神聖なる悲劇 01

006

 この世界には神がいる。
 否、正確には、いるのかどうかはわからない。しかし、「いる」とされているのである。全能の神、創世にして創生の神が。そしてその神を崇める宗教は大雑把に分けて世界に二つ存在する。ラクリシオン教とシレーナ教だ。
 ラクリシオン教は主にゼルアータが支配しザリュークがその体制を打破して革命を起こそうとしたシュルト大陸に布教している宗教である。一方のシレーナ教は、もう一つのバロック大陸で信仰されている。とは言っても両宗教の名はその創始者がラクリシオンという男性であるかシレーナという女性であるかの違いと、その教義の細かい違いにおいて区別されているだけであって、本質的には同じ唯一の《神》を信じるということに代わりはない。
 そして、シュルト大陸におけるラクリシオン教には最大の特徴がある。それは神の《託宣》を聞く事ができるという《巫女姫》の存在だ。
 これはバロック大陸のシレーナ教にはない存在と役職で、ラクリシオン教の創始者であるラクリシオンが神の声を民に伝える神官としての性質を備えた一国の王であったことに由来する。どのような理由でそのような存在が生まれるのかは解明されていないが、代々の巫女たちは神の声を受け取ることができ、その存在は一つの時代に一人きりである。一度に二人の巫女が生まれる事はなく、先代の巫女が亡くなると、どこかで次の巫女が誕生するという。
 真実彼女、あるいは男性の場合である《神子》が、神の声を聞くものであるのかどうかなど人々は知らない。そんなことは、実際に神と交信できるという巫女たち本人にしかわからないのだろう。
 しかし真実はどうであれ、唯一神がことあるごとに人々の救いの手を差し伸べてその未来を導くというこの世界で、それを聞くことのできる巫女の権力とは、計り知れないものであるのだ。

 ◆◆◆◆◆

 腰まで届く長い髪は美しい銀髪で、大きな瞳は宝石のように輝く紫。口は桃色に色づいてやわらかそうで、幽閉生活が長かったため日の光を浴びる機会の滅多になかった肌は白い。
 ウィスタリア人の巫女姫、サライは文句のつけどころのない美少女だった。儚げでか弱げで、男だったら誰もが守ってやりたくなるような容貌をしている。守ってやりたくなるような……
「まあ、助けてもらったことは感謝するけど、あんたたちもそれだけであたしが簡単に手を貸すとは思わないでしょうね。神に仕える巫女に恩を売っていいようにしようだなんて、その思考がセコイのよ」
 彼女は外見から受ける印象を裏切り、とても逞しかった。逞しすぎた。ヴァルター王の命によって十歳から十六歳まで六年間あの砦の塔に幽閉されていたはずなのだが、そうとも思えないほどに元気だ。
「ああ! 外に出たのってひさしぶり~♪ この日のために、身体が鈍らないように毎日腕立て腹筋背筋に励んだ甲斐があったわ~~♪」
 鍛えていたのか。そうなのかこの姫。その場にいた人々は沈黙した。思わず視線は彼女の二の腕やひっそりと覗くふくらはぎに行ってしまう。た、逞しい。彼らは一様に思った。筋肉ムキムキとまではいかないが、それは確かに健康的な手足だった。ほっそりと華奢で白いのに、贅肉など欠片もなく引き締められている。ああ……。
 サライが喜んでいるのはわかるのだが、風貌と性格のギャップに頭がついていかない。
「いや、あのー、巫女姫……それは、俺たちには間違っても協力する気はないと?」
 それはともかく、とロゼッテが話を先の方の台詞から戻した。後者の発言については多少聞こえなかったような気にしていないような振りだけでも繕わなければ、話が進まない。
 とりあえず彼女と解放軍の党首であるロゼッテとが顔を合わせねば始まらないだろうと、シェスラートは助け出した彼女をまずロゼッテの元にと連れて行った。別にそうでなくともロゼッテが解放軍の首領なのだから引き合わされるのは当然のはずなのだが、何しろサライは説得の一つもしなければ従ってくれなさそうな女性だったもので。
 そういう事情を踏まえて、今、ロゼッテとサライは顔を合わせた。サライがもともと務めていた神殿はいまだゼルアータ勢力の一つに占拠されているし、行くところもないという彼女は解放軍に招かれたのだ。彼女を助け出した直接の功労者であるシェスラートを仲立ちとして、向かい合う。
 シュルト大陸において最も布教しているラクリシオン教の巫女姫サライは、この大陸では絶大な力を持つ。権力や財力とは無縁だが、それは人の信仰と言う名の力だという。
 一方ロゼッテ=エヴェルシードはザリューク人を母体とした解放軍の頭領として、ゼルアータの暴虐に抵抗する勢力の支持を集めている。
 だというのに、ロゼッテは明らかにサライに押されていた。ちなみにロゼッテは二十六歳の屈強な青年で、サライは十六歳の華奢な少女だ。
「巫女姫、俺たち解放軍は、この大陸をゼルアータの横暴な支配から解放するために戦っている……」
「知っているわ」
 生活の保証や奴隷と言う身分からの解放、ゼルアータに虐げられた者たちは、多くのささやかな望みを抱いている。政治上の駆け引きは勿論、宗教的なものを持ち出して人々の信仰心に訴えるなら、神の言葉を託宣として受け取ることができる世界で唯一の巫女、サライの存在は大きい。彼女が解放軍に与した、その事実だけで、大陸中の人々が、天が暴虐のゼルアータから解放軍へと祝福の光を投げかけるのだと信じる証明になるだろう。
 サライはただそこに存在するだけで、人心を左右する存在なのだ。だからこそゼルアータ側も、サライを塔へと幽閉していた。ある意味では、彼女を手に入れる事が世界を手に入れることに繋がるとも言われている。
「勝手なこととは思うが、どうか力を貸して欲しい。俺たちがあなたを助けたとか、そう言う事は抜きにしても俺たちにはあなたの力が必要なんだ」
 ロゼッテたち解放軍の目的も、サライの存在によって大陸中に自分たちの行動の方が正しいのだと呼びかけるためのものだった。シェスラートが助け出したサライに、ロゼッテが交渉する。
「その割にはしっかりとあんたたちの仲間にあたしが助けてもらったことを持ち出してきたわね。好青年風の見かけして、解放軍の党首として意外と強かよねぇ。ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク王子」
 ぴく、とロゼッテと、その場に同席しているソードとフィリシアの眉が上がった。サライは穏やかだが底の知れない笑みを浮かべ、行儀良く坐している。その笑顔が曲者であり、一筋縄ではいかない。
 ロゼッテの素性について、誰もこの少女に話してはいない。そもそもザリューク王国がゼルアータの手によって滅ぼされたのは二十年前のことであり、当時六歳だった王子の行方など、知る者はなかった。その後二十年は当然ゼルアータの支配下にあったのだから王族は用なしとなり追放され、命からがら逃げ延びたロゼッテのことなど、もはや国民の誰も覚えてはいないしロゼッテ自身も名乗り出たことはない。普段の彼がロゼッテ=ザリュークではなく、ロゼッテ=エヴェルシードと父方の姓を名乗るのもそのためだ。
 今解放軍に所属している貴族の中にも、ロゼッテがザリューク王族だと知る人物は少ない。
「ザリューク……? ザリューク王国の、王家の人間……?」
 この場では一人だけその事実を知らなかったシェスラートが、きょとんとした顔をしている。彼はただでさえ森の奥に隠れ住み世情に疎い吸血鬼の一族であり、ヴァルター王に囚われていた時期も余計な外界の情報など与えられていなかったのだから知らなくても何もおかしいことはない。むしろ、知らない方が普通だ。
「シ、シェスラート、これは」
「ふぅん。そっかぁ。王子だったんだ。ロゼ。そういえばどことなくお上品だもんだ」
 あっさりと納得された。
「シ、シェスラート……なんで黙っていたんだ、とか、怒らないのか?」
「怒る? どうして? 別にいいじゃないか。あ、でもそうしたら今度からロゼッテ王子とか様とか呼ばなけりゃならないのか? あれ? でも王子って……どうしてそれなら、他国まで巻き込んだ大掛かりな反乱を起こして、ザリュークを建て直す方を選ばなかったんだ?」
 シェスラートの言葉に、ロゼッテは固まった。
「シェスラート」
「ん? ソード」
「それについては、また今度きちんと話す。とりあえず今は、黙っていてくれ」
「……わかった」
 ソードの有無を言わさぬ口調に、シェスラートは言われたとおりに大人しくする。フィリシアがどこかほっとしたように吐息し、はぁ、とこれみよがしな溜め息をついたのはサライだ。
「巫女姫」
「ま、人生いろいろあるもんよね」
 何故かこの中で一番歳若い彼女が達観した表情で言った。
「ま、いいわ。――ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク」
「……はい」
「あたしは一応あんたたちの方にお世話になろうとは思ってるんだけど」
「それは、構いませんが」
「ええ。だって」
 ロゼッテと正面から向き合い、サライはにっこりと笑顔を向けた。
「例えあそこであなたたちに助けられなかったとしても、わざわざ危ない橋なんて渡りたくないもの」
「っ! それでは」
「ええ」
 一秒でその言葉を理解したロゼッテは、これまで微妙な緊張状態にあった顔を輝かせた。
 神の託宣、それは予言とも受け取れる。こうするべきだと人間に告げるその声を聞く事ができるサライの口から、ロゼッテたち解放軍に救われたという事実がなかったとしてもゼルアータ側に立つのが危険で、解放軍につくのが安全だという発言がされたということは。
 解放軍が優勢でゼルアータが陥落寸前だということ。
「この戦は、我ら解放軍へと神の祝福がもたらされるのですね」
 巫女の託宣、予言は絶対だ。
 神が世界を支配せしめるということを信じはせずとも、神の存在自体は普段から宗教心の薄いロゼッテも信じている。
 そして自分にとって良い言葉を聞かされるのは誰だとて嬉しい。あからさま苦境であれば逆にこれが自分を油断させる罠ではないのかと疑心暗鬼になることもあろうが、今の状態でそんなことをする意味はない。確かに解放軍の勝利は見えている。それが、予言の巫女姫サライの言葉で確実になった。
 世界の祝福は自分たちのもとにある。
「それは――」
 しかしその言葉に反論するように何事かを言いかけ、サライは途中で口を噤んだ。
「……どうしたんだ?」
 大人しくしていろとの禁を破って、表情を変えたサライに対しシェスラートが声をかける。ハッと目を見開いて彼の方を向いたサライが、唇を震わせた。けれどやはり、音は零れずに桃色が引き結ばれた。
「巫女姫?」
 ロゼッテやフィリシアたちも、サライの様子の変化に不審なものを感じて眉根を寄せた。
「どこか具合でも?」 
 たおやかな手を伸ばして気遣うフィリシアの言葉にかぶりを振って、サライは元通り顔をあげる。
「……いいえ。なんでもないわ。これは、今はまだ関係ないこと。それより」
 ロゼッテはそんなサライを見つめた。サライの外見は麗しい。性格も外見の印象を裏切るとはいえ、快活で物怖じせず、いかにも貴婦人然としたフィリシアとは違った意味で魅力のある女性だ。しかしロゼッテからは、サライはどこか付き合いにくい相手に思えた。
 同じことを相手も考えたのか、まさに絶妙なタイミングで、サライがロゼッテに向けて口を開く。
「……あたし、あなたみたいな人嫌い」
「え?」
「へ?」
「巫女姫」
「サライ様」
 自らの発言で場をかき回しておきながら、それでもサライ自身はトドメのように笑顔で宣告した。
「でもここに、解放軍にはいてあげる。お世話になるつもりだから、よろしくね」
 明らかに力技で無理矢理、これまでの話もその話も終わらせる。一方的に嫌悪感をあらわにするのを通り越して宣告までされてしまったロゼッテは、頷くしかない。
「は、はぁ……」
 シュルト大陸解放軍首領ロゼッテは、完全にこの少女に押されていた。

 ◆◆◆◆◆

「……大丈夫ですか? ロゼッテ様」
 二人きりとなった天幕で、フィリシアはその白い手をロゼッテの頬に当てる。彼女の体温に知らず緊張して強張っていたのを溶かされて、ロゼッテは緩やかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう、フィリシア」
 だが、大丈夫だと告げれば、彼女はその秀麗な面差しを曇らせてしまう。
 対面と形ばかりとは言え交渉を終え、今はシェスラートがサライを案内している。シェスラートとは別の場所で自らの任務もこなし、サライとの対面で気力も削られてしまったロゼッテとは対照的にまだ体力が有り余っているという、休まなくても平気だと笑っていた彼に、巫女姫を丁重にお迎えする役目を与えた。
 従者であるソードは休息をとるロゼッテの代わりに様々な雑務を行いに出かけた。本当に今は二人きりで、天幕の外には人の気配もしない。
「フィリシア」
「……あの方にこんなことを言うのは、失礼だとは思うのですが」
 前置きした上で、フィリシアが難しい表情で言葉を続ける。その言い方に、サライのことを話すつもりだとわかった。解放軍の首領と巫女姫、共に現在の世界で重要な役割を持つ人間とは言え、死ねば別の人間がまた起つだけの解放軍の長と違い、神の託宣を聞くことのできる巫女は世界に一人だ。その重要度は比べ物にはならない。対等の振りをしていても、サライはロゼッテよりも実質的に立場が上だった。
「……魅力的なお嬢さんでしたね。若くて美しくて、力に溢れていて。敢然としていて」
「フィリシア」
「でも……あんな風に真正面きって嫌いと言われれば、誰だって傷つきますわ。ですから、そんなに落ち込まないでください」
「……落ち込んでなどいないよ」
 気遣われているのだと気づいて、ロゼッテは彼女に苦笑を向ける。さすがに先ほどの「あなた嫌い」発言には驚かされたが、十も年下の少女に嫌われて本気で傷つくほど繊細ではない。そんな人間が反乱を主導し革命を起こすことなどできるはずがない。
「わかりませんわ。ロゼッテ様。あなたは妙なところが繊細で、妙なところが大らかですもの」
「なんだ。酷いなフィリシア」
「ふふ。あなたのことをよくわかっているだけですよ。これでも婚約者ですから」
「……そうだな。フィリシアは、俺の大切な婚約者だ」
 思わぬ発言、意表をつく性格と自分より上の立場の人物との対面に疲れささくれ立った心を、フィリシアが穏やかに慰撫してくれる。
「シェスラートに知られてしまいましたね。あなたが、王族であること」
「……ああ」
「どう、なさるおつもりですか?」
「どうもこうも……今までどおりに接してもらいたいんだが……シェスラートの気構え次第だろうな」
 天幕の中、膝をフィリシアに借りて毛足の長い敷物の上に横たわってロゼッテは目を閉じる。瞼の上を、フィリシアの手がそっと撫でた。
 ザリューク人らしい蒼い髪を結い上げて貴婦人然とした彼女はロゼッテより一歳年上だ。優しい夕焼けのような橙色の瞳を細めて、自らの膝で甘えるロゼッテにフィリシアは微笑む。いつも、恋人と言うよりは母親のような暖かさで、彼女はロゼッテを包み込むのだ。
「王族であると知ることで、シェスラートがあなたから離れていくかもしれないと?」
「ああ。……いい例がソードだ。初めて会った時は向こうも生意気言ってくれたのに、今ではすっかり俺の従者扱いで、俺の出自を知る者がさらにそういう役目を彼にさせるものだから、今ではソード自身がすっかりそんな気分でいる」
「彼とお友達になりたかったのですか?」
「……そうだな」
「ソードは、例えどんな形であっても、あなたから離れていきませんよ。あなたの側にいること、そのために彼はもっとも自然な形を選んだだけです」
「でも俺は寂しいんだよ。フィリシア」
 困った人、とフィリシアは笑う。
「寂しいだなんて、まあ、ロゼッテ様。そんなことを仰らないで。私はいつでも、あなたのお側におります。あなたが私を望んでくださるかぎり、いつだって側にいますから。ソードだってそうですよ。シェスラートだって、きっと」
「……そうかな」
「そうですわ」
 フィリシアの膝は心地よく、ロゼッテは彼女の甘い香りに包まれて疲れた身体に緩やかな睡魔を感じた。魔と言うにはあまりに甘美なそれに、ついうとうとと身を任せようとする。そこまで思ったときに、ふと違和感を覚えた。何かが心の底から浮かび上がってくる。
「眠ってもいいですよ」
 けれどフィリシアの穏やかな声は、それを促して許すものだから。
 頷こうとする意志はあっさりと眠りに負けて、反応を返せないまま夢の中に落ちる。その一瞬にロゼッテは何かを思った。
 自分は何か、大切なことを忘れてはいないか。先ほど一瞬だけ、それを、思い出せそうだったのに。