002
シェスラート自身も、村に戻るのは酷く久しぶりなのだという。一人で帰れるという彼に、ロゼッテはソードと共に半ば無理矢理ついていった。他意があるわけでなく、ただ自分たちが助けた形になる少年が、今ここで手を離したことが原因で何か寝覚めの悪い結果になるのが嫌なだけだった。
解放軍たちの移動の間、馬に乗ったまま列を離れて、森の方へと向かう。それは東の辺境、田舎という言葉すら使われない山奥に向かう地域であり、人間は滅多に足を踏み入れない土地だ。その奥まった場所に、吸血鬼の集落はあるのだという。馬で行けるところまでは、と緑の木立が並ぶ道を進む。
どうせ帰りは二人だけになるのだからと、もともと馬は二頭しか連れてこなかった。ソードの馬の鞍に荷物を結びつけ、ロゼッテの後にシェスラートは納まっている。
吸血鬼の一族は、大陸の北東地域の一つに集落を作り細々と暮らしていた。ゼルアータの支配下にはあったが、他の国々のように解放軍との戦争には滅多に駆り出されてはいない。何故だとロゼッテたちが尋ねれば、こともなげにシェスラートは答えた。
「そのために俺が人質をやってたんだろ?」
「そうなのか? というか、そのため、というのが良くわからないんだが」
シェスラートの言葉の意味を掴み損ねて首を傾げるロゼッテに、彼はその顔立ちに似合わぬ大人びた笑みを浮かべた。かなりの年齢差があろうという少年相手にまるで子どもを見るような眼差しを投げられて、ロゼッテは思わず立ち止まってしまった。
「な、なんだ?」
「いや、別に……ロゼ、あんた、純粋培養なんだな、と思って」
「いや、だから何が……」
「知らなくていいのですよ。ロゼッテ様。シェスラート、お前も」
「わかってるよ。ぼかす。ぼかすから。…ええと、まあ、なんだ。だから、俺とヴァルター王の取引としてだな、俺がヴァルター王の元に人質として留まる代わりに、吸血鬼の一族を戦いに参加させるな、という契約をしたんだ」
「何故だ? 普通なら、お前という人質をとって、『人質を殺されたくなければゼルアータのために戦え』と吸血鬼に強要するのが普通じゃないか」
「それは、ヴァルター王にとって、吸血鬼の戦力が目当てである場合だろう。彼の狙いはそうじゃない。用事は俺の方にある」
「シェスラート自身に価値があるということか」
「……そういうこと」
一言紡ぐたびに、シェスラートの顔が暗くなる。
「シェスラート」
「なんでもない。それより、他に何か聞きたい事は? 一応助けてもらったわけだし、金なんか持ってないけど、俺ができることならするよ?」
「いや、別にそれはいいんだ。ただ少し話を聞かせてもらえないか? 吸血鬼について」
「……いいけど、何を?」
「なんでもいいんだ。外見とか文化とか生活習慣とか特徴とか。何しろ俺たちは、魔族についてよく知らないから」
「……そうだな」
前に乗ったロゼッテの背中にしがみつきながら、シェスラートが口を開く。
解放軍の移動は、ゼルアータの象徴たる王城を落としたことで士気が上がり今のところ何の問題もない。ロゼッテが戻らずとも他の幹部連中が上手くやるから、と彼らは追い出されてきた。焦って戻る必要もないということで、ロゼッテは比較的ゆっくりと馬を走らせていた。シェスラートがつい先日まで重傷を負っていたということもある。
けれど、ゼルアータ城に居た際に何事かあって負ったらしき彼の怪我は、すでに跡形もなく癒えている。吸血鬼の超再生力だ、と彼は説明した。
「吸血鬼は……お前たちも知っている通り、この大陸には二種族しかいない、魔族のうちの一種族だ。魔族とは人間に近い姿をしていて、でも人間じゃない一族と言うか……魔力があるというか」
「魔力?」
「ああ。俺たち吸血鬼の場合は、この再生力がそれだ。人狼の一族は、獣と人間の姿を行き来できるんだったかな。それで……他にも人間とは違う特徴がある」
「例えばどんな?」
「まず吸血鬼族の外見は白い髪と赤い瞳に、尖った耳だ。身体能力も人間のそれより優れ、幼い子どもでもかよわい女性でも人間の大の大人をぶっ倒すことぐらい簡単だ。怪我はすぐに癒える。そして何より、死んでも生き返る」
「し……死んでも生き返る?」
「ああ。それでもそんなほいほい死んだり生き返ったりできるわけじゃなくて、ある程度の条件は必要なんだけれど。仮死状態、ていうのかな。それを自由に操れる感じ。一度身体の機能を限界まで止めて、力が戻ってきたら起きる」
「冬眠する爬虫類のようなものか?」
馬を並べて首だけをロゼッテの背後のシェスラートへ向けたソードのその言葉に、シェスラートは一瞬微妙な表情をした。心外だ、とでも言いたげなその顔に、ソードは言いなおす。
「わかった。では冬眠する熊のようなもの」
「……もういいよ。それで」
生憎シェスラートの前に座っているロゼッテからその顔は見えないが、シェスラートが憮然とした面持ちでいる気配が背中越しに伝わってくる。
「……なぁ、シェスラート」
「何?」
「ここまで来ておいてなんなんだが」
そこまで前置きした上で、ロゼッテは一度馬を止め、彼の方を振り返って言った。森の道は狭いがゆっくりとした走りだったために、いきなり止まることになっても馬も慌てずに歩みを緩やかにした。
「お前、解放軍に入らないか? 俺たちの仲間として。歓迎するぞ?」
「ロゼッテ様!?」
ソードが驚愕と制止を織り交ぜたような声でロゼッテの名を呼び咎めるが、大陸を牛耳る大国を打倒する解放軍の長たる男は、その橙色の瞳を真っ直ぐに吸血鬼の少年へと向けた。
「残念だけど」
しばらく真摯な眼差しでロゼッテと睨み合っていたシェスラートは、断りを口にする。
「俺は、吸血鬼一族の長の家系だ。これまで村を空けた分、できれば皆と一緒にいたい。俺は兄貴みたいに村を支えるとかできないけど、こんなのでも護衛役としていないよりはマシだから」
「シェスラート」
「ありがとう、ロゼッテ。でも、いいんだよ。無理しなくて。吸血鬼を仲間になんかしたら、きっとあんたの方が苦労するぞ。だって俺たちは――――人間じゃないから」
その言葉に、ロゼッテは顔をしかめた。
「何を言っているんだ。シェスラート。確かに俺たちは人間でお前は魔族かもしれないが、そんなこと関係ないだろう?」
「……あんたはまだ知らないんだよ。俺たちとあんたたちは違う。その本当の意味を」
「だから」
「ロゼッテ様」
卑屈ともとれる言葉を吐いて、頑なになるシェスラートの様子に苦い思いを感じて言葉を重ねようとするロゼッテをソードが制した。
「もうすぐ、吸血鬼の集落が見えるはずです。そうだろう、シェスラート」
「ああ」
それきりこの話題は終わりとばかりに、馬の足を進めさせる。木立が終わり、隠れ里を作るにはちょうどいいくらいに開けた場所、緩やかな緑の丘が目の前に広がった。
その先は低い崖になっていて、無理に馬を駆け降りさせれば戻るのが余計困難になってしまう。一行は馬を最後の木の幹に繋いで、徒歩で森の奥の集落へと向かった。
翡翠の樹海の奥深くに、木と石で作られた家に住む、白い髪の人々の姿が見えた。懐かしい村人の姿を目にしてシェスラートは一瞬喜びの表情を浮かべかけ、しかしすぐにその柳眉を曇らせる。
「様子がおかしい」
「え?」
「どうしてこんなに静かなんだ? 確かに吸血鬼は昼間より夜の方が元気だけど、いくらなんでも見張りの男たちの姿が見えないなんておかしい。それに、人の気配が少ない。一体何が……」
しばらくぶりに戻った故郷の不審な様子に不安げに瞳を揺らすシェスラートに、村の領域を示してその土地を囲む低い柵の向こうから一人の子どもが気づいて名を呼んだ。
「あ! シェスラート!」
「え!? シェスラートが戻って来たの!?」
「嘘! ちょっと待ってよ! 本当にシェスラート?」
一人がこちらに気づけば側にいた子どもたちも次々に連鎖するようにシェスラートの顔を認めて声をあげる。けれど彼らの顔に浮かぶ表情は久しく会っていない仲間を迎えるというには悲痛で、得体の知れない不安がシェスラートにも、彼をここまで送って来たロゼッテとソードにも押し寄せる。
「一体何があった?」
ただいまも言わず、ただならぬ雰囲気を察した第一声としてシェスラートがその場で一番年長の子どもにそう尋ねると、彼らは一斉に涙を浮かべてシェスラートに抱きついて、縋り付いてきた。
「シェスラート、村が――――」
◆◆◆◆◆
朽ちた墓標が彼を迎えた。
「族長が……奥方様が、人間の兵士に……」
森の奥にシェスラートたちを案内してきた子どもがしゃくりあげながらそう告げる。途切れ途切れの言葉でも、目の前の墓と、人為的に荒らされた集落の様子と、魂が抜けた虚ろな目をした吸血鬼たちの様子を見ればわかった。
「父さん……母さん……嘘だ……」
生き残った村の者の話を聞けば、やってきたのはゼルアータ兵ではないとのことだった。けれどそれが、何の慰めになろう。
地に膝をつき、シェスラートは呆然と項垂れる。
致し方なかったこととはいえ、吸血鬼の一族がゼルアータに与したことは間違いない。属国や奴隷とされた民族はこのたびの解放軍の進軍の歯止めとして捨て駒として戦いに駆り出されたから、多分にそのせいもあるのだろう。吸血鬼の一族は積極的にそういった戦闘に参加したわけではなかったが、ゼルアータに味方した国々はどこも、その事情も考慮されずにこれまでゼルアータの横暴に服従していた奴隷たちの怒りを買った。どんな理由があるにせよ、お前たちがあの国に味方したのは事実だろう、ロゼッテたちは実際にそう言ってゼルアータの同盟国や属国を幾つも滅ぼしてきた。吸血鬼の一族も、だから。
そうしなければ、こちらが危なかったのだ。解放軍は最初から大勢力ではなかった。もちろん早い段階から彼らに味方した国の民は受け入れたが、中には最後まで解放軍に抵抗してゼルアータに服従し続けてきた国もある。彼らにどんな事情があったのか、滅ぼした側のロゼッテは、知らない。
けれどそんな事情を思えば、ロゼッテが指示を出したわけではないとはいえ、これもまた彼ら解放軍が放棄した故の影響かもしれないという考えが彼の心を重くさせる。
「どうして……俺たちはただ、平穏に暮らしたかっただけだ。みんなで笑っていられる場所が欲しかった、ただそれだけ」
暴虐に膝を屈して隷従に甘んじるのではなく。自由に、幸福に。救ってくれなくてもただ放っておいてくれればそれだけでよかったのだ。ただ、それだけだったのに。
「ヴァルター……俺は、何のために」
両親と兄の墓標の前で、シェスラートが力なく地面に膝を着く。人質として王に捧げられたシェスラートはどんな冷遇にも耐えて村を守ってきたが、それも結局は無駄だった。
人質と言う名目でゼルアータ城内に留められたシェスラートに、人権などというものはない。もともと人間ではない異種族だ。そんなもの必要ないだろうと慰み者にされ、あらゆる責め苦を耐え忍んできたのは全て全てこのためだったのに、待っていて欲しかった大切な人々はもうこの場にはいない。
墓標に蔓薔薇が絡みつき、何も知らぬげな顔をしてひっそりと揺れている。
「父上、母上……兄さん」
茫然自失した体のシェスラートに、すぐ側のロゼッテやソードからも距離のある背後から鋭い声が投げかけられたのはその時だ。
「人殺し!」
「フィルス?」
村に残された子どもたちの一人だった。十歳前後の少年少女ばかりしかいなかった吸血鬼の集落で、十二歳程度の外見をした彼は年長の部類に入る。少年は項垂れるシェスラートを、鋭い瞳でもって睨んでいた。
「お前がゼルアータと手を結んだりするから、こんな事態になったんだ! どうしてあんな外道の国に協力して大人たちが殺されなくちゃならない!? お前がこの事態を招いたんだよ! シェスラート=ローゼンティア!」
違う、と怒鳴りたいのにシェスラートの声は絞り出される前に喉の中で死んでいく。糾弾を発する少年の瞳にも、涙が浮かんでいた。
「ゼルアータ王なんて、信用しちゃいけなかったんだ! 人間たちの戦いなんて、僕たちには関係ない! 最初から、そう言っていれば……」
「フィルス、俺は」
「聞きたくない! お前の話なんか、もう何も……」
フィルス少年が崩れ落ちると、その身体を支えるように寄り添った少女が代わりにシェスラートを見つめた。こちらも泣きそうな顔で、シェスラートと、その背後のロゼッテたちを見つめている。けれどその瞳には恨みや怒りよりも、癒えることのない悲しみが勝っているようだった。疲れた声音が告げる。
「……フィルスの言った事は、本当のことよ。シェス兄さん」
「ラーニャ」
「だって、ここに襲撃を仕掛けてきた兵士たちがそう言ってたの。その二人みたいな、蒼い髪の人が多かったわ。ザリューク人ね。お前ら吸血鬼はゼルアータに肩入れなんかしやがって、て怒ってた」
シェスラートが紅い瞳を見開き、ロゼッテとソードは居心地の悪い思いを必死で殺す。ここで彼らが怒りや嫌悪をあらわにすれば、ますます吸血鬼族の信用を失い、シェスラートの立場も悪くなるだろう。
「ねぇ。シェスラート兄さん、もうどこにも行かないでね。王が死んだんだから、村に戻ってきてくれるわよね」
「何言ってる! ラーニャ!」
「フィルスは少し黙ってて! それがいいの。シェスラートがいれば、もう人間たちに襲われる心配はないでしょ? それに、大人たちが皆殺されてしまって大変なの。私たちを助けて。みんな死んでしまったから、今はシェスラートが一族の長なのよ」
「そんなこと関係ない! 出て行けよシェスラート! この疫病神!」
「黙りなさい、フィルス!」
「ラーニャ、でも、だって……ッ! だって、こいつのせいで……!」
シェスラートに殴りかかろうとするフィスルを押さえ、ラーニャがシェスラートに哀しそうな眼差しを送る。けれど、シェスラートはその視線に答えることができなかった。フィルスの悲鳴のような罵り声が胸に痛い。
ゼルアータ王ヴァルターとの取引。その重さを知っているのは、誰よりもシェスラート自身だった。村人も知らない契約により、シェスラートは彼の元に身を置いていたのだ。
フィルスの怒りは尤もだ。だけど。
「シェスラート」
かける言葉をなくしていたロゼッテは、少年の華奢な肩に手をおく。びくりと震えたシェスラートが、青褪めた顔で振り返った。
「お前は――」
「ロゼッテ=エヴェルシード。頼みがある」
言いかけたロゼッテの言葉を遮り、シェスラートは強い口調で切り出した。眼差しは揺れることなく、蒼白な顔に決意を漲らせてその言葉を口にする。
「俺を……お前たち解放軍の仲間に入れてくれ」