神聖なる悲劇 01

004

 砂塵の中に鮮血の花弁が散る。
 漆黒や褐色や煤けた灰色、土色の黄土色、それに多くはザリューク人の蒼い髪だけがある戦場で、その少年の白銀の髪も白い肌もよく目立った。彼は驚くほど軽装で、鎧の一つも纏っていない。
 シェスラートは顔色も変えず、辺りの敵を薙ぎ払っていく。ゼルアータ人と、ゼルアータに与した国家の連合軍は、次々と彼の前に成す術もなく倒れていった。積み重なる屍は、苦悶の表情を浮かべる暇すら与えてはもらえなかった。
 しかもシェスラートは、剣をほとんど使っていない。ほとんど手で人の四肢を首を引きちぎっている。人間よりも遥かに強靭な身体能力を誇る吸血鬼の一族にとって、脆弱な人間の体を打ち砕くことなど容易い。
 だが、人間の能力を大きく超えたその姿に人々が覚えるものは畏怖ですらない、純然たる恐怖と、嫌悪。
「化物だ」
「魔物だ」
 歓声は、感嘆は、やがては恐れの交じる蔑みの声音に変わっていった。
 それでもシェスラートが眼前の敵を縊る手を緩めることはない。その様は戦っているのではなく、ただ相手を屠っているのだというように、紙切れのような屍が刻一刻と増えていく。戦場の一角だけが屠殺場と化し、敵方も華奢でか弱げに見えながら血塗れのシェスラートを恐れて近づいて来なくなる。
 白い肌も白銀の髪も、その瞳と同じ深紅にまみれている。全身から血を肉片を浴びて、それでもなお凛々しく立った。
 たった一日でシェスラートのことは戦場中に広まった。
「けっ! あんなの、どうせ俺たちとは別の世界の生き物なんだから当然だろ?」
「お、おい、ガナン」
 中には、その戦功を素直に認められないものもいる。
「やめておけよ、陰口なんて。聞かれたら何されるかわかんないぜ?」
「そうそう。あんなやり方しておいて、顔だけは女みたいで。どうせ、党首のロゼッテをたぶらかして解放軍に入ったんだろ」
「お前もやめておけよ。殺されるぞ」
 中には、吸血鬼という種族をただ恐れる者もいる。戦力としては歓迎するが、自らは関わりあいになりたくないと。
「皆! 今日もよくやってくれた!」
 砦を一つ落として、解放軍とゼルアータ軍残党との戦いは終わった。とは言ってもそれはこの地域だけのことで、ゼルアータに与する勢力、とくに最大の軍と呼ばれる派閥がまだ残っている。
 それでも勝ちは勝ちだと、解放軍の男たちは早速戦勝の宴を開いていた。野原に黄土色の天幕を張り野営を行う傍らで、街から仕入れた食料と酒を持ちこんだ。
こういった戦いに身を置く者たちには普通以上に戦いの興奮状態を昇華させ、士気を盛り上げてやる場所が必要だろうとロゼッテもそれを許していた。
 彼自身は酒を好まないが、皆が楽しそうにしている空気は好きだった。こうして解放軍の行動が誰を恐れるほどもないくらい大きくなり、勝ち戦の後どこかの国に滞在している時は、色町に遊びに行く連中もいる。
ロゼッテが見回りのために天幕の間を歩いていると、見慣れた人影が走ってくるのが目に入った。
「シェスラート」
「ロゼ」
 今日の戦闘の立役者とも言うべき人物が宴にも交じらずこんなところで何をしているのかと、ロゼッテは訝る。時刻は宵闇の帳が降りたばかりで、空の半分に少し足りないくらいがまだ茜色をしていた。血のように滴る夕陽の残影を追う薄闇の帳の下で、シェスラートの白い肌と髪がよく目立つ。
 そして瞳は夕焼けに染まり、いつもよりさらに燃えるような深紅に輝いていた。
 彼の様子がどこかいつもと違うような気がして、ロゼッテは首を傾げた。勝ち星を挙げたばかりだというのに沈んだ顔をして、シェスラートは首元を抑えている。
「どこか怪我でもしたのか?」
「いや、ううん。そういうんじゃなくて、ちょっと……」
 妙に歯切れ悪く、シェスラートはロゼッテから目を逸らしながら答える。
「ロゼ、どこか行くのか?」
「いや、この辺りをふらふらしてただけだ。シェスラートこそ、どこかへ行くようでもあるのか?」
 尋ねると、ぎくりとわかりやすいほど大きくシェスラートの肩が震えた。
「……ちょっと、用事が」
「そうか? じゃあ俺もついていってやろうか?」
「な、なんで? 別にいいよ!」
 まだ日が暮れたばかりとはいえ、先日のようなことがあっては困ると同行を申し出たロゼッテにシェスラートは酷く慌てた様子で返す。全力で拒否するその態度に不審なものを感じ、ロゼッテは眉を顰めた。
「シェスラート? どうしたんだ?」
「なんでも、ない……お前には関係ない」
「関係なくなんかないだろ? 仲間なんだから」
「ロゼ。でも俺は」
 言いかけた言葉を喉の奥に封じ、シェスラートは諦めたように背の高いロゼッテを見上げた。
「ロゼ、頼むから」
 頼むからやめてくれ、そう続くのだと思っていた言葉に意外な返答を得た。
「頼むから、嫌いにならないでくれ」
 縋るような口調でそれだけを告げて身を翻したシェスラートの背中を追い、ロゼッテは歩き出した。そしてこの吸血鬼の少年がどこへ向かい、何をする気だったのかを知った。
 知らなければ良かったのだということを、知った。

 ◆◆◆◆◆

「噂になっていますよ」
 計画では明日、ゼルアータ軍残党の一部が詰める砦に攻め込むことになっている。同じ天幕の中で武器の手入れをしながら、ソードが報告する。
「シェスラートは化物だと。彼は人間を喰うのだと」
 油を含ませた布で刃を拭っていた手を止めて、ロゼッテは答えた。
「ああ」
 白い顎から滴る血。死肉を咀嚼する鈍い音。
「ロゼッテ様」
「本当のことだ」
 あの日、勝ち戦の後の宴を抜け出してどこかへ行こうとしていたシェスラートについて彼の行動を見たロゼッテは、しばらく沈み込んでいた。
「吸血鬼とは、人の血肉を喰らって生きる種族だ」
 わかっていたのだ、初めから。魔族は、人でないからこその魔族だと。人間と似た姿で人間と同程度の思考能力を持ち、人間と同じように心を通わせられる。そう、思っていた。
 けれど彼らは決定的に、人間とは違うのだ。
「シェスラートはどうしている?」
「二つ隣の天幕でフィリシア様とお話しております。お二人は仲が良いので」
「そうか」
 手入れし終わった剣を鞘に収め、次の剣を手に取る。
「……俺は、彼が戦場で死体を食い漁っているのを見た」
 ソードは礼儀正しく僅かに眉を歪めたのみで、自身も使い古した甲冑の手入れをしている。油と鉄、それに紛れて古い血の匂いが天幕に篭もっている。
「……考えてみれば当たり前のことです。彼は≪吸血鬼≫なのですから」
「ソード、お前は驚かないのか?」
「十分に驚いていますよ。けれど、彼の行動と態度に感心してもいるのです。本来なら新鮮な生き血を飲みたい……そこまで言わなくても死んで何時間も経った死体の血など、間違っても飲みたくはないでしょう。それを、わざわざ解放軍の人間に手をつけないで戦場まで血肉を得に行っているのです。彼の力を持ってすれば、腕ずくで脅して血を奪うことなど容易いでしょうに」
 そう、屈強な男がか弱い淑女を脅迫するより、それは容易い。わかっていたのだ。シェスラートは人間ではないのだから。
「だが……」
「私はそれを話伝えに聞いただけなので、直接現場を見てしまったロゼッテ様のお気持ちは残念ながらお察しできかねます。言葉に出す分には生々しさを忘れがちなそれがどれほど背徳的な光景かということも。ですが」
 吸血鬼一族の姿はほとんど人間と変わらない。だからこそ罪深い。白銀の髪、白い肌、それこそ血のような色の瞳に背徳の香りを漂わせてその光景はまるで人が人を喰らうよう。
「彼らは、神が我々人間の原罪を示すために生み出した存在なのかもしれません」
「ソード?」
「ラクリシオン教に傾倒するわけではありませんが、もしも神がまず人を作り、そして人以外の生き物を作ったと言うのならば」
「何が言いたい」
「人は誰しも、他者を踏み台にして生きている。屠りし者たちの、屠られし者たちの血を飲み屍を喰らい、そうして」
「ソード!」
 物騒なことを言い出す彼の言を押しとどめようと、ロゼッテは声を荒げた。
「ロゼッテ様。私はあなたに感謝しています。あの時、あなたが救ってくださらねば私は惨めにルミエスタの裏路地の片隅で死んでいたことでしょう」
 ソードはシュトゥルム大陸西部の一国、橙の国と呼ばれるルミエスタ国の人間とザリューク人とのハーフだ。それは彼の榛の瞳が示している。ロゼッテを始めとする解放軍の人間は蒼い髪に橙色の瞳のザリューク人が多いので、シェスラートとは別の意味で彼もまた目立っていた。
「ルミエスタの貴族の庶子であった私は、正妻に疎まれて殺されるところでした。ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク様。あの日、あなたに出会わなければ」
 十年も前に滅びた、ザリューク国最後の王族ロゼッテ。
 解放軍を率いて、祖国を滅ぼした大国ゼルアータを打倒する。その目的のために諸国を巡って反乱勢力を集めていた。ゼルアータに最初に侵略された国だけに、ザリュークの恨みは根深い。その途中の旅で訪れたルミエスタにて、ソードと出会った。
 今でこそ理知的な眼差しの青年へと成長したソードは、初めて出会ったお互い十代の頃はこの世の何をも信じられないような顔をしていた。周りの人間は全て敵で、目を合わせた瞬間殺されるとでも言うように。
「亡国ザリュークの衰退ほどではないにしろ、かつて美の国と謳われたシルヴァーニも貧困と飢餓に苦しんでいます。バロック大陸の方では、サジタリエンとラウザンシスカが紛争を続けています」
 世界はいっこうに平和になる気配もない。豊かな暮らしが向こうから歩いて来るわけではないとわかっていても、今まさに困窮している人々にとって、襲い来る運命はあまりにも過酷で無慈悲だ。
「人は、人を喰らうのです」
「だが」
「先日のガナンの発言も、……仕方がないと言えば、仕方がない」
「仕方がないだと! シェスラートは俺たちと同じだ! あんな風に迫害される謂れはない!」
「けれど、怖いのでしょう?」
 まるで憐れむような眼差しで、ソードはロゼッテを見つめた。
「弔いもされず放置された屍の折り重なる戦場で、冷え切って腐りかけた死人の肉を喰らうシェスラートがおぞましいのでしょう?」
 見惚れるほどに綺麗な、貴族の淑女のような指先が泥土まみれの死体をひっくり返し喉首に喰らいつく。冷えた血を啜り、鋭い牙で無理矢理肉を引き裂いて喰らう。艶やかな唇から零れた血が白い顎を伝って滴り、その胸元を染めていく。
 ああ、おぞましかった。気持ち悪かった。怖かった。なまじシェスラートは外見が人間に近いだけに、人が人を喰らう光景を見ているようで、なおさら胸が悪くなった。
「しかし何も、残酷なのは吸血鬼が人を喰らうのに限ったことではないのです……」
 鎧の手入れをする手を止めて、伏し目がちにソードは言った。
「我々だって、彼らと同じですよ。自分が生きるために他の生物を犠牲にできる。食すということに限らなければ、それは同じ人間でさえも」
 その言葉に、ロゼッテは先日のガナンの台詞を思い出した。
『俺のいた村では、飢饉になったらそこいら歩いてた犬でも殺して喰った。ちょっと金持ちだった家がそれまで可愛がってたお犬様を殺して喰ったってのはかなり滑稽だったぜ』
平生いくら取り繕おうとも、人間の化けの皮など一度苦境に陥れば我が身可愛さに容易く剥がれ落ちる。
「私にはガナンの言ったことも、シェスラートの気持ちも、上辺だけと言われる程度でよいのなら……わかる気がするのです。私もあなたに救われるまで、世界は全て敵で、自らが生き残るためなら誰だって害することができると思っていたのですから」
 ソードはそんな自らの有り様を悔やんでいるようだった。仕方ない、という言葉で収めるには、あまりにもこの世の闇も彼の絶望と自嘲も深すぎた。
「ロゼッテ様。ザリュークは既に滅びたとはいえ、あなたは王族。良い意味でも悪い意味でも育ちが良い。それを忘れてはなりません。貧しい者の言葉を無様だと唾棄するのではなく、自らの受け入れられないものを嫌悪して切り捨てるのではなく」
 ロゼッテは剣を拭い終わり、無言で鞘に収めた。度重なる戦いの果てにどこもかしこもくすんでくたびれて見えるが、そこに刻まれた紋章は確かにザリューク王家の物だ。
「俺は、ザリュークが好きじゃなかった」
 紋章を眺めながら、ロゼッテは口を開いた。
「エヴェルシード家の父上は好きだったが、ザリューク女王であった母上はな。どうにも気が強すぎて、何もかもが自分の思い通りにならないと気が済まない人だった。父上はそれに随分振り回されていたよ。温厚で、穏やかな性格の人だった」
「ではロゼッテ様は、お父上に似られたのですね」
 それには答えず苦笑を返す。
「……フィリシアを婚約者に選んだのも、彼女が俺の母とは似ても似つかぬ優しい性格をしていたからだ」
 ガナンの起こした事件以来、解放軍内で孤立しがちなシェスラートを気遣う心優しい婚約者の名を出して微笑む。今も彼女はシェスラートと共にいるはずだ。戦場で戦えば無敵のシェスラートはけれど細々としたことも得意で、フィリシアとは気が合うようだった。
「なぁ、ソード。教えてくれ。どうすればシェスラートを解放軍の中で、確固たる立場につけることができる?」
「ロゼッテ様」
 賢い従者に意見を仰ぐ。死肉を喰らう少年の姿は恐ろしくおぞましくけれど哀しくて儚かった。
 ――頼むから、嫌いにならないでくれ。
 嫌わないで、嫌わないで、と彼だけでなく誰もが叫ぶ。こんな世界で思い通りに行かないことばかり、理想どおりに生きられない自分の醜さを時には皮肉で押し隠し、時には面と向き合い、時にはそれに涙しながら、人は過ちを繰り返す。そうでなければ幸せになれないのだと。自分を誤魔化しでもしない限り。
 言われるまでもなく、ロゼッテにシェスラートを嫌うことなどできない。だから。
「悪い噂など払拭するほどの功績を彼に……ロゼッテ様、明日の予定では、シェスラートは確か我々と共に最上階の牢獄まで向かうのでしたね?」
 解放軍の次の進軍地は、ゼルアータ軍の残党が立てこもっている砦だった。その場所にゼルアータ兵はただ留まっているのではなく、本来大陸中央部の神殿に務めているはずの巫女たる少女を幽閉しているのだという。ロゼッテたち解放軍の目的はその巫女姫の奪還だ。
 シュルト大陸の広範囲に普及しているラクリシオン教の巫女を救えば、いまだ解放軍に対して冷ややかな態度の各国も抱き込むことができる。ゼルアータの眼が怖くて離反できなかった属国にとっても神の名の下という免罪符があれば行動を起こしやすいだろう。
建前は神を蔑ろにするゼルアータへの反抗という形であっても、本音は別にあるということだ。それを、ロゼッテもソードも悪いとも思っていなかった。神は人を救わない。
「巫女姫救出の役目、いっそシェスラートに任せてはどうでしょう? シェスラートの力を信じるならば、一石二鳥の策です」