神聖なる悲劇 01

003

 吸血鬼族がゼルアータに与したことを疑われるのならば、自分自身の手でゼルアータを倒して潔白を証明するしかない。それがシェスラート=ローゼンティアの出した結論だった。
 村の実権はラーニャとフィルスに任せる。人間たちの脅威を感じたらどこへなりと逃げるのも自由だ。そう告げ、集落から出たことのないほとんどが世間知らずな吸血鬼の子どもたちのために多少の知識を与え、そうしてシェスラートはもと来たとおりロゼッテとソードと共に解放軍へと合流した。多くの子どもたちがそれでも見送る中、最後までフィルスはシェスラートを許す様子を見せなかった。
「ごめんな、みんな……」
 いつか帰るとは、シェスラートは約束しなかった。
「いいのか? だってお前は、ゼルアータ国王と、何か因縁があったんじゃないのか?」
「……いいんだ。俺が因縁を抱いていたのはヴァルター王だけで、ゼルアータ国自体に何かあるわけじゃない」
 来た時よりは早足で馬を働かせ、解放軍の後方部隊に合流するべく駆ける。その合い間に、舌を噛まないよう気を遣いながらもロゼッテはシェスラートに尋ねた。彼は答えた。ソードは二人のやりとりをただ聞いていた。そうして俯いただけでは説明できない翳りをその笑みに乗せたまま、シェスラートは正式に解放軍の仲間になった。
「お初にお目にかかります」
 ただ解放軍に入るとは言っても、集団である以上そこには必ず柵(しがらみ)がつきまとう。吸血鬼というあまりにも特殊な一族の彼を他の新参者のように人間の部隊に一緒くたに入れるわけにもいかなかったらしく、ロゼッテは苦肉の策を取った。シェスラートがまず引き合わされたのは、解放軍の幹部でもなく、かといって兵士の一人というわけでもなく、どことなく高貴な雰囲気を漂わせる一人の女性だった。
「わたくしの名はフィリシア。ロゼッテ様の婚約者です」
「婚約者?」
 解放軍の党首用の天幕の中、いかにも優雅な貴婦人と言った様子のフィリシアと相対し、シェスラートは頓狂な声をあげた。
「あんた、婚約者なんていたのか?」
「いちゃいけないのか? 彼女は幼馴染だ」
「というか婚約者って、一部の特権階級の習慣だろう。ロゼ、あんた、何者?」
 聞いたはいいが、さして答に興味がある風でもなく、シェスラートはフィリシアへと向き直る。ロゼッテと同じザリューク人の彼女は蒼い髪に橙色の瞳。髪の色が濃いので、白い肌が際立って美しい。
「俺はシェスラート。よろしく、フィリシア嬢」
「あら? 男の子……ですか?」
 外見は十代半ばの少女にも見えるシェスラートの声を聞いて、フィリシアはどんぐり眼をぱちぱちとさせた。
「まぁ。ロゼッテ様から力仕事はやめてやってくれと頼まれたからてっきり女の子だと思っていました」
「なんだって?」
 フィリシアから視線を外し、シェスラートはその隣に立つロゼッテを睨む。
「ロゼ、俺を戦場に出してくれ。俺もあんたたちと同じだ。ちゃんと戦える!」
 シェスラートがロゼッテに頼んだのは、兵士としてゼルアータと戦うための場を与えてくれと言うことだった。剣を持ち人を殺し返り血に染まる修羅の道だ。女性や子どもや老人のように、か弱い人間でもできる仕事をするためではない。
「何を言ってるんだ。お前はまだ子どもだろう?」
「だからって、俺は吸血鬼だ! 話を聞いてなかったのか? 吸血鬼族である俺の身体能力はあんたたち人間よりよっぽど優れているんだぞ!」
「いや、だからって……」
 シェスラートをフィリシアにつけたのは、ロゼッテの判断だった。見た感じ力仕事など全く出来そうにもない華奢な少年に、前線で戦うなど無理だ。初対面の女装の印象やその後助け出した時に昏々と眠り続けていた印象も強く、シェスラートには儚げな影ばかりが付きまとう。
 幸いにも解放軍には戦場に立つだけではなく、戦士たちの食事や洗濯などの雑務をする仕事がある。ロゼッテはその中でも自分の信頼できる相手――解放軍党首ロゼッテ=エヴェルシードの婚約者として立派に振舞うフィリシアへと、シェスラートを預けることにした。彼女ならば彼への対応も問題ないだろうし、ロゼッテ自身もたびたび会いに行くのに苦労はない。
 ロゼッテは何となく、この少年から目を離してはいけない気がしていた。
「あのな、ロゼ、吸血鬼を甘く見るなよ? 本当に。俺が本気を出せば、あんただって一ひねりなんだからな!」
「って言っても、お前、ただの人間であるヴァルター王に殺されかかってなかったか?」
 ロゼッテが初めて彼を見たとき、シェスラートは致命傷を負って床に崩れていた。その話を持ち出すと、シェスラートが顔色を変える。しかしそれは憤怒や羞恥というよりも、もっと複雑な感情で。
 けれどそれ以上をロゼッテが続ける前に、彼の頬は高らかに鳴った。乾いた響が場の空気を振るわせる。
「っ! ロゼ! ……フィリシアさん?」
 叩かれたロゼッテ本人よりも、むしろそのやりとりを眼前で目撃してしまったシェスラートの方が驚いている。そして彼の頬をはたいたフィリシアはというと。
「ロゼッテ様。無神経です」
 実に爽やかな笑顔だった。ただしお約束のように目は笑っていない。
「この方が大変な状況にいたことを知りながら、あえてそれを口に出されるなんて。……わかりました。シェスラート様はわたくしがお引き受けします。あなた様は少し、ご自分の行動を反省なさってください」
「フィリシア……」
 彼女程度の力で平手打ちされても、なまじ体格の良いロゼッテにはさほど痛みはないのだが、かけられた声音の凍てついた響には呆然とする。彼女はロゼッテのそんな様子に、にっこりと笑顔を向けると、そのままシェスラートの腕を引いて自分の天幕へと戻ろうとした。
 女性に無茶はできないらしく、フィリシアの腕を振り払えないままシェスラートが叫ぶ。
「ちょっと待て! 話は終わってない! ロゼ、俺は絶対に戦わせてもらうからな! じゃなきゃ何のための解放軍志願だよ!」
 喚く声がやがて遠ざかる。
「なあ本当に頼むって! 絶対問題なんて起こさないから!」

 ◆◆◆◆◆

 しかしさっそく問題は起きた。
「ど……どうしたんだ? この状況は」
 夜半、天幕の外、呻きつつ地面に転がる男たちを見て、ロゼッテは思わず一歩引いた。
 男たちの前には、仁王立ちしたシェスラートがいて、ロゼッテはそもそも彼の身に非常事態が起きたと呼び出されたのだ。……おかしいな。この状況は何だ。彼に何か大変なことがあったように考えたが、むしろ彼が大変なことを仕出かしたように見える。
 先程伝えられた台詞をもう一度思い出そうと頭を捻るロゼッテに、横からソードが溜め息とともに説明した。
「夜這いだそうです」
「は?」
「ですから、この者たちがシェスラートに夜這いをかけたんだそうです」
「……シェスラートは男だぞ? 確かに女の子みたいな顔はしているが」
「存じています。私も、そこの馬鹿どもも。我々も元は小規模な反抗組織だったとはいえ、今は解放軍という立派な組織。……男所帯では、このような事態は日常茶飯事ですから」
 つまり、夜這いと言えばまだ柔らかい言い方で、男たちがやろうとしたのはシェスラートへの強姦未遂だ。
「こいつら全員を、シェスラートが一人で伸したのか?」
 半眼で男たちを睨みつけていたシェスラートが、ようやくロゼッテを振り返った。
「ああ、俺は吸血鬼だから」
 少女のように華奢な少年はこともなげに告げた。平然とした様子の彼と、転がる男たちの惨状がどうにもロゼッテの中では結びつかない。
「……聞くのもなんなんだが、無事、なんだよな?」
「ああ。っていうかロゼ、俺よりお前の方がよっぽど顔色悪いけど?」
「……問題ない。ちょっと、眩暈がしただけだ」
 ロゼッテの耳にそれらの報告が入ってきた事はないが、これまでにもこのような事態はあったのだろうか。先程のソードの慣れたような言葉が気にかかる。
「ロゼッテ様。どうしますか?」
「あー、どうすればいいと思う?」
「とにかくこの出来事の首謀者に動機と過去の罪歴を聞きだし、相応の処罰をいたすのが適切かと」
「ええと、では」
 首謀者は? とロゼッテは問いかけるがここで素直に答えるような輩はもともとこんな行動を起こしはしない。顔を顰めたシェスラートの視線が後手に縛られながらもようやく胡坐をかくことを許された五人の間を行き来し、一人の上で止まった。
「ガナン」
 目つきが鋭く、削げたような頬をした男は解放軍の中でも次期幹部と期待される程の実力を持つ人物だ。貧しい農家の出で苦労して育ち、その恨みを彼らを搾取したゼルアータにぶつけるべく奮戦している、ロゼッテよりも幾つか年上の男だ。
「お前か? こんな事態を引き起こしたのは? 一体どうして?」
「はっ! どうして、だと?」
 ガナンは彼の癖である皮肉げな笑みを浮かべると、年下の上司であり解放軍を束ねる首領であるロゼッテを嘲弄するように言い放った。主を愚弄する気配に、ソードが眼差しを険しくする。チャキ、と腰に佩いた剣を鞘から軽く浮かせた。
「単なる欲求不満。手近でヤれれば誰でも良かったんだ。そっちのガキは綺麗なツラしてるしな」
 好色と返り討ちにされた憎悪の交じるぎらついた目で見つめられて、シェスラートは動じることこそないもののますます不愉快そうに眉を顰めた。眦が吊りあがる。
「強姦は犯罪だぞ、ガナン。立派な人権侵害だ」
「はぁ? 人権? 何言ってやがる、相手は化物じゃないか」
「ガナン!」
 ロゼッテではなく、横にいたソードから叱責の声が飛んだ。滅多に感情を荒げることのない、冷静沈着な青年がその茶色の瞳をきつくしてガナンを睨む。
「なんだよ。文句でもあんのか従者様。相手は人間じゃねぇ、ただの化物だ。何をやったところで、文句を言われる筋合いはねぇ」
 ロゼッテの脳に、ようやくガナンの台詞が染みこんでくる。
「……シェスラートは吸血鬼一族の者だが、俺たちの仲間だろう」
「仲間なんかじゃねぇよ、化物は化物だ。あんたたちは皿の上の鶏に同情するのかい? 偽善だな。しょせん人間は人間が大事なんだよ。犬猫を可愛がるその口で別の動物を殺して食べる。吸血鬼だってそれと同じだ。こいつらは人間じゃねぇんだから」
 だから何をしてもいいのだと。別の種族だから、自分の一族ではないから。食事のために鳥を絞めるように、好き勝手に弄んで傷つけても構わないのだと。
 ロゼッテは言葉が出てこない。代わりのようにソードが眼差しを険しくした。
「ガナン、今すぐ黙らないとその首を……」
「刎ねるってか? 自分の気に入らなけりゃ殺す。それじゃゼルアータの王様と何もかも同じだな!」
「貴様っ!」
「やめろ、ソード」
 ガナンを黙らせようと剣を振り下ろしかけたソードをロゼッテが止める。切迫した状況にも関わらずガナンは澱んだ光を湛えて、滔滔と喋り続ける。
「俺のいた村では、飢饉になったらそこいら歩いてた犬でも殺して喰った。ちょっと金持ちだった家がそれまで可愛がってたお犬様を殺して喰ったってのはかなり滑稽だったぜ」
「何が言いたい」
「人間が生きるためには、それ以外の種族なんて全部喰いもんにするしかねぇんだよ。いくら外見が人間に似てるからって、吸血鬼なんて単なる化物だ。だから殺そうが犯そうが、たいして騒ぐことでもねぇだろう」
 いくら溜まってたからってまさかフィリシア様にお相手願うわけにもいかねぇしな。暴言。こんな顔だけ綺麗な化け物は、それぐらいにしか役立たないだろう、と。下卑た笑い。
「お前っ」
 あまりの言いようだとソードに引き続きロゼッテさえも剣を抜こうかと思ったところで、静かな声が闇のしじまを揺らした。
「ああ、お前の言うとおりだよ」
「シェスラート」
 当事者でありことの被害者であるシェスラートは、怖いぐらいの無表情で縛られたガナンを見下ろした。両手で彼の頬を包み込み、能面のようだった白い面に凄絶な笑みを乗せる。紅い瞳には、人間とは思えない酷薄な光が浮かんでいた。吸血鬼の瞳だった。
「お前の言っていることは正しいよ。吸血鬼は人間とは違う。どんなに姿が似ていても俺たちは異種族だ。お前たちとは別の生き物だ。だから」
 ぞくりと、その場の全員の背筋を冷たいものが伝う。
「だから殺されるだけの餌として、お前が俺に喰われても文句はないよな?」
 所詮この世は弱肉強食。ただそれだけが秩序だと言うのなら、勝った者強い者が何をしてもいいのだろうと。笑むシェスラートの口の端から、象牙のように白く鋭い牙が覗いた。
「や、やめろ! シェスラート!」
 ロゼッテは慌てて自分より一回りも二回りも華奢な少年の体を抱きすくめて止めた。仰ぐようにして彼を振り返ったシェスラートの瞳には先程の酷薄な光はない。
「こんな奴喰ったって絶対美味くないぞ!」
 他に言う事はなかったのか咄嗟に口を紡いだ言葉をロゼッテは早速後悔するが、シェスラートはぱちぱちと瞳を瞬かせるとふいに破願した。
「冗談だ。ちょっとからかっただけだよ」
 その様子はいつもの通りのシェスラートで、得体の知れない影を背負うものではなかった。
これを機にソードが見張りの男たちを呼んで、事態を収拾する。ガナンたちには厳重注意と軽い罰則が課された。
 しかし、ロゼッテに関しては事態はこれだけで終わらなかった。
「まあ! それでシェスラート様をそのままにしてきたのですか!?」
「いや、そのままって……フィリシア?」
 婚約者と一緒の天幕に戻り、夜中に呼び出された出来事の顛末を説明したところでまたしてもフィリシアに叱責された。
「だから、あなたは気遣いが足りないのだというのです!」
 そう言って、フィリシアは足音高く天幕を出てシェスラートの元へと向かう。ロゼッテは慌てて後を追った。
「フィリシアさん? ロゼ?」
 一時的に彼につくよう指示されたソードと共に、シェスラートはつぶらな瞳をさらに円くしながら二人を迎えた。顔を見た途端、フィリシアは思い切り彼を抱きしめた。
「フィリシアさん?」
「お可哀想に」
 心からの同情が篭もった言葉に、少年はぴたりと動きを止める。
「怖くて、嫌な思いをしたでしょう。もう心配しなくていいのよ」
 シェスラートは二人が入ってきた入り口の方を向いていて、フィリシアは直進して彼に抱きついたためにロゼッテからは彼女の背中しか見えない。そして、彼女にしがみつかれたシェスラートの表情がよく見えた。慰められた彼の表情は一瞬瞠目して強張り、ついで緩やかに解けていくのがよくわかった。
「うん……ありがとう、フィリシア」
 行き場のなかったシェスラートの手がフィリシアの背に回される。子どもが母親にするように、安心したように縋りつく。
 穏やかなやりとりのはずなのに、ロゼッテはその様子に何か、もどかしい思いを覚えた。