Calamity Children

6.血に潜む魔

 夜の街を二人の男女が少し早足で歩いていく。小柄なエマの足並みに合わせて硝子でできたランタン片手に歩くファタルは、ふと背後を振り返り尋ねた。
「ところで、エマ、なんであなたはこんな時間に起きているんだい?」
 深夜にもかかわらず尼僧の法衣をしっかりと着込んだエマの様子がファタルには気になった。ぱちぱちと数度瞬きしたエマは、次第に後ろめたいような顔で言いだした。
「……実は、約束があって」
「こんな時間に?」
 軽く目を瞠って見せるファタルに、エマは四つ折りにされた紙片を懐から取り出して見せた。薄くて雪のように白い上質な紙に、癖のある男の筆跡で書かれた短い文章。その後に、この街の領主ジュゼの署名がある。
「……君って彼の恋人?」
「違うわよ。でも昔からの友人なの。最近教会に来ても悩んでいる様子だったから、それで何か話があるみたい」
「で、起き出したところにたまたまヘザーがいないことに気づいたわけか」
「そう……。そっちに驚いてからは、この手紙のことをうっかり忘れるところだったわ」
「まぁ……領主様は赤毛でも美女でもないから少しぐらい放置したってかまいはしないだろう。それよりも今はヘザーのことだ」
「そうね」
 自分の中での優先順位を即座に決定して動き出すエマに続き、ファタルも止まっていた足を再び動かし始めた。
しかしそれからいくらも行かぬうちに、二人は再び足を止めることとなる。
「え? ……クレイグ?」
 街の中央広場から通り一本挟んだ道で、領主のお忍び用の馬車が停まっている脇にエマのもう一人の幼馴染の青年が立っていた。ジュゼ自身の姿はない。
「な……エマか? ではジュゼ様がお会いになっているのは一体?」
 驚いた様子でエマの顔を見つめ返すクレイグは、通りの向こうの広場を気にしていた。
「お前、ジュゼ様に呼び出されたのではなかったのか?」
「えっと……まぁ、そうなんだけど」
 二人きりとなっても変わらず居丈高なクレイグに、ジュゼに対する時より不機嫌そうにエマが返す。尼僧と言っても所詮は人の子だ。
「……まぁ、いい。考えてみればこの方が好都合だしな」
「クレイグ?」
 一人で納得するクレイグの態度に、エマは不思議そうに首を傾げた。彼が自分に対し不親切なことにはもう慣れっこだが、今日はいつにも増して様子がおかしい。
 クレイグはどうやらファタルのことも気にしているようだった。もしやエマと二人で夜更けに出歩いているからだろうかとファタルは考える。
 けれどエマの訝りもファタルの邪推も、本物のクレイグの悪意の前では可愛らしいものだった。
男は夜闇に溶け込む紺色の外套の袖を振り上げる。
「死んでもらうぞ。赤毛の忌子」
 次の瞬間、彼はその右手に隠し持っていた鎌でエマを斬り殺そうとしたのだった。

 ◆◆◆◆◆

 濃い血の臭いが風に乗ってくる。
「ちっ! 誰か斬られたな」
ソーンでなくともわかるほどはっきりとそれが感じられてきた頃、現場が見えてきた。
 悲鳴の上がった場所は彼らがいた中央広場から通りを一本越えた人気の少ない道だ。深夜営業の店もなく、ちょっとやそっとの騒ぎでは誰も駆けつけてこない。
 大きな血だまりに仰向けで倒れ伏す一人の少年と、彼を庇うように胸にかき抱いた法衣の尼僧。そして右手に血塗られた鎌を下げた一人の男。
「――クレイグ?!」
「ジュゼ様。来てしまったのですか」
ジュゼが側近の名を呼んだ。この状況では、どう考えてもクレイグがファタルを斬り殺したようにしか見えない。
「お前が、彼を……」
「ファタル! 生きてるかッ?!」
 ジュゼの震える声にソーンの叫びが重なる。
「……っ」
 声は上がらないまでも、ファタルはなんとか腕を上げようと体を動かして見せた。間違いなく重傷だが、幸か不幸か即死ではなかったらしい。
 ヘザーが慌ててファタルとエマのもとへ駆け寄る。ソーンは素早くクレイグに殴りかかっていて、彼らの戦いには誰も口を挟めない。
 しかしこれが大人と子どもの力の差というわけか、ソーンがクレイグにあっさりと振り払われた。
「……ただの人間じゃないな」
 人間離れした動きのソーンに応戦しあまつさえそれを払いのけることができる人間離れした動きのクレイグ。ソーンが瞳を細める。
「領主に暗示までかけて、その影で自分は赤毛の女を鎌で斬り殺していった。――お前、魔物だな?」
 クレイグが動きを止めた。
「……どういうことだ?」
 呆然とするジュゼたちと、静かにたたずむクレイグ。彼の姿はいまや黒い霧の塊の中央にいるように朧だ。
「どういうこともありませんよ、ジュゼ様。この少年の言うとおり、私は魔の血を引く存在です」
「クレイグ、お前そんなこと一言も――」
「知ったのは、つい三年前でした」
 エマと同じくフェニカ教会で育った孤児であるクレイグ。エマが巡礼の旅から戻ったのは二年前なので、彼女はクレイグの母親が見つかった話を知らない。天涯孤独だとばかり思っていた彼のもとに実の母親だという女性が訪れたのは、クレイグがとっくに自立してジュゼのもとで働き始めた十九の頃だった。
 初めて会った母親は、幼馴染の少女と同じような、深い紅の髪の色をしていた。
「それでも、言ってくれれば良かったんだ!」
 ジュゼが憤っているのは彼が自分の街の人間を殺し続けてきたということよりも、親友だと思っていたクレイグが自らのことをこれまで少しも話してくれなかったことだった。
「言えるわけがない」
 黒髪の青年は寂しげな微笑を浮かべると、この数年隠し続けてきたことをようやく口にする。
「あなたにこの女に近づくなと言い続けた私が……赤毛の忌子を他の誰よりも忌避し続けた私が、どの面下げて今更自分がその忌子の息子だなどと」
 シルフェの街には赤毛の女は魔物だという言い伝えがある。そしてそれは一つの真実だ。
 この地方の魔物は赤い髪をしている。その血を強く引く者も。
 外見は父親に似たクレイグにも、魔物の血を引く母親の血が流れている。あれは魔物だから近づくなとジュゼとエマの仲を引き裂こうと努力し続けた彼の中にこそ、その血が。
「だから私は、まずは母を殺しました」
 続けられた言葉に、再度場が凍った。
「そして、母と同じような赤毛の女たちを。娼婦や孤児はともかく、まともな家庭に生まれた魔物を殺すのはなかなか大変でした。次第に大事になってしまいましたけれどそれでももうすぐこの街は、完全に綺麗になります」
 うっとりと次第に夢を語るような口調になってきたクレイグだが、その内容はおぞましい。彼は赤毛の女を皆殺しにすると宣言したも同然だ。その視線が正面のソーンから外れ、ファタルを抱きかかえたエマへと向けられる。
「ご心配なく、ジュゼ様。忌まわしい魔物の子であると知られてしまった以上、私はあなたの前から消えます。最後に、あの女を殺したらね」
「クレイグ!」
 狂気に蝕まれていくクレイグには、もはやジュゼの言葉さえ届かない。
 血塗られた鎌を片手に死神の代行と化した青年は、一人の女の命を刈り取ろうと地を蹴って走り出す。ソーンが彼を止めようと動き出すが、魔物としてなりふり構わなくなったクレイグの腕力に弾き飛ばされる。
「ソーン!」
 鎌で斬り裂かれることこそなかったが、掴まれた腕を捻られ地面に叩き付けられたダメージが残る。その間にもエマを殺すために歩み寄ってくるクレイグから彼女を庇うように、ヘザーはその眼前に立ち塞がった。
「ヘザー、何してるの! 逃げなさい!」
 自分はファタルを抱えたままの背後のエマの言葉にも首を横に振り、ヘザーは震える足に力を込めて立つ。
「どけ、小娘」
「いや……だよ。エマは殺させない」
「貴様のような赤毛もどきはただの人間。だが、あの女は魔物だ」
 ヘザーは皮肉に笑いたくなるのを堪えた。この赤毛が、もどき。あれほど悪魔の子、魔物の子とからかわれたのに、ただの人間。
 だが、だからこそいつも周囲に感じていた反抗と意地を、こみ上げる笑いの衝動を、小さな力に変える。神様、どうか、ここでこの男を睨み返すだけの勇気を。
「魔物だって人間だって、エマは私の大事な人だ。だから、殺させない」
 そう言ってヘザーは凶器を手にした自分よりずっと強く背も高い男を見上げる。黒い瞳に忌々しげな色がよぎり、クレイグは邪魔な小石を退けるかのように、ヘザーを斬り捨てようとした。
「やめろ!」
「っ! ……ジュゼ! 離せ!」
 そこにようやく自失から立ち直ったジュゼが飛び掛かる。さすがにクレイグも彼のことは傷つけられないため敵意十分に殴りかかってきたソーン相手よりも苦戦している様子だ。
 その間に先程クレイグに振り払われたソーンの方は、地に倒れ伏す瀕死のファタルのもとへと駆けつけていた。
「今の俺じゃ勝てねぇ。だから、お前のすることはわかってるな?」
 瀕死の重傷である相棒に対し気遣いの欠片もないその言葉に、斬り裂かれた箇所が今も痛む吟遊詩人は引きつった苦笑を浮かべた。
「今、この状態で吸われたら……僕、確実に死ぬんだけど……」
「じゃあ死ね。どうせお前にできるのはそれだけだろ」
 いくら体が不老不死だからといっても心まで鋼鉄でできているわけではないのだから少しは容赦をしてくれ。あまりのソーンらしさに苦痛を堪えながらも笑おうとしたファタルの白い首筋に、ソーンが可憐な唇を近づける。
 そうしてすぐ耳元で囁かれた言葉に、ファタルは大人しく死に甘んじる覚悟をした。
「――俺にできるのだってこれだけだ」
 この場の全容を見届けることができないのは残念だが、詳細は後でソーンから聞かせてもらおう。そう考えながらファタルは、ゆっくりと手を差し伸べてくる死の女神の抱擁に大人しく身を委ねた。

 ◆◆◆◆◆

「ソーン?」
 ジュゼがクレイグの足止めを必死でしている間に背後で何が行われているのかと振り返ったヘザーは、ぎょっと目を瞠った。
 血に濡れた滑らかな頬に細い指が伸びる。ソーンがファタルをかき抱くかのようなその仕草は、二人とも容姿の整った少年であるだけにいっそ官能的なまでに妖しく美しかった。
だがソーンは、間違っても死に瀕したファタルの状態を嘆いて彼を抱きしめたわけではない。少年は連れである吟遊詩人の白い喉元に唇を寄せ、いきなりそこに噛みついた。
 いつの間にかソーンの唇から伸びた鋭い牙がファタルの首元を傷つける。すでに大量出血で瀕死のファタルの体からますます血液が失われ、対照的にいつも青白い肌のソーンの頬が薔薇色に染まる。
 永遠のように思える一瞬の後その体から離れ口元を袖で拭いながら立ち上がったソーンのこちらを向いた瞳は、常の翡翠から深い真紅に色を変えていた。
 眩しい程の月明かりの下で、魔性が笑う。
 先程振り払われた時とは比べものにない速さと力で、ソーンはジュゼともみ合っていたクレイグに再び挑みかかった。
「な、お前……まさか!」
 成長途中の少年の華奢な体つきから繰り出される蹴りが魔物の血を引く分ただの人間よりよほど頑健なクレイグに今度は効いている。
 両腕を交差させて防御した上から鈍い痺れを残す攻撃の重さと少年の突然の変貌に、クレイグは限界まで目を見開いた。
「まさかお前、本物の――」
「そう、吸血鬼だ。あんたの大好きな、ね」
 今のソーンはいつもは気だるげに伏せられがちな長い銀の睫毛の先にまで力が漲っている。吸血鬼の本領は、熱い生き血を啜ってからだ。
「何故だ。これまでお前からは、何の力も感じなかった!」
「悪かったなぁ。人が大陸で唯一の、魔力を持たない無能者の吸血鬼で!」
 言いざまにまたも痛烈な跳び蹴りを見舞う。
 ソーンがファタルと旅を続けているのはそれが理由だった。吸血鬼同士の集落で暮らそうにも、生まれつき魔力を持たない特殊体質の彼を同胞たちは仲間と認めなかった。
 下等な魔物よりも一段高位に立つ魔族。その中でも上位に位置する吸血鬼一族は、気位も高い。
 普段は体術に優れている分ほんの少しだけ普通の人間より強いただの少年。しかし吸血鬼として人間の生き血を啜った後のソーンは、魔力こそないものの魔物本来の力を取り戻す。
 いまや武器の有無など問題ではなく、無手のソーンが鎌を振り回すクレイグを完全に凌駕していた。
「銀髪に赤い瞳の、魔力のない吸血鬼……まさか、〝黒き大陸の忌子〟か!」
 クレイグが動揺して声をあげる。彼が口にしたその名は、二百年ほど前に圧倒的な強さで大陸中の人間と魔物を殺しまわった一人の吸血鬼のことだ。
 もはや伝説と言っても過言ではない存在。
「すごい……」
 ヘザーの唇から溜息にも似た呟きが零れる。
 決着の時は来た。鋭い爪が伸びた指先を、ソーンがぴたりとクレイグの喉元に突き付けたのだ。
「待ってくれ!」
 そこに、ジュゼがソーンを止めに入った。
「頼む! 殺さないでくれ!」
「ジュゼ様……」
 今は領主であることよりも一人の青年であることを優先した男は、地面に額をこすりつける勢いでソーンに頼み込む。
「殺人犯だぞ。そして、あんたを殺人犯にも仕立てた」
 ソーンは無感動な表情のまま、淡々と事実だけを口にした。
「私の親友なんだ。殺さないでくれ」
「お前の大事な領民を殺した相手だろ?」
「これまでずっと私を支えてきてくれた!」
「何人も罪のない女たちを手にかけてきた」
「クレイグと一緒に、私も罪を償っていく。だから!」
 哀願に心を動かされたというよりも、それほど言うのであればジュゼがクレイグを監督するだろうという予想を立てたらしく、ソーンはクレイグを踏みつける足の力を緩める。
 しかし腕も足も少なからぬ個所を骨折したクレイグは、すぐに動くことはできない。瀕死というほどではないものの重体である彼は、唾液と一緒に血を吐きながら今持てる全ての力で叫ぶ。
「私は、赦しなど必要としない!」
 魔物は神を必要としない。
 凍りつくジュゼの横を小柄な影が通り過ぎ、自力で立つこともできないクレイグの眼前で立ち止まりその顔を覗き込むように屈みこむ。
「エマ……」
 信頼する幼馴染であり尼僧である彼女の接近に、ジュゼは気を緩めたのだろう。ほっとしたような笑みを浮かべた。
 地に膝をついて、クレイグの耳元に何かを囁きかけるように顔を近づけたエマの唇からぽつりと言葉が零れ落ちる。
「あなたが憎かったのは私なんでしょう? 何故一番最初に私を殺しに来なかったの? そうすればこれまでの女性たちのような、無駄な犠牲を出さずに済んだのに」
 何かの予感がヘザーの胸を駆け抜ける。そしてその正体をソーンはすでに知っていたようだ。彼の叫ぶ制止の言葉も間に合わずにその行為はなされた。
「――やめろ!」
 エマの唇から覗く牙がクレイグの首筋に埋まり、その顔色が蝋のように白くなるまで体中の血を吸い上げていく。
「一番に私を殺しに来てくれれば、もっと前にあなたを殺してあげたのにね」
 最後まで自分を魔物として敵視し続けた男の執念と憎悪と慧眼に敬意を表し、エマは本性を現した。本物の吸血鬼に刃物は必要ない。
 その囁きを聞いたクレイグは何かを口の中で呟きながら、微かに微笑んだようだった。
「エマ……クレイグ……」
 事切れたクレイグを前に、ジュゼが膝から崩れ落ちる。張りつめた糸が切れた彼の瞳から、透明な涙が滑り落ちた。
 この街にも吸血鬼はいる。かつて一口に魔物というくくりで迫害されてきた、赤い髪の女たち。時々はエマのように、先祖返りと思われる見事なまでの赤い髪と、魔物としての特性を持ち合わせる半魔が生まれて来る。酒場の老人は吸血鬼が殺す赤い髪の女こそかつてそう呼ばれた魔物だと皮肉げに笑っていた。
「エマが、本物の吸血鬼……? 嘘、でしょ?」
 ヘザーは呆然とその場に立ちつくし、ソーンも呆気ないこの結末に気力をすべて削がれた形になった。
 月明かりの下でクレイグの瞼を閉じさせながら微笑むエマの表情は聖母のように慈悲深い。だが、その両手は血に濡れている。
 子どもたちの始めた戦いに、こうして大人たちが何とも後味の悪い決着をつけたのだった。