神聖なる悲劇 01

005

 頼む、とロゼッテに言われた。いってらっしゃい、とフィリシアに送り出された。
 シェスラートはゼルアータの軍事的拠点の一つである砦の塔の上、最上階を目指す。そこに今回救出を依頼された巫女姫が幽閉されているのだという。
 しかしこの塔、要塞だけあって構造が複雑すぎる。事前に手に入れた地図の間違いに惑わされ、巫女姫が囚われているという塔への入り口へと辿り着けない。何の変哲もない灰色の石壁が無機質にそこにあるだけの様子に、その内だんだんと苛立ちが募る。
「シェスラート!」
「何!? 見つけたのか!?」
 とにかく上階に通じる道はないかと走り回って探していたシェスラートに、解放軍の同士の一人が声をかけた。だが、その響には切羽詰ったものが滲んでいる。
「入り口はこっちだ! だが大変だ! ゼルアータの兵士が俺たちに奪われる前に巫女姫を殺そうと上がっていったらしい!」
「何!」
 焦燥をそのままに叫び返し、シェスラートは端正な面差しを歪めて舌打ちする。
「どうする!? ここからじゃ間に合わないだろう、これだけの高さ」
「いい、俺が行く」
 幽閉と言えば塔なのか、巫女姫が監禁されている場所はよりにもよって砦の塔の最上階だ。入り口を探すのにも走り回って、この場所から先が見えないこれほどの長さの螺旋階段を昇りきる体力は一般の兵士にはない。
 だがシェスラートは特別だった。身軽に三段飛ばしで、羽はないけれど飛ぶように駆け上がっていく。
「あいつ……本当人間じゃねぇなぁ」
 それを見送った解放軍の男たちは、感心したように声をあげた。実際どれほど陰口を叩いたところで、この体力の違いに敵うはずはない。
「というか、躊躇いないな、シェスラート。ロゼッテに同じ隊に入れろって言われたときは、あんな顔も体つきも女の子みたいなのが役に立つかって思ったのにな」
「ああ。すげぇな。シェスラートは」
 解放軍の中でも、シェスラートを認めない者とその能力に感嘆する者、二つの派に分かれているのだ。純粋に戦場での戦い、作戦遂行への行動力と度胸。認めるべき要素はいくらでもあり、それが吸血鬼という種族への畏怖を取り払うこともある。
 しかし自分がそんな風に他者からの評価を受けているとは露ほども思っていないシェスラートは、ただひたすらに最上階を目指していた。階段の途中で住居らしき小部屋を幾つか見かけたが、どこももぬけの殻。やはり巫女姫は屋上に連れ出されているらしい。ならばこのまま突っ走るしかないと、シェスラートは単純にそれだけを頭に刻んで行動する。
 そしてここにもう一人、突っ走る人物がいた。
「さぁ、姫君」
 石造りの塔の屋上、眩しいほどに晴れ渡った空の下、ゼルアータでは何か重要な役職にいたらしい男が、落ち窪んだ目をして、首元に剣を突きつけて脅した少女に声をかける。
 きらきらと陽光を受けて輝く銀髪に上品な薄紫色の瞳の少女は、気だるげな動作で彼を振り返った。その身に纏う衣装は薄紅に薄紫の薄い絹を重ねたもので、髪と同じようにきらきらと輝いている。その容姿は、まるで女神の降臨したようなものだと言われている。
「あなたには、役目があります」
「わたくしに?」
「ええ。そうです。あなたはこの世界の中心。神の託宣を唯一その身で聞く事ができる存在。そんなあなたを、解放軍などに奪われては困るのです」
 重役だけではなく、兵士が数人この屋上にいる。巫女姫――サライを拘束する男は、部下の兵士たちに指示した。
「その階段で敵を待ち構えろ。いくら解放軍などと、卑しい奴隷どもが徒党を組もうとも一対一でゼルアータの兵に敵うわけがない」
「……っ」
 兵士たちは言われたとおり、彼らも使ってきた塔の屋上へと続く階段の頂上で待ち構えた。これでは解放軍がいくら兵力を投入しようとも、一人しか戦えない。
「さぁ、サライ様」
「……なんです?」
「ここに、署名を」
 男はサライに一枚の紙を差し出した。その内容に目を走らせ、サライは一瞬目を瞠る。ついで、半眼になった。
「わたくしに、ヴァルター王の行為が正当な神の託宣による行いだと認めろと?」
「そうです。巫女姫。あなたが神の代理人たるその名においてヴァルター陛下の意志を認めてくだされば、ゼルアータに歯向かう者もこれ以上現れますまい」
「ゼルアータ国王ヴァルター陛下は身罷られたとお聞きしましたが? お子様もないままで、あの国を継ぐ方はいらっしゃらないと」
「……どこで、そんな話を?」
「どこも何も、わたくしはこの六年間、この塔から外へ出たことはありません。知っているはずでしょう?」
 思いがけず強気なサライの口調に、男は一瞬怯んだ。自分の半分も生きていないような少女の眼光が、そうとは思えぬほどに鋭い。
 けれどそれは何かの間違い、小娘が強がっているだけだろうと、すぐに男は咳払い一つして初めの余裕を取り戻した。睨むサライの眼前にその紙を押し付ける。羊皮紙ではなく、植物から作られた本物の紙。それに目を留めて、サライはその紙を受け取った。
「さぁ、巫女姫。署名を。ヴァルター王こそ、この大陸の支配者であり、反乱軍は神に仇なす無法者である、と……その若く美しい命を、こんな場所で長きに渡る幽閉生活の末に終わらせたくはないでしょう? あなたが我等に協力してくれるというのなら、ここから出して差し上げてもよい。もちろん、我らに力を授けてくださった巫女姫へのお礼も充分いたしましょう」
 白魚の指先が、渡されたその紙を両手で持つ。懇願ではなく脅迫の言葉を吐いて、男は威圧的にサライに託宣を保証する書類を書かせようとした。
「そう……ですね。わたくし、まだ十六歳ですもの。死にたくなんてありませんわ」
 サライの言葉に、男はこれまでも浮かべていた歪んだ笑みを深める。神託を聞く巫女と言えど、所詮はただの幼い娘、脅して傀儡にすることなど容易い。さぁ、署名を――
「えい♪」
 目の前で、現在この世にただ一枚きりの紙が真っ二つに引き裂かれる。
「――――は?」
 呆然とそれを見送った男は、更に書類がサライの手によって細かく細かく引き裂かれこれ以上ないというところまで破片にされるまでに意識が帰ってくる事ができなかった。お誂えにもここは高い高い塔の屋上。不敵な笑みを浮かべたサライの手から、もはや何の意味もないただの破片となった書類が白い花吹雪のように飛んでいく。
「な……な……」
 男はあまりのことにこめかみをひきつらせ、血管を浮かび上がらせている。これまで被っていたか弱い少女の猫を盛大に捨てて、サライは儚げな容貌を裏切る高笑いを浮かべた。
「アーッハハハハハ!! どうよ! これで今ここにもうこの書類を書く手段はなくなったわね! まさかこの非常時に『一枚破れたからじゃあこれ予備で★』なんてこと、ないでしょうね! 巫女の託宣保証書は神殿の最重要品だもの!」
 サライが指摘したとおり、先ほど引き裂かれて空の果てまで飛んでいった紙は、そう簡単に手に入るものではない。あまりの事態に、男は頂点に達した怒りを静めることもできない。
「な……なんてことをしてくれるんだ!!」
 男の罵詈などそよ風のように受け流し、サライは嫣然と微笑んだ。紅を塗っているわけでもないのに、紅い唇が毒々しい。
「やっぱり二枚目は出てこないみたいね。じゃあ、もしもここであたしが死ねば、あんたたちは巫女の託宣も聞かずに巫女を殺して世界を支配しようとしたただの暴徒よね。ま、もともと甘い取引持ちかけて、託宣書だけ書かせたら解放軍のせいにでもして、さっさと殺すつもりだったんでしょうけど」
 サライは戦慄くばかりでその場から動くこともできない男に背を向け、彼から距離をとるかのように歩き出す。入り口であり唯一の出口を固めている兵士たちもこの成り行きにあんぐりと口を開けるばかりで、誰一人動けない。
 ここは狭い塔の上の、屋上。最上階だ。
 逃げる場所などなく、けれど躊躇いのない足取りはすぐに塔の縁へと辿り着く。あまりにもあっさりと、彼女は転落防止のその枠へと足を乗せた。薄い衣装がひらりと舞って、白い足首やふくらはぎが露になる。
 後一歩踏み出せば空というその場所に、恐れ気もなく立った。上空は強い風が吹いていてサライの見事な銀髪を靡かせる。今にも落ちそうだ。なのに、彼らゼルアータの男と兵士を睥睨しつつ微笑んでいる。美しく薄ら寒いその笑顔。
「み、巫女姫! 何を!?」
「言ったでしょ? あたしが死ねば、あんたたちゼルアータは巫女の託宣を聞かずに巫女を殺して権力を得ようとした単なる賊よね、って。何もない人が見たら、ここであたしが死んだら明らかにゼルアータの仕業だもの」
 時流は解放軍に味方している。暴虐の大国ゼルアータは、自らが生み出した罪によって滅びようとしている。彼女はただ、目の前にあるその背を押すだけ。
 こともなげにそう言って、サライは今度は心からの笑顔を浮かべた。
「巫女は神からの託宣を曲げて伝えてはいけないのよ。従いたくない証明書をああやって破棄できるように、女の細腕でも引き裂けるように紙製なの。――命があるなら覚えていなさい。例え巫女を殺しても、神託が覆ることはない」
 紫の瞳が男たちを射抜く。
「ゼルアータは、必ず滅びる」
「誰か巫女を止めろォ!!」
 サライの足が地を蹴った。塔の屋上から、自らの意志でもって飛び降りる。
「ちょっと待った――――ッ!!」
 彼らが聞いたこともない声がその場に響いたのは、まさにその瞬間だった。
「ええっ!? よりにもよって飛び降り!?」
 高くて綺麗な少年の声が素っ頓狂に叫び、次の瞬間には入り口を固めていた兵士を残らず薙ぎ倒していた。人間業を超越した速さで駆け、迷うことなく宙へと身を踊らせたサライの姿を追う。
 ガクン、と落下が止まり、抱きしめられた腰を中心にサライの身体に衝撃が走る。
「どうして人間って奴は、一度死んだら生き返らないくせにこんなにも簡単に命を投げ出せるんだ?」
 塔の頂上から飛び降りかけたサライの体を支えながら、シェスラートは呟いた。自らの身体は壁面に完全にめり込んだ左手に支えられていて、足場のない空中にその身を留めている。この救出劇は彼でなければ到底できない芸当だ。
 吸血鬼は致命傷を負っても、条件次第で生き返ることができる。心底不思議そうな様子で自分を見る少年に、後から駆けつけたザリューク人の男たちに二人まとめて引き上げられる途中、彼女は呆然としながらも答えた。
「一度死んだら生き返らないから、命の使いどころを間違えないんじゃない?」
 それが、未来を予言する巫女姫サライと、吸血鬼族シェスラートの出会いだった。