神聖なる悲劇 02

011

「別れましょう」
 切り出そうとした台詞を先取りされて、彼は一瞬言葉に詰まる。
「……いいのか?」
「ええ」
 フィリシアは穏やかな表情で頷いた。
「ロゼッテ様の方から、そう言い出すつもりだったのでしょう。お生憎様ですね。悔しいので、わたくしから先に言わせていただきました」
 二人きりの天幕、彼女の荷物はすでに整頓されていた。明日になれば、もう共にここで過ごすこともない。解放軍を抜けるわけではないけれど、もはやロゼッテの恋人であり婚約者だというくくりは無意味なものとなった。そうなったところで追い払われないだけの信頼と実力をフィリシアは持っているので心配はないが。
「……フィリシア、君は」
「わかっていたのです。あなたがわたくしを、愛してはくださらなかったことくらい。あなたはいつも、わたくしを通して、ただまほろばの女性を見ていましたね」
「……俺は母が嫌いだった。だから、彼女と正反対の君が好きだった。いや……好きなんだと思っていた」
「ここにきて、ようやく勘違いに気づいたわけですね」
「すまない」
 フィリシアは緩く首を振る。まるでこうなることが、最初からわかっていたというように。
「シェスラート様は、素敵な方ですよ」
 ロゼッテは瞠目した。彼女の口から遠回しに伝えられた自らの気持ちに、咄嗟に何も言えなくなるくらいには、動揺する。
「フィリシア……どうか許してくれ」
 懇願の言葉が出た。みっともなく崩れた表情でかつての婚約者に許しを請う。ここまできて君を捨てる俺を、どうか許してくれ。
「許しませんわ」
 凛とした声音が断罪する。
「許しませんわ。恨みますわ。ロゼッテ様。そしてそれを、いつかあっさりと忘れます。わたくしは幸せになりますので、どうぞあなたもお元気で」

 ◆◆◆◆◆

 天幕を後にしたフィリシアを迎えたのは、一つの影だった。
「ソード」
「……フィリシア様」
 彼はどこか居心地悪そうな顔で、フィリシアを見るともなしに見ながらその場に立っている。ああ、そういえば自分は何の気負いもなしに勿論予備情報や下準備のような段階もなしにロゼッテの天幕に行き、そこで勢いのままに別れ話を切り出されたのだったとフィリシアは現状を思い返す。
 あれがロゼッテの側も完全に勢いからの行動であるのならば、たぶんソードはそれについて、何も知らされていなかったのだろう。そして従者として常日頃からロゼッテの側に侍る彼の帰る場所はこの天幕だ。うっかり戻って来たところで、ロゼッテとフィリシアの話を立ち聞きしてしまったようだ。
「ごめんなさいね。居心地の悪い思いをさせて。先程の話、聞こえてしまったのね。そんなに大きな声で話していたつもりはないけれど。じゃあ他の人たちにも聞こえてしまったかしら?」
「いえ……その、私は特に耳がいいと、常日頃から言われているものですから」
 気詰まりなあまりに、なんだかどうでもいいような話をするソードに、フィリシアは苦笑する。
「本当、ごめんなさい。でも気にしなくていいのよ。わたくしとロゼッテ様の間では、きちんと決着がついているわ。このことで後々までもめたりしないから、どうか安心して」
 ソードはロゼッテの従者として、巷でよくある痴情のもつれから起こる問題に主が巻き込まれないかと危惧しているのだろう。そう考えたフィリシアは、彼を安心させるようにやわらかく微笑んだ。ソードがカッと顔を朱に染める。
「それじゃあ――」
「お待ちください! フィリシア様!」
 去っていこうとしたフィリシアを、咄嗟にその細腕を掴むことでソードは引き止めた。思いがけない彼の行動に、フィリシアは驚きのあまり目をまん丸にして彼を見ている。
「あ……も、申し訳ありません!」
 普段は冷静沈着で知られた従者が、今はらしくもなく狼狽しきりの様子で彼女に頭を下げる。一体どうしたのかと思わず掴まれた腕を胸元に引き寄せながら、彼女はソードをまじまじと見つめた。
 もとはザリューク貴族の令嬢であるフィリシアは、ロゼッテとは幼馴染だ。当然ソードより彼との付き合いは古く、そしてロゼッテがソードと過ごした時間の同じだけをまた、彼女もソードと過ごしている。十代半ばでロゼッテが拾ったソードと知り合い、それから十年ほどの付き合いをロゼッテを間に挟みながら続けてきた。
「どうしたの?」
 彼女の中では、ソードという人物は落ち着いた青年と出会った頃の警戒心が強くまだまだ未熟な少年が混在している。だからこそ、普通の人々のようにソードはただ冷静で酷薄なだけの人物とも思わない。
「フィ……フィリシア様、その」
 意を決したように赤く染まった顔を上げ、ソードは自らの想いをつげた。
「私では、駄目でしょうか!?」
「……え?」
 フィリシアはその夕焼け色の瞳で瞬いた。彼女にとってば予想外の事態に、まずは呆気に取られたような衝撃が地味に走る。
「わ、私はもちろんロゼッテ様のように高貴な御身分でも、解放軍を従えるだけの実力があるわけでもありません。けれど……不敬とは思いながら、ずっとあなた様をお慕いしておりました!」
「ソード……」
「フィリシア様をご不快な気分にさせるつもりはありません。ただ、お側にいることをお許しください。あなたが私をなんとも思っていなくともかまわない。ただ、私があなたを愛することを、どうか――――」
 自分より少しだけ年下のそんなソードの言葉に、フィリシアは覚えず微笑んでいた。
「ありがとう、ソード。……わたくしも、あなたという人を、とても好ましい存在だと思っているわよ?」
「え……そ、それでは」
 まだ動揺の抜けきらない青年に、フィリシアはにっこりと笑顔を向ける。
 そして心の中で、先程別れたばかりの、けれど心はとうに離れていることを知っていた元婚約者に告げる。
 ごめんなさいね。ロゼッテ様。ずっとあなたのお心が別の方に向いているのを知りながら、あなたを解放して差し上げなくて。
 それでも、わたくしはこうして幸せになります。
 だからあなたも、どうかお幸せに。
 願うのは、ただそれだけだった。

 ◆◆◆◆◆

「いつか破滅するぞ」
 遺言を聞いてやろうと言えば、それは予想通りこちらへの恨み言だった。
 ゼルアータ南方将軍撃破。ロゼッテのもとに、シェスラートの勝利の知らせがもたらされる。後は目の前、武器を奪われ解放軍の兵士によって地に伏せさせられたゼルアータ最後の大臣を殺せば、戦いは終わる。踏み荒らされた宮殿の一室に、狂ったような静寂が満ちては罵声に破られる。
 シェスラートには軍事の最高司令官を、ロゼッテは解放軍の頭領としてゼルアータ政府の最高責任者を討つために。二人は別れて行動し、そのどちらもが今ようやく終わろうとしていた。このロゼッテの一振りによって。
 逃げ道はなく、殺されるのを待つばかりとなったゼルアータの大臣は忌々しげにロゼッテを睨みながら、それでもどこか強さを失わない歪な光をその瞳に湛えていた。
「破滅をするぞ。解放軍。お前たちの幼稚な理想に明日はない」
 まただ。またここでも明日が……未来がないと言われる。
「何故そんなことが言える」
「お前らにはわからんのだ。ヴァルター陛下の偉大さが」
 すでに亡き、ゼルアータ国王ヴァルター。彼は自国の民以外を差別迫害し、属国の者を奴隷とし、あらゆる方法で搾取を続けた。それに激した解放軍の面々が、復讐を果たさんと武器を手に取り、暴虐の大国へ叛旗を翻した。その強大な武力と差別意識故に誰もが改革など成せないと諦めていたその国を、ロゼッテは今、打ち破る。
「ゼルアータのやり方は間違っている。遅かれ早かれ、破綻していたはずだ。その結果がこれだろう」
「そうかな? 世界はお前が思っているより矮小で卑屈だぞ、ロゼッテ=エヴェルシード。高潔な理想など具現することはない。ヴァルター王は名君だったのだ。ゼルアータの民にとって」
「そして他の国にとっては暴君だった」
「そうだ。だがそれでいい。全ての人間が救われることなどありはしない。――ヴァルター陛下! 私はどこまでも、あなたについていきますぞ!」
 虚空に向かい歓喜の声をあげた男の首をロゼッテは一刀の元に斬り伏せる。すでに理性はなく、男は狂っていた。
 ゼルアータ政府の要職についていた男の結末は哀れなものだったのかもしれない。だがロゼッテはこうも思う。人は己の見たいものだけを見る。
 ヴァルター王を名君と讃えながら死んでいったあの男は、そのヴァルターがすでに解放軍に敗れたことを忘れている。どれほどの武力で威圧しても、民の反発を煽りいつかは破滅していただろう。ゼルアータはそういう国だった。ヴァルター王の栄華は、そういうものだった。
「終わりましたね」
 亡骸を前に立ち尽くすロゼッテに、背後で控えていたソードが声をかけてくる。解放軍の他の面々も、肩の荷を下ろしたごとく晴れやかな顔をしている。
「ゼルアータが滅びた! これでやっと、俺たちは幸せになれる!」
 幸せ?
 何故だろうか、ロゼッテの心は晴れない。自らが殺した男の言葉が、憎いほど鮮やかに耳に焼き付いている。
全ての人間が救われることなどありはしない。
 宮殿の外では、凱歌が唄われ始めた。

 ◆◆◆◆◆

「ゼルアータ打倒は果した。これより、《帝国》成立のための戦いに入る」
 ゼルアータ最後の勢力を撃破した解放軍は、かの国の城砦の一つを乗っ取った。これまでと同じように、もしかしたらそれ以上に困難な道のりを行くためにはいつまでも移動式天幕ではなく、れっきとした拠点が必要だった。
 しかし、一つの国を滅ぼした、それもあの暴虐の大国ゼルアータ。世界史上例を見ない大きな戦いの勝利に浮かれ、解放軍はすぐには行動を起こさなかった。もともと、ゼルアータさえ討ち取ってしまえば同じ大陸内にすぐにも脅威になるような国はないのだ。ロゼッテの《世界帝国》思想を実現させるためには今回の戦いと関わりのないバロック大陸の国々がどう動くかわからないが、何しろ別大陸のことだからこそすぐに戦いに突入することもないだろう、と。
 それよりも自分たちが休息をとる間に、これまで親ゼルアータ派だった国々には、解放軍勢力に迎合する覚悟を決めさせようと、ロゼッテたちは殊更派手に戦勝の宴を行った。
 そして同時に、《帝国》設立のための宣言を。
 もちろん反発は大きかった。ゼルアータに与していた勢力はもちろん、ロゼッテたちザリューク人や下層の虐げられ続けてきた民でもって構成される解放軍が世界を牛耳るという大言壮語に、各国の貴族階層の人々は失笑を隠そうともしなかった。それよりも賢く、解放軍の実力を知りすぎている者たちは純粋に慄いた。
 けれど、シュトゥルム大陸のほぼ全土がこれまでゼルアータに支配されていたのだ。ゼルアータの奴隷国家だった弱き国々の民たちは、解放軍の宣言に沸き立った。
 一つの国の滅亡が一つの破滅を招き、それが世界を変えようとしていた。

 ◆◆◆◆◆

「ねぇ、サライ。これ……何かな?」
 とりあえずわからないことはサライ=ウィスタリア姫に聞け。解放軍ではそれが一種の掟のようになっている。どうしようもなくくだらなく意味がないことには冷淡だが、本当に困ったことならばサライは力を貸してくれる。魔法のように人々の質問に答える様は、まさに巫女と呼ぶにふさわしい。
 だからそれに気づいたシェスラートも、まずは、とサライに相談した。幸い彼はサライと親しい。もっと言ってしまうならば、恋人同士だ。
 先日の花畑の中での告白に、ついにシェスラートは答を返した。サライの気持ちに報い、彼女を愛することを誓う。もともと、快活にして実は思慮深い彼女の人格をシェスラートは気に入っていた。好意を向けられて迷惑がることなどあるわけがない。サライはどうしてこんなに、とシェスラート自身で思うほどに、彼を愛してくれる。それをただ享受できる日々は、戦乱の中でも確かに幸せだ。自分が彼女にそれほどのものを返せているのかは自信がないが、見た目は儚げで心のうちも気丈に振舞いながら本当は繊細な彼女に、できれば幸せになってもらいたいという気持ちは真実だ。恋情かと言われれば首を傾げてしまう気はするが、確かに愛情というものはあった。
ロゼッテを想い続けることに意味はない。彼への想いを失ったわけではないが、厳重に封をして身の内へ閉じ込めて、シェスラートはサライと生きて行くことを選ぶ。――きっとその方が、みんな幸せだ。
 さてそんなわけで今日も彼女の天幕に立ち寄ったシェスラートは、自らの服の袖をまくり、左腕をサライへと見せた。どれどれと覗き込んだサライが、その瞬間さっと顔色を変えた。
「これは……」
「え? 何? 何かヤバい病気か何か?」
「違うわ。これは……」
 サライはシェスラートを無理矢理引きずり、ロゼッテたち解放軍幹部のもとへと連れて行く。そこで、彼女は驚くべき宣言をなした。
「初代皇帝となるべきは《シェスラート》」
 巫女姫サライの予言により、解放軍の中には波紋が広がった。ここまできてすぐさま行動を起こせなかったのには、そう言った背景もある。
 彼らが求める《帝国》思想。けれどそこで一つ根本的な問題になるのは、誰がその支配者になるかということだった。ゼルアータがそうであったように、一つの国が大陸を支配するのは危険極まりない行動だ。それが例え全ての国々を統一併合した帝国という呼び名の世界を作ることであったとしても、上に立つ者が一部族を優遇し他の部族を差別迫害する可能性がないわけでもない。世界を公正に治める支配者を上に立てるのは急務。だが。
「私は、てっきりロゼッテ様が王になるものだと……」
 皇帝と言う新しい呼称がまだ口に馴染まないのかそう言ったソードと、同じ顔を解放軍幹部の半分がする。そしてもう半分は、戦場での奮迅ぶりを発揮したシェスラートへと傾倒する一派だった。
「何言ってんだよ。巫女姫様がそう言ってるんだぜ? それに、シェスラートは充分戦いに貢献しただろう? ゼルアータの打倒なんて、シェスラートの活躍がなけりゃ絶対無理だった」
 これまで解放軍を纏めてきたのはロゼッテ。けれどこの度のゼルアータ打倒は、吸血鬼シェスラートの超人的な力がなければ成し得なかっただろう。どちらを支配者にするかで幹部内の意見が分かれた。シェスラートを皇帝に立てて、ロゼッテを補佐につければいいのでは? という考えもあがる。シェスラートとサライの仲を知る者は、彼女が自らの夫を皇帝にしたいがために虚言を言っているのではないかと勘繰る者も勿論いた。
 けれど、サライは決して予言を覆さない。
「シェスラート……あなた自身はこれでいいのですか? これまで戦うばかりで政治的なやりとりに関わってこなかったあなたが、いきなり皇帝など、やれるのですか……?」
「俺は……」
 指名をされたシェスラート自身も、勿論おおいに戸惑っていた。けれどサライはそれに関しては何も言わず、始皇帝シェスラートの神託を宣言した後は、沈黙を守り続けている。
 そして、ロゼッテは。