。紐の先はベッドに固定された。
 呆然とする間に、服を脱がされる。再び、細い指先が触れた。
「楽しませてもらうよ」

 ◆◆◆◆◆

 世の中には様々な人がいる。いいひともいれば、悪い人も。素敵な人がいれば、変な人も。いい人にだけ会えればそれは幸せなことだけれど、世間には悪い人もたくさんいるから気をつけなさいと、嫌になるほど聞いていたはずなのに。
 強姦という言葉がある。まさか、自分がそんな目に合うとは思ってはいなかった。女の人は大変だなと思ったことはあるけれど、自分は男だ。しかし自分を誘拐してきた少年のように、世の中には相手が男だろうと女だろうと関係ない人間もいるらしい。
 話だけは聞いたことがある営みはもっと大人の世界の話だと思っていたのに、同性同士でしかも無理矢理犯されて痛みに意識が飛んだ。次に目を開けたときには、あの黒尽くめの少年は部屋の中にいなかった。
「あ……」
 チャンスだと思ってベッドから飛び降りようとしたが、足が何かに引っ張られる。服を着ていない素足には、太い鎖が付けられていた。一気に足の力が抜けて、立っていられなくなる。その場にへたり込んだ。フローリングの床がやけに冷たく感じられた。
 とにかく腰だけでも隠そうとベッドから上掛けを引き摺り下ろして、体に巻きつける。震える足を叱咤して立ち上がり、部屋の中を見回した。まさか鎖の鍵をそのまま置いておくようなことはしていないだろうが、何か逃げ出すのに使えるものはないだろうか。目で探して、部屋にある少ない家具の一つ、机に辿り着く。ノートパソコンが一台載っているシンプルな木の机は、自分が使っているような引き出しがたくさんついた、小学生用の学習デスクとは違う。その代わり、パソコンの隣には書類を整理するようなボックスが幾つか置かれていた。
 中に何か入っていないだろうか。祈るような気持ちでそれを開けた。途端、目に入るのはいくつもの図。
「写真……?」
 呆気にとられて、思わず声に出して呟く。あの人がどこにいるかわからない。家の外にいるのか別の部屋にいるのかもわからないのに無用心なことをした。けれど好奇心と、僅かな期待は隠せずに出てきたものを手にとって見つめる。
 それは異様な写真だった。中には幾つか絵も混じっているようだったが、ほとんどがプリントアウトしたものらしい。大体目に映るのは裸の女性や男性で、手足が見当たらない。
「あ……! …う、ああ……」
 始めは手足を折り曲げて縮こまってでもいるのかと思った。だが、何枚目かのそれは裸の女性の絵で、やけに短い手足には赤く染まった布や包帯が撒いてある。改めて前の数枚も確認してみれば、同じ様な図のそれはどれも手足を全て、あるいは幾つか残して、斬り落とされた人々の写真だったのだ。
 他にも、畸形や、肌にいくつもの痣や創傷をつけられた人々の写真、顔がなく体の一部を、無残な傷口をクローズアップされて撮られた写真や描かれた絵が山のように出てくる。
「ひっ……!」
 恐怖に駆られて後ずさった時、腕がその箱にぶつかった。グロテスクな画像が幾つも、床に滑る。
「あーらら、人がいない間に何をやっているのかと思えば」
「あ……」
 いつからそこにいたのか、音もなく戸口に佇んだ少年が、にやりと口元を歪めて見つめてくる。手に持った鞄を机の上に無造作に放り出して静かにこちらへと向かう。
ベッドのふちに膝裏が触れて、シーツの並に倒れこんだ。投げ出された足を捕まれる。
「や、やだ!」
 そのまま、シーツに手をついて体を支えた少年は掴んだ足をなぞり、引き寄せて内腿に口づけた。サラサラとした髪が股を擦るたび、なんとも言えない感覚に支配される。それが怖くて気持ち悪くて逃げ出したい。けれどそれよりもっと、足を落とされるのは恐ろしい。
「お、お願い……斬らないで」
「斬る?」
 生暖かい舌先を肌に埋めていた少年が、顔を上げる。すぐに言っていることの意味に思い当たったようで、淫靡に濡れた唇をちろと舐め、嘲笑うように言った。
「ああ、アレか。……そうだねぇ、僕としても、この可愛い足がなくなるのは寂しいな。けれど君がいつまでもここから逃げようとするなら、いっそその方が楽かもね。鎖に繋いでおくより。手も脚も落としてしまえば、床を這いずることさえ上手くできない……」
 楽しみながらも真剣に検討する様子に恐怖を覚え、思わずその胸にしがみついた。黒いシャツの胸を皺がよるほど掴んで哀願する。
「お願い! それだけはやめて! 何でもするから! お願いします……」
 がたがたと震えて歯の根が合わない。一度乾いた頬がまた涙で濡れる。
 その言葉を待っていたように、少年は目を細め口元を吊り上げた。
「何でもする? へぇ」
 繊細な指先が、何かをポケットから取り出して見せ付ける。
「あっ!」
「それは結構なことだね。天出那智くん?」
 少年が弄んでいるのは、彼の名札だった。何かあった時のために一応持っていなさいと母に渡されたそれが仇になる。
「さあ、これで君の名前、住所、電話番号。全部わかった。俺の言う事に背いたら……わかるよね」
 涙ながらに頷く。噛み締めすぎて、唇に錆びた鉄の味が薄く流れ込む。
「君はもう、俺からは逃げられないんだよ」

 ◆◆◆◆◆

 それからの日々、那智は文字通り少年の奴隷だった。
「これ着てて」
 渡されたものは紅いワンピースのスカートだ。自分のためにこれを買ったのか、もともとは女の子を攫うつもりでこんなものを用意していたのかはわからない。レースやフリルで飾られたそれは、幼い頃読まされた絵本に出てくる姫君のドレスにも似ていた。
 ただ求められるままに少女の格好をして、彼がこの家にいるときもいないときも、暴れることなく大人しく暮らした。言いつけを守ってさえいれば、家の中での自由は保障された。外に出れば何をされるかわからないのが恐ろしくて逃げ出すことはできないけれど、鎖に繋がれてトイレにも行けないと言う事はなくなった。何日も、何日もそうしていた。
 彼が求めるままに体を差し出し、無理矢理奉仕させられる日々が続く。非現実的な地獄にのめりこんでいく。思い出したようにつけられた傷に舌を這わされ、悲鳴をあげるたび彼は嗜虐的な笑みを浮かべた。加虐趣味。こちらが涙を浮かべる様を見て愉しむ、真性のサディストだ。
 時にはナイフを取り出して、肌を薄く裂かれることもあった。流れた血を赤い舌が舐めとり、悦に入る。
「いや……や、ぁああ」
 縛られ、乱暴に足を開かされる。濡れた指先が下腹部をまさぐり、こちらの口には彼のものを咥えさせられた。
 そのまま口の中に出されて、咳き込む。どろりとした白濁の液体が胸元や鎖骨に落ちる。
 涙目で悲鳴とも嬌声ともつかぬ声をあげるたび、少年の口元が歪む。
 怪しげな道具を浸使われて責め立てられるたびに、背をのけぞらせた。髪を掴まれてこめかみに口づけられる。
 そうしてベッドの上で悲鳴ばかり上げさせられる行為が終われば、あとは静かなものだった。部屋の中には何冊もの本があって、難しい漢字が並んでいる。
 彼はたびたびパソコンに向かい、文字ばかりのページかまたは猟奇的な写真が並べられた黒いページばかりを見ていた。その間放っておかれることもあれば、膝の上に座らされて服の合わせ目から肌を嬲られることもあった。
 ある晩、いつも通り弄ばれるだけ弄ばれてその後放っておかれた那智が暇つぶしに部屋の中へ視線を向けると、この部屋にはそぐわない薄っぺらい本を見付けた。思わず、声に出してタイトルを読んでしまう。
「白雪姫……?」
 童話の一つだ。その美しさを継母である魔女に妬まれた年頃のお姫様は、猟師に命を助けられ森の小人達の家に逃げ込むが、そこで林檎売りに化けた継母に毒林檎を食べさせられて死んでしまう。小人達が悲しんで彼女を硝子の柩に入れておくと、ある日通りがかった王子様がその美しさのあまりに口づけた。すると白雪姫の口から毒林檎の欠片が零れ落ちて姫は生き返り王子様と幸せになったという話だ。
「ああ、それ」
 じっと液晶画面に見入っていた少年が椅子から腰を上げ、声を上げて歩いてきたので、那智は慌てて自分の口を塞いだ。煩いと怒られるかと思ったのだ。
 だが彼は本棚に入っていた薄っぺらいその童話と、もう一冊カバーのかけられた何か分厚い本を取り出すと那智のいるベッドへと腰掛けた。那智の体を膝の上に乗せて、薄い童話の本を差し出す。
「君が知っているのはこっちの本だろう」
 渡された本のページをめくると、幼児用だろう、ひらがなばかりでカラフルな挿絵に飾られたその本の内容は那智の知っている通りのものだった。那智が頷くと、次に、少年は自分の手に持っていたカバー付きの本を開いて中表紙を見せる。
「グリム童話……?」
「白雪姫のページもある」
 ぱらぱらと少年の細い指がベージュの紙をめくると、確かに「白雪姫」と繊細な飾り文字の題が見えた。
「けれど、こちらは君の知っている話とはたぶん違うと思うよ。グリム童話が残酷だって話は聞いたことがある?」
 那智はふるふると首を振った。ふと少年は珍しく目元を和ませて、那智を膝に乗せたまま、手元の本を声に出して読み始める。
 そうして知った、「白雪姫」が本当は、実の母娘の父親の取り合いで王子は死体愛好家などという新たな事実に、那智はどう反応していいかわからない。姫が本当はまだ今の那智と同じぐらいの年齢なのではないかと推察すると、複雑な気分だ。小人達の忠告を聞かず何度も殺されかかる姫はどうしようもなく滑稽だ。
 そして童話とは思えない濡れ場のシーンは、どんな顔をして聞けばいいのか。頬を赤らめて肩を縮こませる那智の顔を覗き込んで、少年が口の端を吊り上げる。
「童話で感じちゃった?」
「ち、違……」
「そう。体はそうは言っていないみたいだけど」
 先程服の隙間から手を差し込まれた。いつになく優しい手つきの愛撫に身を任せながら、那智は頭上から降る少年の声に耳を澄ます。
「数ある童話の中で、でも白雪姫ほど残酷な童話もないだろうね」
 娘と父が睦み合うのも罪ならば、娘が父の権力をいいように利用して何人も殺すのも残酷。
「何度も同じ手にひっかかる間抜けのくせに、王子と結婚した途端今度はその権力で母親に焼けた鉄の上履きをはかせ死ぬまで躍らせた魔性の女」
 残酷で冷酷で人間の情など欠片もない、ひたすら自分勝手な白雪姫。
「猟師はなんで、傍若無人で冷酷な姫だと知りながら逃がした。愛らしくて幼ければ何もかも赦されるなんてわけがない。どうして王妃は口から吐き出したぐらいで効果の切れてしまう毒なんて中途半端なものを作る。どうせなら動きを止めたあと二度と生き返らないよう、刃物で刺し殺しておけばよかったんだ」
 深く考えれば考えるほど、何もかもおかしい。
「硝子の柩なんかに入れたところで、どうせいつか人間は腐る。何故、小人達はさっさと埋めてしまわなかったんだ」
 美しい柩の中美しい姫君が眠る。いつか目覚める日まで。
「でも……」
 疲れきり、どろどろに服を汚し、掠れた声で、那智は半分無意識にそう口にする。
「どんなに残酷で、酷くても……愛していたから」
 美しくも愚かで残酷な姫君を。
 一瞬、衣擦れの音が止まる。ゆっくりと上体を起こした少年の顔が、ふっと静かに降りてくる。そうして、触れるだけのやわらかな口づけを一つ贈られる。
 それを、那智は途切れる意識の隙間で感じた。

 ◆◆◆◆◆

 永遠とも思われた日々は、実際は一月もたたずに終わりを告げる。
 近付いてくるサイレンが鬱陶しい。
「何……?」
「隣の住人が通報でもしたんだろう。子どもの悲鳴が聞こえるとでも」
 ここは君の住んでいる家ともさほど離れていない。彼はそう那智に告げた。今までこの家の中でずっと寝起きを繰り返して外のことなどに関心のなくなっていた那智は、ようやく忘れていた現実を突きつけられた気がする。
 那智はいつものように寝台に座っていた。少年は先程から、机の上に置いた何かの錠剤を飲み続けていた。こちらに背を向けたまま、白い粒を一つずつ、一瓶全て飲み干す。
 それが終わると、那智に向って言った。
「もう終わりだ」
「終わり……?」
 始め、那智にはそれが何のことだかわからなかった。ただ、苦い顔をした少年の瞳だけを見つめ続けていた。
「僕はこの世界が嫌いだ。ぶち壊したかった。何もかも。だから」
 ふわりと、口づけが降りてくる。薬を飲んだときに水に濡れた唇のその味を舐めとり、那智は初めて自分から少年の首に手を回した。彼は一瞬驚いたように眼を瞠り、それから那智の体を突き放した。
 ああ、表のサイレンが鬱陶しい。だんだんとこちらに近付いてくる。マンションの下で何台もの車が止まる気配。
「もう終わりだ」
 彼はいつも雑多で物騒なものを一まとめに仕舞いこんでいた机の引き出しを開けると、中からナイフを取り出した。思わず見惚れるほど綺麗に微笑んで、柄の部分に珍しい精緻な装飾の施されたそれを一気に首筋に突き刺す。
 喉首の半分が裂かれて血が噴出す。頚動脈、というのが首の何処に位置するのかはよくわからないけれど、あんなにぱっくり首が切り裂かれて生きていられるわけがない。部屋中が紅く染まった。
「―――――――!」
 上げるはずの悲鳴は声にならなかった。広く飛び散ってこちらの頬まで濡らす血。紅い水溜りの中に彼が倒れるのを、那智は永遠のような一瞬の後に見る。
「っ! ……どうして! どうして!」
 血溜まりで紅く濡れるのもかまわず床に膝を突いて、倒れ伏す体に縋り付く。
「僕を置いていくの!?」
 選んだくせに。僕を。何人もの平和に生きている人の間から僕だけを日常から連れ出してこちらの世界に連れてきたくせに。
 こんなところで見捨てるなんて!
「行かないで……置いていかないで! 行かないで!」
 連れて行って!
 事切れた瞬間がいつのなのかよくわからない。最期に泣き叫ぶ那智の顔を見て、ふと口元を緩めたのは気のせいだったのか。
「あ……ぁああああああああ!!」
 もうサイレンは聞こえない。その代わりに外の階段を上ってくる足音が聞こえる。

 ◆◆◆◆◆

 平穏な日常の意味とは一体何だろう。
 本当の意味の平和など何処にもない。
 あの後、ドアを破って突入してきた警官によって那智は保護された。全身血に濡れた那智を見て始めは驚かれたし誘拐犯を逆襲として那智が刺したのではないかとまで言われたが、血溜まりから拾われたナイフにはあの少年の指紋しか見つからなかったことから疑いは晴れた。
 無事に家に返され、泣きじゃくる母親の手に引き渡され姉に抱きしめられても、まだ実感は湧かなかった。
 心や魂と言うものを、あの日、あの部屋に、あの人と一緒に置いてきてしまったみたいだ。
 誘拐され監禁されていた期間はちょうど夏休み中だったので学業で妙な遅れを取ったり、大きな怪我をして入院することにもならなかったので、九月からは何事もなかったように学校へ通うようになった。事件についていろいろ尋ねられたけれど、ほとんど語らずに曖昧な当たり障りのない返事で誤魔化した。
 ただ、童話の白雪姫は残酷だという話をけっこうしてしまったから、今頃那智を知る者の間では妙な噂でも憶測でも流れているだろう。だがそれすらどうでもいい。
 心は今も、あの世界にある。毒林檎のように甘美で狂乱の非現実。
『君はもう、俺からは逃げられないんだよ』
 何事もなく日々が移ろい時を重ねて、那智はその言葉の真の意味を思い知る。
 小学校を卒業し中学を卒業し高校へ進学しても異性に興味が湧かない。アイドルも女優も学校のクラスメイトもどうだっていい。
 その代わりに、時折ふと道を歩いていて視線が流れることがある。無邪気に遊びまわる子ども達の細い手首足首に目を留めては、銀の鎖や、フリルのついたドレスが似合うのではないかと考えている。ネットで怪しげな道具や薬を見付けては、家族にも内緒で買い込み、履歴には猟奇サイトのアドレスがいくつも残っていた。
 どうしようもなく体が疼く夜は、那智は決まってあの人のことを思い出す。記憶の中で繊細な指に荒々しく犯されることを夢見る。何度も、何度も。自分の鎖骨に胸元に、あの頃つけられた刃物の傷も口づけの痕も残っていないのを鏡の前で確かめては泣きたくなる。
 お願い、置いていかないで。置いていかないで。どうして、
 僕を連れて行ってくれなかったの。
 記憶の中であの人は自分を弄ぶ。乱暴な手つきを思い返しては、痛みと快感に酔いしれる。その瞬間だけは何よりも幸せだ。この道をもう戻れはしない。逃げられない、決して。
 気が狂うのではないかというくらい、荒々しく抱いて犯して欲しい。いや、もうすでに自分は壊れているのだろう。
 年頃になっても普通の少年のように友人達と遊び歩くことはなく、勉強も必要最低限しかしない。休日はただ何をするでもなく本を読みパソコンのモニタを覗くばかりの息子を心配して、両親はしきりに何かしたいことはないか、欲しいものはないかと気遣ってくる。だが思い浮かばない。見つからない。だからいつも適当に本の名前や映画のチケットをねだって誤魔化す。
 ――だって欲しいものは、永遠に手に入らない。
 あの日からこの体は魂を失ったただの器だ。脆く壊れやすい硝子のようなここに、あなたが眠る。
 那智は本棚から古びた童話を取り出してめくる。乾ききった赤茶の血が粉となってページの合間から零れ、指を汚した。それを舌で舐めとって、血に濡れて滲みぼやけた文字の羅列をさらに目で追う。この物語を読んだ彼の声を、そうしながら繰り返し繰り返し思い出して読み取っていく。
 そうすることで、今でもあの記憶は鮮やかに自分の中に蘇る。

 ――そして狂気は感染する。