Calamity Children

5.吸血鬼の正体

 紅い髪がふわりと舞って、流れるようなその動きに一瞬ファタルは彼女の手元の動きを見失った。
 次の瞬間彼女が抱きついた男の体からは夥しい量の血が流れだし、その手を赤く赤く染めていた。微笑む彼女の白い頬までが、返り血で花が咲いたように一部が赤く染まる。
 ――ごめんなさいね。
 刺した男と他でもない彼女自身を、憐れむようなかぼそい囁きがファタルの背筋を不吉な予感に戦慄させていく。
 ――私たち、生まれてはいけなかったの。
 実の兄妹で結ばれたから? 
 そんなの馬鹿げているとファタルは思った。
 真に愛しあっているなら、どんな理由も関係ない。けれどファタルの月並みな言葉では、彼女の心には届かない。
 男の血に濡れた赤い刃の切っ先が、吸い込まれるように彼女の胸に消えて――。

「!」

 そこでファタルは目を覚ました。毛布を跳ねあげて飛び起きる。
「また……あの夢……」
 寝起きの急な動きに一瞬くらりと眩暈がした。額に手の甲を当てるようにして、寝台の上で膝を抱えてうずくまる。
 数か月前にソーンと後にした街の出来事を、ファタルはよくこうして夢に見る。救えなかった一組の男女。その歪な成就を見た歪な愛。
 青い月が窓の外で輝いている真夜中。普段これぐらいの時間にはまだ起きていることが多いのだが、教会の就寝時間につられて最近は早寝が習慣化していた。
「ごめん、ソーン。もしかして起こし――あれ?」
 教会の部屋数は限られているため同室で寝起きしているはずの旅の連れの姿を確認して気持ちを落ち着けようとしたファタルは、何の反応も返らない室内を眺めまわして首を捻った。どこにもソーンの姿がない。
 首を傾げたファタルの耳に、緊張したように扉を叩く音が聞こえたのはその時だった。
「エマ?」
 ここ数日でもっともよく会話する間柄となった尼僧が法衣のまま、青ざめた顔で立っていた。寝ぼけ眼をこするファタルに、焦燥の感じられる口調で告げる。
「こんな時間にごめんなさい。でも、ヘザーがいなくて。あの子が昼間ソーン君と話しているのを見たから、あなたなら何か知っているかもって」
 ファタルは眼光を鋭くした。
「二分待って。着替えてくる」
 赤毛のヘザーと一緒に彼が姿を消したなら、その目的は恐らく一つ。彼は少女を囮(おとり)にこの街の〝吸血鬼〟を捕まえるつもりなのだ。
「ソーン、君だってバカだ」
 情報を得るために仕掛けるのであれば、何もヘザーを巻き込まずとも、ファタルを使えばいいのだ。いくら人が数日前、間抜けにも深手を負って死んだばかりだからって。
「ファタルさん」
「今行く!」
 吟遊詩人と尼僧は教会を出て、シルフェの街の中心部へと向かった。

 ◆◆◆◆◆
 
 夜の街は昼の街の風景とはがらりと雰囲気を変える。特に今は吸血鬼事件のせいで皆ぴりぴりしているため、夜間営業の店も明かりを落として息を潜めるようにしながら営業している。
 被害者はこれまで赤毛の女性だけとされているが吸血鬼が本当にそれ以外の人間を襲わないという保証はない。それに自分が被害者とまるで関係がなくたって付近で人殺しがあった地区を好んで歩く者はそういないだろう。
 これまで殺された女性たちは比較的善良で真面目な普通の家庭の娘ばかりで、酒に溺れて一晩中飲んだくれているとか、娼婦として客をとるために夜道に立っていたという人間は案外少ないらしい。
 何故、彼女たちはそもそもこんな時間に出歩いていたのか?
 それはどうしても夜中でなければいけないと言われたからだった。誰に見とがめられることもない時間に会おうという口説き文句が、彼女たちから吸血鬼に関する警戒心を奪った。
 今もまた、一人の赤毛の女がわざわざ顔を隠すような格好で、呼び出された街の中央地区へと足を運んでいた。大きな噴水のある広場で、月明かりの下では恋人同士が愛を語る場としても知られている。
 彼女がその場所に辿り着くと、噴水の傍に一人の男が立っていた。眩い金髪の優しげな顔立ちをした青年。
 それはこの街の領主、ジュゼ・アストゥート・シルフェ。
「エマ」
 彼は先日のように悲しげに微笑んで、自分が呼びだした尼僧へ声をかけた。
 教会を訪れた際に残した、どうしてもエマだけに話したいことがあるというメッセージ。それを読み、彼女はここまでやってきた。
「来てくれたのか……来てしまったんだね」
 自分の望み通りに動いた幼馴染の姿に歓喜と落胆の両方を湛えた表情で、若き領主はまだ向かい合う相手の表情もわからぬ距離から歩み寄ってくる。その手がさりげなく懐から何かを取り出そうとしたところで、誰かがジュゼの腕を掴んだ。
「な!」
「そこまでだ。シルフェの〝吸血鬼〟さんよ」
 気配もさせずに背後に忍び寄った銀髪の少年は子どもとも思えぬ力でジュゼの腕を拘束し、同時に、顔を隠してやってきた女性は被り布を打ち払ってその素顔を露わにする。
「君は、あの教会の……!」
「ごめんなさい、領主様。あたし、エマじゃないの」
 ヘザーの燃える炎のような赤毛は夜の暗がりのおかげでエマのような深い臙脂色に見えている。少女は悲しそうに問いかけた。
「領主様が、吸血鬼だったのね?」
 自分より十も幼い少女に見つめられて、ジュゼは観念したようだった。彼の変化を感じ取ったソーンが腕を離しても、暴れることなくヘザーの言葉に頷く。
「ああ、そうだ」
「何故こんなことを」
 ジュゼは青い瞳に月光が投げかける以上の影を落として語りだす。
「……昔はただ父の後を継いで良い領主になることだけを目指していた。だが自分が領主となってわかったことは、この地位はそんなに立派なものではないということだった」
 小さな執務室で書類ばかりを眺める日々。時折街へ視察に降りてみるけれど、誰もが彼をジュゼという一人の青年ではなく、良い意味でも悪い意味でも領主という肩書でしか見ない。昔は一緒に遊んだ友人たちでさえも。
 彼が書類に判をするだけで、年に何人かが命を落とし、刑罰として手首や脚などを斬りおとされる。それが役目と言われればもっともだが、自分の言葉一つで簡単にそれがなされる現実を背負う覚悟がジュゼには足りなかった。
 じわじわと心を蝕まれていく彼に、ある日悪魔が囁いた。
 お前のすることは全て正しい。何故ならお前はこの街を守るべき領主なのだから。
 この街を守るためにどうするべきかと尋ねたジュゼに、悪魔は告げた。
〝罪人の血を引く赤毛の女を殺せ。あれらは魔物として、この街を蝕む毒虫だ〟
 そのお告げを聞いた翌日、彼は自分が血に染まった死体の傍で目覚めたのに気付いた。きちんと寝間着を着て寝たはずなのに、いつの間にか外套を着こみ、しかもそれが血に濡れている。
 最初の殺人事件が起きたと知らされた朝のことだった。
「それからも時々、私の記憶は途切れるようになった。そして気が付くと、周囲で吸血鬼による殺人が起きている。……私はあの夜から魔物になってしまったんだ。血まみれで道に立っているのに気が付いたその瞬間に、目の前で被害者の一人が絶命したこともある」
 自覚のない狂気に日毎に正気を蝕まれながら、一方で領主としての務めを果たしていく。
 ソーンはジュゼの告白を聞いて何事か考える素振りを見せたが、ヘザーにはそれよりも気になることがあった。
「だからって、エマまで殺そうとするなんて……領主様は、エマのことが好きなんじゃなかったの?!」
 思わず人目を憚ることも忘れて夜の街で少女は叫ぶ。しんとした周囲に、悲鳴のようなその声は虚しく響いた。
「……好きだったさ。ずっと、昔から」
 昔は身分も何の隔てもなく遊んだ子どもたちも、成長するにつれてジュゼと自分との差を意識してくる。大人になって誰もが彼と距離を置く中、エマだけが人の目のないところでは、昔と同じように気安い友人として接してくれた。
 けれど彼女は神に仕えることを誓った尼僧で、ジュゼは領主だった。
「だから彼女だけは殺さなければと思った。全てを知られる前に」
「俺はてっきり、あんたが口封じのためにエマを狙っていると思ったけどな」
 シルフェの街の住人として領主に対する悲しみを隠せないヘザーと、所詮余所者であるソーンの視点は違う。薄々領主の乱行に勘付いていたソーンはエマへの手紙を発見した際に彼が先日殺しそびれたエマの口封じを目論んで彼女を呼び出したと考えたのだ。あの時ただの子どもにしか見えなかったヘザーよりも、法衣のエマの方が特徴があり、すぐにフェニカ教会の尼僧だとわかっただろうから。
 しかしソーンの言葉に、当のジュゼは訝しげに眉を上げた。
「口封じ? 何のことだ?」
「二日前の夜に、川の近くで鎌を持った男にエマを襲わせただろう」
「私は二日前は何もしてない。それは確かだ。それに……鎌? 凶器がか?」
 ソーンとヘザーはジュゼの手に注目する。先程ソーンが握りしめて拘束した方の手が懐から取り出したものは、金で煌びやかに装飾されたナイフだ。――あの時の鎌ではない。
「あれはあんたの差し金じゃないのか?!」
「何の話だ?」
 珍しく焦った声をあげるソーンに、ジュゼは訳がわからないといった顔をしてみせる。
「念のために聞くが、これを書いたのはあんたで間違いないよな?」
 ソーンはジュゼに彼の署名がされた手紙を差し出した。それにさっと目を走らせたジュゼが青ざめていく。視線が何度も小さな紙片を行き来し、唇が戦慄いた。
「違う」
「あんたがエマに手紙を出したんだろ!」
「出したが、これは違う。これは私が書いたものではない!」
 大事な話があるから中央広場に来てくれ。そう書かれた紙片の文字は確かにジュゼの字と似ている。しかし彼が書いたものではない。
「ちょっと待って! ここにこの紙があって、領主様がエマに手紙を出したのも事実だとしたら、エマが教会から出てここに来ちゃう! ――領主様以外の吸血鬼が、まだいるかもしれないのに!」
 ヘザーの言葉にソーンたちが顔つきを厳しくした瞬間、それは聞こえてきた。
「きゃぁああああああ!」
 絹を裂くように高い女の悲鳴に、彼らはその声の聞こえた方に向かって走り出した。