神聖なる悲劇 02

010

 薄色の花の花弁が蝶のように舞っている。
「戦乱のこの時代に、こんな場所があるなんて……」
 フィリシアが感動したように呟いた。解放軍の一時の休息のために立ち寄ったその場所は、夢のような景色を広げていた。
 一面の花畑。その花は乾いた砂漠でもしぶとく根を張って繁殖する生命力の強い種だと知ってはいたが、それでも人々が美しいと思う気持ちに変わりはなかった。
「この辺りはゼルアータが周辺国に攻め入る進路でもありませんし、我々も今まで通ったことはありませんでしたからね。誰にも踏み荒らされていないのでしょう」
「それも、今日までだけどな」
 ソードの言葉に、意外と冷たく返したのはシェスラートだ。
「シェスラート?」
「ちょっと、歩いて来る」
 ロゼッテの腕をかわし、シェスラートは与えられた休憩時間の間、一人で丘の上の花畑を歩き回った。
 いつしかその背後に小柄な一つの影が付きまとうようになる。
「何の用?」
「まだ、個人的にはお礼を言っていなかったと思って」
 振り返ったシェスラートに軽くねめつけられたサライは、にっこりと笑顔で返した。銀髪に薄紫の瞳が儚げなウィスタリア人の十五、六歳の少女。しかしその性格はか弱げな外見の印象を裏切るほどに強かだ。
「助けてくれてありがと。感謝するわ」
「あんたは死にたかったんじゃないのか?」
 サライの言葉に、ふと記憶を触発されてシェスラートは言った。あの時、サライは屋上から飛び降りようとしていたのではなかったか。もしも彼女が死を望んでいたのだとすれば、自分がしたことは余計なお世話というやつではなかっただろうか。……先日のロゼッテとのやりとりのように。しかし。
「死のうとはしたけど、死ぬ必要がないんだったらその方がいいに決まってるじゃない」
 にやりと、不敵な笑みを浮かべて神聖な巫女姫は告げた。シェスラートは苦笑する。
「だって、私はあなたみたいな吸血鬼と違って脆弱なただの人間。死んだら二度と生き返らないもの……そう、今あなたが心配している、この足元の花のように」
 サライは相変わらず、恐ろしいほどに勘がいい。それが彼女自身の能力なのか、神託の影響なのかシェスラートにはよくわからない。予言を司る巫女姫という神秘的な存在でありながら、時々男より男前なこの姫君は誰よりも人間らしい。
 シェスラートは小さく溜め息をついて、足元へと目を向けた。
 儚げな薄紫の花。茎は短く葉は陽光を浴びるために大きく広げ、肝心の花は絹のように柔らかくて薄い。その花弁が幾枚も重なり合って、とても綺麗な花だった。そしてその外見とは裏腹に、土中には長い根を蔓延らせ養分を吸い上げる、丈夫でしぶとい花でもある。けれど解放軍が休憩地にした以上、この花畑がこれまでどおり美しい様で残るとは考えられない。脳裏を掠めるほんの少しの憂いごとを言い当てられて、内心では酷く驚いていた。
「サライ姫」
「サライでいいわ」
 銀髪の乙女は、親しげな笑顔を浮かべた。壁を作らないその表情に触発されて、気づけばシェスラートは胸に押し込めたはずの思いを吐露していた。
「ここを使わないで、って言えばよかったのかな」
「ロゼッテ=エヴェルシードに?」
「うん。でも、やっぱり無理だよな」
 花は涼しげに揺れていた。しかし白に極近い紫の花、サライの瞳のような色をした花たちは、解放軍の面々の無骨な長靴に柔らかな花弁と茎葉を踏みにじられて萎れていく。茎の大きさの割には大輪の花をつけるたくましいその命が、あっさりと痛めつけられ引きちぎられる。今も、この足の下でさえ。
「また咲くわよ。強い花だもの。荒れた大地に神が手を触れて生み出した花よ。幾度踏みにじられても焼き払われても、何度でも繰り返し咲く」
「けれどその咲いた花は、今のこの花と違うだろう?」
シェスラートは屈みこみ、その儚い花弁に手を触れる。
「種はまた新しく咲くけれど、その花も、どんなに姿が同じでももう前の花ではないだろう? 踏みにじられたものが、そのまま息を吹き返すわけではないだろう」
「そう――それは、人がただそう思いたいだけの欺瞞」
 花は何度でも咲き、丘の上の花畑は甦ろうとも。
 そこに咲く花は焼き払われたものと同一ではない。同じ種類、同じ色、同じ花弁、それでも、そのたった一輪の花の命は二度と戻っては来ない。人間だってどんな生き物だって同じだろう。子どもがどんなに健やかに成長したところで、それは親とは別人だ。
 亡くした者は二度と戻ってはこない。それを、痛いほどに知っている。誰かを救えば誰かを殺した罪がなくなるというものではない。どんなに似ていてもまったく同じものなどこの世に一つもない。
 花は繰り返し咲くけれど、それは前の花と決して同じではない。一度踏みにじられた花の命は戻ってこない。それを、毎年同じ場所にある去年とは全く違うはずの良く似た花畑を目にすることで、人はその尊さを忘れていく。
「この花たちに意思があれば、俺たちを恨むのかな?」
 寂しく問いかけたシェスラートに、真摯な声音でもってサライが返した。
「同じ花は咲かなくとも、花が咲く事は無意味ではないわ」
 その命を次代に繋げるために、花はこんなにも美しく咲き誇る。ならば。
「シェスラート=ローゼンティア」
「ん?」
「私に、あなたの花をちょうだい。明日にまた咲く、今日とは違う花の命」
「それって……」
「そうよ」
 すでに見慣れた聖典を読み上げるような確かさで、彼女はそれをシェスラートに告げた。
「私はあなたが好き」
 ザッと風が吹いた。辺りの花の花弁が撒き散らされる。その風にサライの銀の髪も散る。けれど眼差しは一切揺らがない。
「あなたと共に生き、あなたの命に、未来をあげたい」
 足元の花が風に吹かれて揺れる。何度でも踏みにじられ、何度でも新しく咲きながら、だからこそ人は、それが前と違う花であることに気づかない。忘れ去られた痛みの下で、破滅と再生を繰り返す命があることを。
 もしかしたらそれこそが、何よりも残酷なことなのかもしれない。
「返事は今度でいいわ。だってあなたはまだ自分の気持ちに決着つけてないでしょ? そんな時に言われてもどうしようもないって、あたし、知っててあなたに言ったの」
「……サライ」
「ねぇ、だから忘れないでね。あたしはあなたが大好きよ」
 たとえあなたにとって、それが何の意味も持たなくても。
 花のように美しき巫女は、ただそう言って微笑んだ。

 ◆◆◆◆◆

 花は何度でも繰り返し咲くけれど、前と同じ花などない。それはあまりにも明らかな事実だけれど、人は言われなければそれを重要視しない。
 足元の花などどんなに美しくても、所詮はそれだけの存在。
 人の世の思惑など知りもせず、我関せずと花は美しくそこに咲く。
 それこそがこの世で、もっとも残酷な世界の理であるのかもしれない。

 ――たとえあなたが死んだところで、私がともに死ぬわけではない。

 あなたがいなくなったとしても、この大地にまた繰り返し、別の花々が咲き誇るように。

 ◆◆◆◆◆

 明日は戦闘になるというのに、酒を注ぐ手が止まらない。
「皆さん、ほどほどにしてくださいよ」
 呆れたと大きく顔に書いて嗜めるソードにもめげず、解放軍の面々は小さな宴の真っ最中だった。慎ましやかなつまみと一緒に、安酒を煽りでたらめな歌を歌う。
 明日はいよいよ、ゼルアータ最後の残党軍との戦闘だ。向こうにはまだいくらか高名な歴戦の将が残っていて、いくら解放軍が力を増したとはいえ、勝てるかどうかわからない。
 勝てたとしても、その勝利者の中に果たして自分の姿があるかどうかわからないのが戦争と言うものだ。だから打倒ゼルアータという、帝国成立というまだ不確定な今後の展望を抜かせば事実上の最終決戦を控えて、兵士たちは一段と陽気だった。恐れを振り払うように。
 宴の中にはシェスラートと、彼の隣に寄り添うように予言の巫女姫サライ、そしてシェスラートと向かい合うようにしてロゼッテが座り、その斜め後に行儀よくソードが控えている。ソードの隣ではフィリシアが微笑んでいて、いつもの見慣れた光景だ。
「それにしても、ようやくここまで来たっていう感じだよなぁ」
「ああ、元はロゼッテが率いる小さな反抗組織でさ」
 一人が口に出せば、芋づる式にズルズルと昔の思い出話に花が咲いていく。
「俺たちがゼルアータを滅ぼすなんて、絶対無理だと思ってたのにな」
「今じゃ後一歩のとこだろ? ここまで俺たちを引っ張ってきたのはロゼッテだけどさ、やっぱりシェスラートの力が大きいよなぁ」
「俺?」
 いきなり名を呼ばれて、シェスラートが紅い瞳をぱちくりとさせながら男たちの方を向いた。解放軍の中にはまだガナンのように吸血鬼に偏見を持っている人々もいるが、目の前の彼らは概ねシェスラートに対して好意的な人々ばかりだ。
「そうだよ。お前がもう一騎当千の言葉どおりばっさばっさと敵を薙ぎ倒していくからさ。今じゃ首領のロゼッテと張る勢いで有名だ。ロゼッテとシェスラート、解放軍の躍進は、お前ら二人のおかげだって」
「っていうか、下っ端連中の話聞いてるとさ、時々お前ら二人名前混ざってるぜ?」
「へ?」
 ロゼッテはシェスラートと顔を見合わせた。
「シェスラートのことロゼッテって言ってたり、ロゼッテがシェスラートになってたり」
「ああ、それはまあ要するに、『ロゼッテ』の名前が男にしては可愛すぎるのがいけないんじゃないか?」
「おいおぃ」
 ロゼッテは苦笑するが、シェスラートは何事か合点がいったように手を打ち合わせた。
「あー、それ、言っても良かったんだ」
「お前もそう思ってたのか?」
「頭領、名前可愛いよ。女の子みたいだよ」
「エヴェルシード本人を知ってから『ロゼッテ』って聞くと違和感あるよな」
「……」
 人より立派な体格を持つロゼッテは、次々にかけられた言葉に沈黙する。ザリューク人らしい蒼い髪は短く、橙色の瞳は鋭い。精悍な顔立ちと屈強な顔つきの彼が、しかし名前だけは女性らしいと笑われる。ある意味慣れたことといえばそうなのだが、見た目が女性的なシェスラートにまで同意されては口ごもるしかなかった。さらに話題は、ロゼッテだけでなくシェスラートの方にまで及ぶ。
「それに比べて、『シェスラート』は何だかお綺麗な名前じゃないか」
「顔は女の子みたいなのにな」
「べー、だ。男は顔じゃないもん」
 ねー、とサライに向かって微笑むシェスラートを見て、ロゼッテは人知れず複雑な気持ちに陥った。それにも構わず、宴の席での話は続く。
「いっそお前ら、名前交換しちゃったらどうだ?」
「ってなると、どうなるんだ? シェスラート=エヴェルシードと」
「ロゼッテ=ローゼンティア」
「そっちの方がシェスラート=ローゼンティアとロゼッテ=エヴェルシードよりしっくりくる気がしないか?」
「だからって、名前なんてそんなその時の気分で交換できるわけないだろ」
 たわいない話に笑い、呆れ、決戦前夜が更けていく。
「おいおいシェスラート、寝るならちゃんと天幕に戻れ」
 宴もお開きになり、各自の寝所へと男たちが戻る。すでに夢と現を行き来するシェスラートを、ロゼッテは揺り起こした。大事な戦いの前に風邪など引かれては困る。彼は――シェスラートはゼルアータ最強の将軍と戦う予定なのだから。
 人外の力を持つシェスラートの実力を期待しての任命なのだが、どうにもロゼッテには納得がいかなかった。作戦上最も危険な役目を、彼に押し付ける。シェスラートのことだから、きっと生きて帰れないなんてことにはならないと思うのだが。
 だいたい、吸血鬼は人間ほど脆くない。死んでも傷の程度によっては、蘇りが可能だという、つくづく強靭な種族。
 それでも吸血鬼の一族はゼルアータに蹂躙された。
 最高の力を持つ魔族なのに、何故彼らはただの人間であるゼルアータ人に勝てなかったのだろうか……
 つらつらと埒もないことを考えていると、いつの間にか深紅の瞳が自分を見つめていることに気づいた。
「なっ、シェ、シェスラートっ?」
 起きていたなら早く言ってくれ、と彼に上着をかけようとした中途半端な姿勢で固まっていたロゼッテは思わずそう言葉をぶつける。しかしまだ夢現なのは酒精の影響か、シェスラートの眼差しはとろんとしたままぼんやりとロゼッテを見つめていた。
「ロゼッテ」
 酔って寝ぼけているにしては意外なほどはっきりした口調でシェスラートは彼を呼んだ。
「俺、お前が……」
「シェスラート?」
「お前が好きだ」
「――――」
 その瞬間、時が止まったような気がした。
「な……にを言ってるんだよ、シェスラート。冗談」
「冗談なんかじゃない」
 だって俺たちは男同士だろう。そんなそもそもの大前提さえ無視して、いきなり何を言い出すのか。ロゼッテの困惑など知らず、シェスラートはゆっくりと卓に突っ伏していた身体を起こし、彼を睨みつける。
「俺は、お前が好きなんだ」
「ッ……!!」
 有無を言わさぬ口調で、シェスラートはそう宣言した。
 凍りついたように動けないロゼッテの目の前まで来ると、白い手でその頬を包む。至近距離で見つめあい、鼓動さえも触れた肌から伝わってしまいそうだった。睦言の最中のように、掠れた声で甘く囁く。
「好きなんだよ、ロゼッテ」
 それが例え、未来なき禁じられた想いであっても。
「お前のために、解放軍に入った。お前のために、ゼルアータを滅ぼす協力をした。全部全部、お前のためだ……」
 本当はもう、一族などどうでもよい。ヴァルター王が死んだあの日に未来を失くしたシェスラートに、再び道を与えたのは彼だった。
「それを受け入れろとか、見返りを要求するわけじゃない、でも、知って欲しかった」
 血のような深紅の瞳が、一途な光を湛えてロゼッテを見つめる。
「俺の全ては、あんたのためだ。この数年は、全部あんたのためにあった」
「な、んで……」
「わからない。命を助けられたからか。あんたがどうしようもなくってほっとけないからか。でも、確かに好きなんだ。あんたの力になりたいと思う……俺は、シェスラートはロゼッテのものだよ」
 あなたのもの。その言葉は、強くロゼッテの心を打ち震わせた。魂の奥底から痺れる。
 しかしそれと同時に、心の澱んだ奥底から湧き上がる想いがある。
「シェスラート、俺は……俺は、お前に答えられない」
 その答を返した瞬間、本当に、ほんのかすかな一瞬だけシェスラートは悲壮に目を瞠った。けれどすぐに諦めたように相好を崩し、慈悲深い天人のように微笑む。
「……そっか」
「シェスラート」
「ううん。いいんだ。ロゼッテ。無理は言わない。俺はお前を俺の意見や気持ちに従わせたいわけじゃない。ただ知って欲しかっただけ。俺の気持ちを」
 そう言って、シェスラートはロゼッテに口づけた。けれど性的なものを感じさせる唇への接吻ではない。親が子どもに、兄姉が弟妹に、友人が友人にするように額に柔らかく熱を送る。
「お前がどんな言葉を返したところで、俺の気持ちは変わらない。解放軍も辞めない。大丈夫、これまでどおりにちゃんとやるから。……忘れていいよ。俺の言ったこと」
「シェスラート……」
 シェスラートはロゼッテの頬からそっと手を離し、酒精の欠片も感じさせない、しっかりとした足取りで立ち上がった。
 闇夜に浮ぶ、その姿があまりにも美しいので。
「お休み。ロゼッテ」
 これは夢ではないのかと、ロゼッテはただ、そう思った。