Calamity Children

4.Bloody Blood

 人間誰しも酷い興奮状態の時に冷静にはなれないもので、そういった感情はたいてい一夜経つと収まる。
 なのでヘザーは困っていた。昨夜自分がファタルに投げつけた言葉があまりにも一方的で恩知らずで差別的で幼稚で性質の悪いものだったことに。
 謝らなければと思うのに、素直に言葉が喉を滑り落ちて来ない。
 何かがそれを口に昇らせず、ヘザーの中で突っ返させている。
 もともとヘザーは無愛想なソーンより人好きのする物腰穏やかなファタルの方が何故か苦手だった。一言で言えば彼女が捻くれ者だからということになりそうだが、適した表現を見つけただけでその問題が解決するわけでもない。
 よく眠れずに起きた早朝、聖堂から竪琴の音が聞こえてきた。教会住まいの人間に竪琴を嗜む者はいない。だから思いつく顔はたった一人。
 忍び足で聖堂の扉をそっと開けて、中の様子を窺った。信者席に座った砂色の髪の青年が、竪琴を奏でながら聖歌を口ずさんでいる。
 田舎町の教会にしては職人の腕が良かったのかそこかしこに精緻な装飾のされている聖堂。荘厳な天井画の下、ステンドグラスを通して降ってくる虹色の光の下で歌うファタルはまるで彼自身が神の領域に存在するようだった。
「あれ? ヘザー?」
 何曲か続けて奏でていたファタルの演奏に聞き入っていたヘザーの耳に、驚いたようなファタルの声が届く。いつの間にか彼は振り返りこちらを見ていた。ヘザーは我に帰り、途端に気まずい思いを抱えた。
「その……昨日は、その……ごめんなさい」
 言葉が喉につかえると思っていたのに、ファタルの穏やかな顔を見ていたら自然と滑り落ちてきた。けれどまだ何か言い足りような気分がして、もやもやと落ち着かない感情が胸のあたりに巣食う。
「気にしなくていいよ。あんなものを見たらどんなに肝の据わった人間だって動揺して当然だ」
 ファタルの態度からはこのようなことへの慣れと諦めが見え隠れしていた。決して卑屈になるわけでも誰かを恨むわけでもない、けれど他者に自分のことは理解できまいと引かれた線。
「……さっきの歌、なんだったの?」
 聖歌ではない最後の一曲は、ヘザーの知らない歌だった。
「僕の故郷の童謡だよ。でも、これは酒場では歌えないからね。きちんと習ったわけじゃないから」
「そんなものどうして知ってるの?」
「故郷の街の子どもたちが歌っているのを、いつも遠くで聞いていたんだ」
 それは仲間外れにされていたとかそういう意味だろうか。こんなにいつもにこにことして愛想の良い、人好きするという言葉に相応しいような青年と外れ者という言葉はなんだかしっくりこない気がした。これがヘザー自身やソーンのことならばその性格なら仕方ないと思えるのだけれど。
 たぶん外れ者にされていたのは、ファタルの性格故ではなくもっと理不尽で根の深い問題なのだろう。
 その態度の端々から察せられるよりもきっと多くの苦労を彼は背負ってきたのだろう。
 話題が尽きて口を噤むヘザーに、今度はファタルの方から語りかけてくる。
「吸血鬼は、不死の魔物とよく呼ばれているね。そして僕に不老不死の呪いをかけたのも、実は吸血鬼だということがこの旅でわかったんだ」
「だから、この街に来たの?」
「そう、呪いを解くために」
「……ねぇ、不老不死って、辛い?」
「うーん。どうかな。確かに死ぬときは痛くて苦しいけど、今はソーンがいるしね。だけど何故呪いをかけられたかを探すことが、僕の生きる意味を探すことにもなるから」
 吟遊詩人の巡礼は、祭壇の上の神像を眺めた。
 魔物は神を必要としない。だが人間には神が必要なのだろう。
「僕の中には穢れ、血塗られた血が流れている。だから、歌しか神に捧げることができない。この呪いを解くまでは。いや、おそらく、呪いを解いても。僕には他に何もない」
 ふいに。
 何故、ヘザーはファタルのことがこんなにも気に入らないのか理解した。わかった。わかってしまった。自分の心が。
「……ずるいよ」
「ずるい?」
「歌しか神に捧げるものがない? 何も持ってない? 嘘つき。だってあんたはなんだって持ってる。……あたしと違って!」
「……ヘザー」
 誰からも可愛いと言われる顔つきではなく、ましてや忌子と呼ばれる赤い髪の持ち主。特別賢いだとか身体能力に優れているだとか、そう言ったことも何もない。孤児であるというその事実を差し引いてすら、ヘザーには何もなかった。ファタルのように歌の才能や世渡りの技術、細くても力強い腕や人を魅了する笑顔など何も。
 ヘザーが欲しくて仕方がないものをファタルはすでに手にしている。それなのに自分には何もないなどと言うファタルがヘザーはずっと羨ましくて、そして憎らしかったのだ。
 自分が価値のある人間だと思いあがっている人間ならまだしも、ファタル自身が自分に何の価値もないと信じているから余計に。
「君は何もなくなんかないよ、ヘザー」
 何が憎らしいって、笑顔なのにいつもどこか悲しげなファタルのこの顔だ。
「確かに僕が持っているものを君が手にするのは難しいかもしれない。けれど僕だって、君になることはできないんだ。ヘザー、どんなに人を羨もうと、神を呪おうと、僕は僕で、君は君だ」
 夜明け前の空の色の瞳をした吟遊詩人は、空から彼の瞳の色をかき消すように昇りはじめた太陽を眺めて言う。
「そろそろみんなが起きて来るね。部屋に戻ろう」

 ◆◆◆◆◆

 庭で遊んでいた子どもたちが、急に何かに気づいて静まり返った。その目線を追ったエマは、この教会で昼間から見るには珍しい姿を発見する。
「あら、領主様」
 金髪の若き貴公子、このシルフェの街の領主であるジュゼ・アストゥートがそこにいた。彼の半歩後ろにはいつも通りその側近であるクレイグがつき従っている。
「……久しぶりだな。エマ。聖堂に用があるのだけれど、少しいいだろうか」
「ええ、もちろん。フェニカ教会は訪れる者を拒みませんわ。さぁ、どうぞ」
 端正な面差しのジュゼだが、領主として隙のない身だしなみが今は逆に彼自身のやつれ具合を引き立たせている。何か心労があるのだろうと察し、エマは控えめながら気さくに微笑んでかつての幼馴染を聖堂に案内した。
 シルフェの街の領主であるジュゼは、この教会にも何度も足を運んでいる。今更わざわざ案内などいらないが、子どもたちが領主の登場に固まってしまった以上、場の空気を動かすためにはエマがさりげなく両者を引き離して不自然ではない行動をとることが必要だった。
「ありがとう。……エマ、君はいつも変わらないな」
 道順と言うほどの複雑さもない短い廊下を曲がりながら見えてくる聖堂の扉を前に、ジュゼはわずかに顔を傾けてエマへと軽く礼を言った。
 「いつも」と言ったが、彼が本当に言いたいのはこちらだろう。「昔と変わらない」。
 何故ならその台詞を口にしたジュゼ自身は、エマの覚えている昔の彼とは少しずつ何かが変わってしまったからだ。その変化に彼自身が苦しんでいる。
 身分も何も考えず孤児と貴族の子息が一緒になって遊んでいられた子どもの時分と違い、領主となった彼の毎日は一介の尼僧には想像もできない激務に追われているのだろう。
けれどその変化を厭う気持ちこそが昔の優しく誰にでも分け隔てなかったジュゼ自身の変わらない部分だと思えて、エマはこの幼馴染をまだ信じることができた。
「あなたも変わらないわ。ジュゼ」
 昔のように名前で彼を呼んだエマに微笑んで、ジュゼは悲しげに返す。二人の背後では領主に対し親しげな口を利くエマに対し、クレイグが射殺すような眼差しを向けてきた。
「いいや、変わってしまった。私はもはや取り返しがつかない程に変わってしまったんだ」
 今にも儚げに消えてしまいそうな微笑を浮かべながら、ジュゼはクレイグを伴って聖堂の中に足を踏み入れる。告解ではないから尼僧たちがその悩みを懺悔という形で聞くようなことはない。
 しかし聖堂の扉の前に佇んだエマは知っていた。ジュゼが初めてこの教会の聖堂に訪れたのは、彼が領主として罪人を処刑するための書類に判を押したその日の夜だった。己の決断が一人の人間の命を奪った罪悪感のために、ジュゼは教会の扉を叩かずにはいられなかったのだ。
 懺悔はしない。できない。彼は領主としてするべきことをしただけなのだから。
 だから彼はその代わりに祈るのだ。罪を犯した魂でも決して死の神に拒絶されることなく安息を得られるようにと。
 今日と同じように聖堂内まで付き添ったクレイグの声は少し大きくて、ひたすらジュゼを慰める言葉が微かに漏れ聞こえていた。幼馴染の憔悴した姿を心配して戸を叩くこともできないままただ聖堂の前に立ったエマは、それで事情を知ってしまったのだった。ジュゼは側近であるクレイグには話せる事情も、もう今ではエマに話してはくれない。
 それを少しだけ寂しく思うエマも、昔の気楽な孤児とは違って今は神と人を繋ぐ教会に勤める尼僧の立場だ。訪れた者のために、彼女は彼女なりに自分にできることをしようと、まずは客人のためのお茶を淹れに行った。

 ◆◆◆◆◆

「仕方のないことです」
 聖堂の信者席に腰かけて、考え事でもするかのように指を組んで座るジュゼの頭上から、その脇に立ったままのクレイグの声が降ってくる。
「あなたのせいではない」
「いや……これは、紛れもなく私の罪だ」
「いいえ。あなたは領主です。あなたがこの街ですることは、全てこの街のためだ」
 頭上から降る声というのは容易く神を想起させる。そうでなくとも子どもから見た大人のように、力で敵わない存在を暗示させる力関係だ。そして今のクレイグの言葉はジュゼにとって、神の声よりも悪魔の囁きに近い。
「私は咎人だ」
「あなたのせいではない」
 声を荒げて叫びだしたくなるような激情の時期はもはや過ぎ去り今では毎日何をしていても先に諦めが立つ諦観の季節がやってきた。
 祈りとも言えぬ祈りを終えて、領主の青年とその側近は聖堂を出た。そこで、ちょうど誰かを探しに来た様子で首を四方に巡らせながら佇む銀髪の少年とすれ違った。
「人と吸血鬼を見分ける方法を教えてやるよ」
 肩が過ぎる一瞬に囁かれた言葉にジュゼは驚き、足を止めて振り返った。見れば少年も立ち止まり首だけをこちらに向けていた。
「近頃この街では鎌を持った男が吸血鬼なんぞと呼ばれながら徘徊して困っているみたいだな。だからいいことを教えてやるよ。――魔物は神に祈らない」
「君は巡礼……ファタル殿の連れだったな。それも旅の中で得た知識かい?」
「ああ。少なくともこの街の殺人事件の犯人が本物の吸血鬼なら、探そうと思えばそれで随分絞れるはずだ」
 素っ気なく言う少年には、もしかして領主である自分が吸血鬼事件の解決に悩んで神頼みにでも来たと思われているのだろうか。ジュゼは苦笑を浮かべる。
「けれど、犯人が本当に吸血鬼とは限らない」
 吸血鬼の仕業に見せかけた人間の仕業なら、人と魔物を見分ける方法だけでは見つけられない。
 すると銀髪の美少年は、その輝かしい美貌に冴え凍るような笑みを浮かべる。
「その時こそ、人間の出番だろ」
 人の間の問題を解決するのは、いつだって人間自身の役目だと。
 今度は振り返らずに廊下を歩いて去っていく少年に、瞠目するジュゼは何も返すことができなかった。
 
 ◆◆◆◆◆

 淡い灰色の雲の隙間から時折太陽が覗く。流れる雲が途切れた僅かだけ優しい光を投げかけて、その姿はすぐにまた紗幕のような雲の向こうへと隠れてしまう。この地方にはよくある天気だった。
「こんなところにいたのか」
 比較的良い天気と言われそうな空にいっそ恨みがましそうなほど忌々しい視線をやりながら洗濯物が干してある教会の中庭に訪れたのはソーンだった。ヘザーは濃色の瞳で瞬く。
「こんなところにいたけど……もしかして、あたしに何か用?」
「そ」
 短い言葉で頷くと、ソーンはヘザーがそうしているように中庭の噴水の縁に腰かけた。
「俺の目的にお前の力を返してほしい」
「あたしの?」
 悲しいことに彼女の特徴と言えば忌子の証たる赤毛くらいで、取り柄と言われるようなものもない。そんな自分に何ができるのかと、ヘザーは首を傾げる。
「そう、あんたが適任……いや、必要なんだ」
 ソーンは細い指に挟んだ一枚の紙片をヘザーに見せる。そこに書かれたことが、ヘザーに彼の計画への加担を決心させた。