神聖なる悲劇(2)
008
運命の巫女サライを味方に引き入れたことによって、戦況は大きく変わった。
「ロゼッテ様、カルマイン軍から使者が」
「頭領、ルミエスタに駐屯する第一軍隊がゼルアータに叛旗を翻したと」
「巫女を奪還した功績により、セルヴォルファス族も我等に協力を申し出ました」
残る相手は、ゼルアータ最強と呼ばれた将軍がただ一人、すでに亡きヴァルター王に今もまだ固い忠誠を誓う彼を倒せば、世界は解放軍の手に戻る。つまり、解放軍に参加したそれぞれの一族の者たちは、もう誰に脅かされることもなく自国で暮らすことができるようになるのだ。
その前段階でサライをゼルアータの手から救出し、彼女から信頼を寄せられた意味は大きかった。国は違えど、神は同じ。世界で唯一の神から託宣を承る巫女が解放軍に味方するということは、神々の加護は大国ゼルアータにではなく、この解放軍にこそ注がれていると言う事。
大天幕を一つ会議室として設置して、その中に幹部連中とシェスラート、ソード、それにサライを招き、ロゼッテは今後のことについて改めて方針を纏めることにした。
今のままゼルアータ最後の勢力と衝突しても、その先の展望が解放軍にはない。暴虐の国を打ち倒して勝利に浮かれたままその後の対策を練らずに無秩序な平穏を貪れば、人はまた同じ過ちを繰り返すだろう。
まだ解放軍がゼルアータ残党軍に勝てると決まったわけでもないが、先のことを考えるのはそういう意味で必要だった。もちろん負けた後のことも常に考えて逃亡と体勢立て直しの予定は立てられているが、今問題となっているのは、この後の戦いでゼルアータに勝った場合だ。
「そもそも何故俺たちがゼルアータに反逆したのかというと、かの国の支配体制に不満があったからだ」
頭領として代表者として、座の中央に胡坐をかいたロゼッテは真っ先に口を開く。それを補うように、ソードが言葉を足していく。
「ゼルアータは武力で他国を侵略し卑怯な手で属国を脅迫し、支配下に置いた周辺の国々から搾取を繰り返す腐りかけの国でした。私たち解放軍の目的は、かの国を打倒し、そしてこのようなことが、二度と起こらないようにこの大陸に新たな秩序をもたらすこと」
これまでのシュトゥルム大陸の国々は、各国それぞれの自治があった。黒の大国ゼルアータ、その国に滅ぼされたザリュークを始めとするまた幾つかの国々、今もまだ交戦状態のゼルアータ派の国々、解放軍に協力してくれる部族、吸血鬼一族を始めとする幾つかの魔族。
天幕の中で円を描くようにして座り、顔を合わせた幹部たち。それぞれ自分たちの部族を率いる長だったり、もとはロゼッテのようにザリュークやその他の国の支配階級の人間だったり、それとは真逆に他国の奴隷から剣一本で成り上がった実力者だったりする。元はザリューク人の多かった解放軍も、今では様々な国の人間が所属するようになった。
彼らが考え込み時には囁き交わす声を聞きながら、ロゼッテは凛と声を張り上げる。
「一つ、考えがある」
「エヴェルシード殿」
大きく息を吸い、ロゼッテはその提案を口にした。
「この世界を、《帝国》にしようと思う」
彼の言葉に天幕内が一気にざわめいた。《帝国》という言葉の意味を思い浮かべて、大多数の者が困惑の声をあげる。
「つまり、世界を一つの国にしちまおうってこと?」
いち早くロゼッテの意図を察し、それ故か驚いたように尋ねたのはシェスラートだった。彼の隣、敷物の上に上品に座るサライは、平然として成り行きを見守っている。
「ああ、そうだ」
「神去暦(かむさりれき)千二百年の大陸統一論だろ? なんで今更、そんな考えに……」
今から三百年ほど前、とある国が提唱した意見が、シュルト大陸の全土統一を図ることだった。無数の小国に分かれて争いあっていた頃で、どこか一つの強大な国がそれを治めれば争いは無くなるはずという考えがその理論の基礎となっている。
結局その考えは実現する前に、もう一つの大陸の国々に提唱国が攻め入られて露と消えてしまったのだが。
「三百年前のアナンシスの統一論は結局実現しなかったがな、理論だけなら素晴らしいだろう?」
「全ての権力を皇帝に預け、皇帝は大陸の審判者を司る、って? 夢物語だ。そんなのできるはずがない」
「だいたい、大陸統一論の穴はチェスアトールに攻め込まれたアナンシスがすでに証明してるじゃないか。人が住んでいるのはシュルト大陸だけじゃないぞ。バロック大陸のヤツラに三百年前みたいに仕掛けて来られたら」
ロゼッテの提案の大掛かりなことに、天幕中から疑問や異論反論が上がる。
何事も維持することより作り上げることの方が難しく、全ての事象に置いて壊すことの方が簡単だ。だから、解放軍を一から作り上げるロゼッテたちの方が大国としてその体制を維持するゼルアータより難しかったし、それをやり遂げたからこそロゼッテには信頼が集まる。けれど解放軍の名の下にゼルアータを打倒したとして、その次に新体制を作るとなるとまた別だ。元がそれぞれの個性の強い他民族の集合体だけに、文化も習慣も倫理も全てが違う国の者同士で別なのだ。全ての人々に共通するのは、それこそ神のお告げだけ。
けれど、ロゼッテは自らの構想を翻すことはなかった。
「ああ、だから、今度は大陸だけじゃなく、世界そのものを《帝国》としてしまおうと考えているんだ」
「世界そのものを?」
「シュルト大陸とバロック大陸、それにバロック大陸の西にある薔薇大陸。その全ての国々を纏め上げ、支配する帝政を打ち立てたい」
ロゼッテは力強く言い切る。
「頭領、そんなことできるのか?」
無謀な計画ではないか、とそこかしこから意見が上がる。確かに、ロゼッテも難しいことを言っているという自覚はある。
「できるかどうかはまだわからない。だけれど、俺はやらなきゃいけないと思う。ゼルアータが暴走を始めたのは、この大陸にあの国より強い国がなく、ゼルアータを止めるべき隣国セラ=ジーネとシルヴァーニがその行為をあっさり黙認したからだ。監視者がいなければ秩序は保たれない。そして、ゼルアータのような国々がこれからも生まれ続けるのならば、生半可な秩序では駄目だ」
今現在のシュトゥルム大陸には、小国、小部族が多い。それぞれが勝手に利権を求めて暴走するため紛争が絶えず、弱い国から次々に他国に吸収されて国家間の勢力図を容易く書き換える。
「頭を押さえつける人間は必要だろう、それが、《皇帝》」
「《皇帝》という名の神か」
ある部族の長が、鼻で笑った。ソードが眦を険しくするより早く、鈴を転がすような声音が響く。
「ええ」
「サライ?」
それまで一言も口を挟まず沈黙を守っていた巫女姫のいつもと様子が違うことに気づいて、シェスラートは思わず彼女の名を呼んだ。けれどサライは彼を見ず、主役の席に座るロゼッテを力強い眼差しで見据えると、声量はさほどでもないのによく響く声で言った。
「神が無造作に民族を鏤めた世界はかの者の手によって整えられ、やがて世界は一つの破片を成すだろう……」
「巫女姫、それは予言か?」
「ええ、そうですわ」
サライは真っ直ぐに手を上げ、天幕の天井へと向ける。
「先程のは神の御言葉です。神聖なる存在は、誰かがこの世界を統一し、神託によって治められることを望んでいます」
一瞬、場がざわめいた。誰だって地上の人間たちが好き勝手に騒ぐよりも、神のお告げに従う方が体面的にも心情的にも良い。略奪と復讐よりも、神の名に乗っ取った正義の方が聞こえが良い。我らは選ばれし民だと。
「どうやってそれを証明できる?」
その盛り上がりに水を差すように、一人の老人が年若いサライに問いかけた。
「証明はできません。私を信じるも信じないも、それはあなた方の自由です」
サライにしか聞こえない神の託宣を、他の者には確かめる術もない。だからこそ彼女は逡巡すらせずにそう言い切った。ロゼッテと親しいシェスラートに救われた彼女の言葉は、託宣ではなく彼らの意志が介入した誘導なのではないかという無言の疑惑と批難も、一手に引き受ける。
「――巫女姫」
「なんです、ロゼッテ=エヴェルシード殿」
「その予言は、本当なんだな?」
「ええ。あなたの掲げる《世界帝国》はいずれ必ず現実となりましょう。ただし、今の私にわかるのはそこまでです……誰がそれをなすのかまでは、今この場でお教えすることはできません」
「十分だ。俺たち解放軍がゼルアータを倒したら、誰かがこの計画通り《帝国》を打ち立てて世界の秩序を守ってくれるんだろう?」
「ええ。その“誰か”が誰であるのかについては、まだわかりません」
「普通なら、ここは解放軍の首領であり、革命の指導者であるロゼッテ様が初代皇帝の座へ着くところだと思いますが」
ソードの指摘に、ロゼッテは本気で驚いて橙色の瞳を見開いた。
「俺が? まさか。向いてないよ。それよりも、だったらこれで話は決まったな」
証拠を示せないとはいえ、巫女姫の言葉が神の託宣であることはこの世界の誰もが知っている。ゼルアータのヴァルター王でさえサライに虚偽の託宣を発表させる事ができず、ただ彼女を塔に幽閉するに留まったのだ。気は強いがその口からは私利私欲に走った発言を零す事はない。サライの言葉は、鶴の一声だった。
方針は確定したので、細かい箇所を詰めるのは当初の目論見どおり完全にゼルアータを打倒し、その一派と解放軍勢力の中で優秀な人材や功績ある者を見出してから決めることだ、とロゼッテが纏めに入る。
その姿を、サライは意味ありげに見つめていた。
◆◆◆◆◆
「巫女姫」
ロゼッテは粗末な祭壇の前に立つサライの後姿に声をかけた。陣の中に無理矢理組み立てた簡易式の祈祷所である。銀髪の少女はくるりと振り返って、彼女よりかなり背の高い解放軍首領を見上げた。
「あら、エヴェルシード殿」
「本日はお疲れ様です。……先程のお言葉は、本当のことですか?」
その言葉をどう受け取ったものか、サライはロゼッテを憎憎しげに睨み付ける。
「あたしが嘘を言うとでも?」
「あなたは我らに味方してくださるようですし」
「だからって、あたしは神託の内容については、嘘を言う事はありません。嘘を言ったところで未来が変わるわけでもありませんし」
「そうですか。では、帝国建国はやはり達成されると」
「ええ。細かい日付や状況まではわかりませんが。あたしに授けられるのは、断片的な情報だけですので」
頷くと、サライはまた祭壇に戻った。予言の巫女は、毎日少しでも神に祈ることを欠かさず、そのたびに天の声を聴くのだと。
「この世界のもともとの成り立ちは、神によって幾つもの民族と国があらゆる土地に鏤められたことでした。創世記は、神聖なる喜劇(ディヴァーナ・コメディア)と呼ばれています」
祭壇の上に載せられた分厚い経典の表紙を撫でながら、サライはそんな風に言った。
「では、今あなたが、この解放軍がやろうとしていることは」
「姫?」
「世界中にそれぞれの国を作った神の行いと、逆ですね。ディヴァーナ・コメディアとは逆の、世界統一計画。その国の名は《アケロンテ》、アケロンティス帝国となりましょう」
「アケロンテ?」
どこかで聞いたような言葉に、ロゼッテは首を傾げた。喉元まで答えが出かかっているのだが思い出せない。
「ラクリシオン教の経典、どこまで真面目に読んだことありますか?」
サライは微笑んで経典をロゼッテに突き出した。差し出す、ではなく突き出すところが、見た目はか弱そうな美少女でありながら、サライがサライたる由縁でもある。
何事か告げようと顔を上げかけて、サライは唐突に口を閉ざした。紫の暁色の瞳がロゼッテを見上げると、そこに何とも形容しがたい色を載せる。どこか酷く哀しそうな。
「巫女姫?」
ロゼッテを通しながら彼ではないどこか別の場所を見つめるかのようなサライの様子に、ロゼッテは対応に困った。昔から温厚で大人びた性格だったフィリシアならともかく、外見と肩書きに反して気が強いサライの相手は、本音を言ってしまえば苦手だった。彼女と気が合うのは、むしろシェスラートの方だ。
「……いいえ。なんでも、ありません」
結局サライは珊瑚の唇をきゅっと引き結ぶと、途切れた言葉の続きをロゼッテに与えないままに会話を終了させた。思いつめたような表情で俯き経典を抱く彼女にそれ以上つめ寄るわけにも行かず、ロゼッテは祈祷所を後にする。
一度だけ振り返って見たサライの表情は、春の雨を氷に変えるような冷たさを含んでいた。