Calamity Children

2.忌子と紅

 シルフェで一番大きな屋敷。それはもちろんこの街の領主が住まう館だ。
 その一部屋から、今は優雅な竪琴の音色が聞こえてくる。
 三日月のように弧を描いた枠にピンと張られた糸。砂色の髪の青年は竪琴を膝の上に置き、長い指で弦を弾きだす。妙なる調べに合わせて低い声が懐かしい童謡を紡ぐと、室内の空気まで変わるような気がした。
 演奏が終わると、聞き入っていた金髪の青年が拍手を送る。
「実に素晴らしかった」
 彼こそがシルフェの街の領主、ジュゼ・アストゥート・シルフェだという。父の後を継いで最近領主としての地位に着いたばかりらしい。
「ありがとうございます。これで野兎三匹分の料金くらいにはなりましたかね?」
 無断で領主の森の獲物に手を出したとしてシルフェ家の私兵に連行されたファタルは、狩ってしまった動物の代価を歌で払うと言い出した。何を言うのかと憤る兵たちを宥めたのは、他でもない領主ジュゼその人だった。
「裏の森で密漁者が出たと聞いた時は何かと思ったけれどね、こんな穏やかな事件なら大歓迎だよ」
 年の頃は二十代前半、ファタルより少し年上か。女性に人気がありそうな甘いマスクの、ハンサムという言葉が似合う青年だ。
「困りますよ。街では当然の決まりを知らない密漁者などに領主様の貴重なお時間を割かれるなんて。まったく、あの教会の奴らもガキ共にどんな躾けをしているんだか」
 不満げに吐き捨てたのは、領主の側近だという黒髪の青年、クレイグだった。ジュゼとは幼い頃からの友人らしい彼は、最初の時からファタルをきつく睨みつけていた。
 演奏を聴いている間は嫌味も忘れたかのように大人しかったが、それでファタルへの態度が簡単に軟化するわけでもないらしい。鷹揚すぎる領主の分も自分が厳しくするべきだと、ファタルに言葉の剣を突きつける。
「一度目はジュゼ様の寛大さによって赦されても、二度目があるなどと思うなよ。胡散臭い吟遊詩人風情が、一度領主様のお目にかかったくらいで――」
 まだ続きそうなお小言を遮ったのは、部屋に近づいてくる足音だった。教会の子どもたちは一足先に帰されて、ファタルが引き出された領主の執務室には、三人の青年しかいない。
 そのうち三人共が顔見知りである尼僧が、慌てた顔つきで執務室に入ってきた。
「御領主殿、こちらに我が教会の客人がお世話になっていると伺いまして――」
「やぁ、エマ」
 形式ばった挨拶を交わそうとするエマに、気さくに答えた領主。
「やぁ、エマさん。それにソーンも」
「ファタルさん……」
「ファタル、てめ、何やってんだよ。こんなとこで」
 躊躇う他の尼僧たちと違い、領主とは顔見知りだからと自らファタルを迎えに行く役目を担ったエマについてきたソーンである。彼だけでなく、ヘザーも二人と一緒にやってきた。
「ごめんなさい、ジュゼ。この方たちに森の決まりを教えていなかったのは私たちなの」
 だからといって明らかに私有地然とした街中でいきなり獣を狩るなんて良識ある旅人はしないと思われるのだが、エマは律儀にジュゼに頭を下げた。
「かまわないよ、エマ。それに野兎三匹の代価として、吟遊詩人殿には良いものを聞かせてもらった」
 領主は初めから穏やかで、ファタルに対しても教会の子どもたちに対しても一言も責める素振りを見せなかった。
「ふん、まったくこれだからあの教会の連中は……」
 しかし領主の側近の意見は違うようだ。これみよがしに口にされた言葉に冷ややかな反応を見せたのは、意外なことにエマだった。
「あなただってその教会の出身でしょう」
 青い目を半眼にして睨んでくるエマに、クレイグも対抗して剣呑な眼差しを交わし合う。一方騒動の発端となったファタルはジュゼの方を向いて、のほほんと尋ねた。
「領主様方はお知り合いなのですか?」
「ええ。フェニカ教会とこの屋敷は近いでしょう? エマもクレイグも教会の出身で昔は私と一緒に遊んだ幼馴染ですよ」
「そうでしたか。どうりで親しげだと」
 睨み合う二人を前にあっさりと言いのけるファタル。額に手を当てたソーンが、呆れたように告げる。
「もういいから、さっさと帰ろうぜ」
 尼僧と領主の側近は睨み合いをやめ、四人やようやく教会への帰路に着いた。

 ◆◆◆◆◆

「昼間、領主様にも吸血鬼事件に関する話を聞いたよ」
 密漁嫌疑で領主館に連行されたファタルは、その先でちゃっかり領主と面識を持った。ソーンが知らないところでは、そんな話までしていたらしい。
 教会で割り当てられた個室は二人部屋。もちろんファタルとソーンで使っている。現在この教会に他の巡礼客はいないようだ。
 夕食後の自由時間、幼い子どもたちならもう夢の中にいる頃、ファタルはその部屋で竪琴の整備をしながらソーンと話していた。
「ふうん。で、領主はなんだって?」
「現場に残された死体の切り刻まれっぷりは人間の仕業とは思えないって」
 ジュゼの言葉をファタル風に要約し直してソーンに伝える。
「思えないだけなら十分に人間の仕業の可能性があるってことだ。それに吸血鬼は死体を切り刻んだりしない」
「そうだね。率直に聞くけれど、その殺人事件って吸血鬼の仕業かな」
「違うだろ。何処の世界に、血を吸うのに刃物を必要とする吸血鬼が存在するんだよ」
 道具を使って人を殺すのは人の特徴、特技。
「じゃあ、この街に本物の吸血鬼はいないのかい?」
 ファタルの問いに、ソーンは否定を返した。
「いや、いる」
 殺人事件と関わりはなくとも、吸血鬼自体は存在する。
「そうか」
「誰だか聞いてこないのか?」
「僕が聞いてわかる相手なの?」
「……」
「いや、言いたくないなら別に無理に聞かないけどさ」
 言いたくないことがあると口ごもるというソーンの正直さはファタルにとって愛すべきものだ。さらりと話題を変えるとまではいかないが逸らし、反応を見る。
「ところで、普通の人にも人間と人間に似た魔物を見分ける能力ってあるの。あるんだったら領主様とかに教えてあげた方がいいんじゃない?」
「人間と魔物の違いね……人は神に祈るが、魔物は祈らないってことか」
「……」
 今度はファタルが押し黙った。
「俺にはよくわからない感覚だが、人には神が必要なんだろう? なぁ、巡礼さん」
 吟遊詩人という肩書で生きていながら、同時に巡礼の旅を提案したのはファタル。
「……ああ、そうだ。どれほど罪深い者であろうと、どれほど忌み嫌われし者であろうと……人が人であろうとする以上、信仰は必要なんだ」
「かつて、神を超えた人間もいるってのにな」
 この世界を創造した女神。その女神に戦いを挑み、手傷を負わせて封印した一人の魔術師。
 創造神を裏切った魔術師に対する評価は様々だ。魔術の徒は彼をこそ神と崇めるが、造物主に対し純粋な信仰を持つ者たちはその存在を穢れた者として憎み続ける。そして魔術師がもともと異端者であったため、異端に対する宗教信者の目は厳しい。
 伝説の魔術師は確かに神を超える力を持つかもしれないが、壊れゆくこの世界を救う気はない。だから人々は、いまだに神に縋る。人を救うのは神という存在の在ることだと。
 どれほどその手を血に染めても、人は神に救われたいのだ。単に神、というよりも、何か自分より大きな存在に縋りたいと言った方が正しいかもしれない。
 それはファタルにとって逃れられない感情であり、ソーンが持ちえない感情でもある。
「吸血鬼は日光に弱いとよく言われるが、実際にはそんなことはない。陽の光を嫌うのは確かだが、それで外を歩けなくなるほどじゃない」
「僕らが普通に生活してるすぐ傍に吸血鬼がいるかもしれないんだよね」
「ああ。だけどこの街の事件の場合は、そういったことじゃなさそうだ。そもそも吸血鬼が忌子を襲うなんておかしい。奴らはそういう異端が嫌いだ」
 エマが語ったところの〝夜の貴族〟である吸血鬼は、貴族と言われるだけあって格式高いものを好む。その彼らにとって、少しでも他者より劣るとされる忌子は侮蔑の的だ。そして吸血鬼が人間を殺す際に使う方法はもちろん吸血。自分の体にその血を採りいれるのに、わざわざ人の社会の中でも爪弾きにされる忌子を選ぶのは不自然だとソーンは言う。
「単に当の吸血鬼が赤毛フェチだという可能性も」
「それを言ったら身も蓋もないが、とりあえず被害者が牙で血を抜かれた形跡がないなら違うだろ」
 この場で推測を連ねても、真実には辿り着けない。
「で、どうする?」
「やっぱりここは吸血鬼を探しつつ、殺人事件の犯人を見つけるのが手っ取り早いと思うなぁ」
 ファタルの巡礼の旅には、聖地を巡る他にもう一つの目的がある。それを達するためには、吸血鬼という存在にまつわる事柄を調べねばならない。
「明日からちょっと動きだしてみようか」