神聖なる悲劇 02

012

「なぁ、シェスラート。……サライと結婚するんだってな」
 ある日ロゼッテは解放軍根拠地近くの廃教会で、シェスラートと久々に二人きりの時間を持っていた。
「ああ。うん。まだ聞いてなかったのか?」
 最近の解放軍内部は、上層部のみとはいえ静かに荒れている。話題は決まって同じ事だ。シェスラートとロゼッテ、そのどちらを今後の自分たちの主君、つまりは《世界皇帝》として仰ぐか。
 予言の巫女姫たるサライの神託は絶対だ。けれど、人々の感情が追いついてはいかない。もともと解放軍はロゼッテが作り上げた組織で、幹部は最近になってその地位を授けられた者もいるが、大多数は結成時からのロゼッテの仲間や部下だった者たちだ。巫女がシェスラートこそ皇帝になるべき人物だと言ったところで、そう簡単に割り切れるものではなかった。
「子どもができたんだってさ。本当は吸血鬼って魔族だから多種族と交わらない方がいいんだけど、ゼルアータに殺されて人数が減っちゃったから、今回は例外かな」
 最近のその話題の二人、しかも立場的に争う者同士と言う複雑な関係のせいで、ここしばらくロゼッテとシェスラートが二人きりで同じ空間にいるということがなかった。他愛のない話すらできずに、こんな、解放軍の本拠地とした砦から少し離れた場所でもなければ二人きりになれない。珍しくソードすら連れずにここまでやってきたロゼッテは、ゆっくりとシェスラートの方へ視線を向けた。彼はロゼッテを見てはいなかった。
 戦乱の最中に打ち捨てられたのだろう、ラクリシオン教の廃教会は、ろくに座れるような足場がなかった。瓦礫や割れた硝子片を踏まないように、二人は思い思いの場所にそれぞれ腰掛ける。てんで別の方向を向いた座席を見つけて、だから、視線は意識しなければ合わせることもない。
「……そうか」
「ロゼはフィリシアと別れたんだって?」
「ああ」
「どうして? あんなに仲良かったじゃないか」
 シェスラートの当然と言えば当然な言葉に、ロゼッテは口元に静かな笑みをはいて答えた。
「……お前には関係ないよ、シェスラート」
「そう……」
 そんな風に言われてしまえば、シェスラートは黙るしかない。何となく間を持たせたくて、再び別の話題を出した。
「なぁ、ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク」
「なんだ?」
「ザリュークを再建する気はないのか? 今ならできるぞ? 世界をゼルアータの支配から救った解放軍の頭領が王になるなら、反対は少ない」
「俺はザリュークが好きじゃないんだ。女王だった母親が苦手だったもので」
「じゃあ、エヴェルシード王国でいいじゃないか」
「お前こそ、国でも作らないのか? ローゼンティア王国。バイゼルハムス将軍を討ち取った戦神シェスラート=ローゼンティアなら、今なら吸血鬼の一族を一つの国家にできるんじゃないか?」
「それは無理だよ。わかってるだろ? だって、俺は……」
「《皇帝》になるからか?」
「というより――――」
 ロゼッテは立ち上がる。忍ばせる気もなかった足音をシェスラートは気にせず、尖った耳はかすかに金属の擦れる音を聞く。何事か言いかけた唇に鮮血の紅が伝った。
「ロゼ……」
 その脇腹を、ロゼッテの剣が貫いていた。

 ◆◆◆◆◆

 一人の男が、その一室にやって来た。
「……告解をしたいんです。巫女姫様」
「どうぞ」
 簡易な祭壇を設えた一室は、解放軍の根拠地とされた砦の中にあって礼拝堂とされた。砦の近くに打ち捨てられた廃教会があることにはあるが、あまりにも状態が酷くて使えそうもない。なので、サライは砦の一室をもらい、そこをラクリシオン教の信者のための儀式と告解のための部屋とした。
 彼女の言葉に促され、ガナンは部屋の中に進む。赤い絨毯を敷かれた道の途中で膝を着き、みっともなく跪いた。
「懺悔を……させてください、巫女様」
 部屋の設えた祭壇の前にいたサライは、その様子に驚きつつも何も言わず、ただ穏やかに男の言葉の先を促す。
「どうかされたのですか?」
「吸血鬼の一族を襲った連中を率いたのは俺です」
 ガナンは告白する。
「あれは、俺たちとは違う生き物なんです。だから、殺してもいいと思っていた。あんな化け物生かしておいたってなんになる、て。どうせいつか俺たちを殺そうとするんだろう、て」
「……」
「生きるためには自分が生きるためにはなんだって犠牲にしてきたそれが当然だと思ってました。どんなお綺麗なことを言おうと、結局世界は変りやしねぇだから俺は解放軍の後について、戦乱に負けたヤツラから略奪してその金で食いつなげりゃ、それで後はどうでもよかったんです罪人なんです」
「……悔いているのですか? 自らの行為を」
「……」
 ガナンは答えず彼女の足元にひれ伏したままだ。しばしの沈黙の末、サライは答えた。
「……ラクリシオン教にしろ、シレーナ教にしろ、神のお言葉は、究極的には、一つです」
「それは……」
「《私は、赦す》」
「!」
「あなたの行いが良いことだとも、当然だとも私は思いません。神もそうは思われないでしょう。けれど全能の存在は、それでもあなたの存在自体を赦すのです。あなたの罪を罰し、責め、それでもあなたの生を否定することはないでしょう」
 そして彼女は礼拝堂の入り口、そして出口でもある場所を指差した。
「神はあなたに選択の権利を常に与えています。善をとることも悪をとることも。生を望むことも……死を選ぶことも」
 ガナンはのろのろと顔を上げる。そこにいたのは、一人の人生における敗者だった。罪を経て人は狂うのか。狂うから罪を犯すのか。それはわからない。
 けれど罪を犯さず生きようとして、それが不可能だと知った時に、人の絶望は始まる。
「あなたは自由であることを赦されています。神の言葉が聞こえないと言うのならば、私が代わりに言葉にしましょう。『行きなさい』。あなたは最初から、自由だったのです。そして自由なまま終わるのです。全ての選択は、あなたと共に」
 ガナンはのろのろと顔を上げた。夢遊病患者のように覚束ない足取りで立ち上がり、礼拝室を後にする。
 彼も哀れな人間だ。世界はどんなに望んだところで、けっして人の思い通りにはならない。生きるためには、残酷になることも必要だ。
 選択できる未来は無数にある。罪を犯さず身奇麗なままに死ぬことも、他者から奪いとってでも醜く浅ましく生きることもできる。そこにはどんな理由があろうと免罪符になどなりはしない。人は最初から自由なのだから。殺す権利などなくとも死ぬ権利はある。だけど……だから。
 人の命など、所詮は全てが身勝手なものだ。だから懸命に生きる花を、平気で踏みにじることができる。
 逆に言えば、それができない人間は生きてはいけない。
 人は狂わねば生きていけない。
「……シェスラート」
 残酷でない世界などない。

 ◆◆◆◆◆

 打ち捨てられたラクリシオン教会。色硝子を透かして、七色の光が差し込む。シェスラートの白銀の髪が虹色に染まったが、朱に染められた体は禍々しいような色を変えることはなかった。深紅という色彩はとかく強い。
 必ず朝が来ると知っているのに、黄昏は幾度となく人々の胸を貫くように。人は死を知って生を知る。終わりがあるから始まりはある。
 だから狂気の黄昏に太陽は堕ちて、これは絶望の始まりだ。
「俺の母は、とにかく気の強い女性だった」
 血塗れの手、血濡れの剣、血塗れの床に半身を横たえるシェスラートの胸をロゼッテは抱きかかえる。
「ザリューク女王は無法者だった。だからあの国が真っ先にゼルアータに滅ぼされたのも当然なんだ。俺たちは同じ過ちを繰り返す」
 廃教会で行われるのは血塗れの告白。
「父はそれでも母を愛していた。普段は気が弱くて母の言いなりで、母の身勝手を止められず、なのに、それでも母を……妻を愛していた。だから……父は母を殺したんだ」
 殺してしまえば、もう誰にも奪われる事はない。高慢な妻が他の男を誘い笑うところなど、もう彼は見なくてすむ。ロゼッテの眼には、今もその強烈な光景が焼きついている。
 ――さぁ、一緒に地獄に堕ちよう……。

 永遠に愛している。

「……だから?」
 切れ切れの息で、シェスラートが尋ねた。
「だって、お前、は……俺のことなんて」
「好きなんだ……」
「拒絶したくせに……」
「でも好きなんだ。シェスラート。でもお前が、俺以外の人間に笑いかけるところなんて見たくない」
「俺は、あんたのものだって、言った……のに……」
 シェスラートはロゼッテのもの。あの宴の後、シェスラートからの告白の際に、彼はそう言った。
 ロゼッテは首を横に振る。
「信じられない」
 シェスラートが愕然と深紅の瞳を開いた。翳りの出来始めた目元に、絶望的な彩りが添えられる。
 紅い瞳から涙が滑り落ちた。
「あんたも、ヴァルターと……同じだ。俺は…ずっと、側に……いるのに……」
 裏切られた者の切ない表情で、シェスラートは苦しみながらそう言葉を絞り出した。
 しかしロゼッテはこれしかやり方を知らないのだ。どんなに穏やかな人格を装ったところで、彼が知る愛を繋ぎとめる唯一の方法は相手を殺して自分のものにしてしまうこと。父が母に対してそうしたように。あれほど、普段は気の弱かった父が。
 かつてソードが言っていた。ロゼッテは父親に似たのだろうと。ああ、確かにそうだ。だって彼もこんな方法でしか、欲しい相手を手に入れられない。
「お前が皇帝になんかなったら、俺は永遠にお前を手に入れられない。サライにも誰にも渡したくない。シェスラート……ッ!」
 だからもう、こうするしかないのだと。
 いつからこうだったのか知らない。本当は一目見たその瞬間から、彼の事が好きだったのかもしれない。けれどそんな想いを口にすることはできるはずもなかった。言えば自分は必ず父親と同じ道を辿るだろう。
 だが結局は、同じ事。
「……さ、…い」
「シェスラート」
「赦さない」
シェスラートは元から白い肌に更に血の気を失って蒼白になりながら、残る力でロゼッテの胸に手を当てて縋り、顔を近づけた。
「ロゼ……お前は最後まで酷い男だったよ」
 冷たい唇でそっと口づける。最初で最後の接吻は彼の血の味がしたと、ロゼッテは思った。
「愛してい〈た〉よ。今は憎むべきお前。全く、なんてことしてくれるんだ? これじゃあ、もう皇帝にはなれないよなぁ」
 サライのことも守れない。村に残してきた一族の者たちに便宜を図ることもできない。一番の願いではなくても背負っていた義務や使命感から叶えたい望みはいくらでもあったのに、その全てがこの瞬間にシェスラートの手のひらから、命と共に滑り落ちていく。
 だから。
「お前が、この世界を導け――シェスラート=エヴェルシード。そしてロゼッテ=ローゼンティアはここで逝く」
 ロゼッテは目を見開いた。唐突にいつかの宴の記憶が蘇る。あまりにも可憐過ぎる自分の名前。似合わないから、姓はそのまま二人で名前を交換したらどうかと。解放軍の中でも幹部を除けば、今では文武それぞれの代表者であるロゼッテとシェスラートのどちらがどちらであるのか、彼らの容姿の影響も相まって、区別がついていない者も多い。だが。
「何で、何でそんなことを言うんだ、シェスラート! 吸血鬼は一度死んだくらいじゃ死なないんだろう!?」
 混乱のあまりおかしな台詞を口にして、ロゼッテは予想外の流れに棹をさそうとする。シェスラートを殺したかったのは確かだ。彼を独占したかったという黒い欲望は確かにあったけれど、不可能だということもわかっていた。だからせめて。
「お前が俺を嫌いになって、俺を憎んでくれればそれでよかった」
 それを聞いてシェスラートが儚げに微笑んだ。ロゼッテの唇にはまだ彼の血の味が残っている。
「吸血鬼は確かに人間より頑丈だ。だけれど、心のある生き物だから、死のうと思ったときに死ねるんだよ」
 人間でさえ、誰だって自殺はできる。
 それが今だというのか。
「何故……っ! お前が生き返って俺を殺せば、それですむ話だろう!」
 そこで生き人の血を飲まず、人に血を飲ませた吸血鬼が酷薄な光をその深紅の瞳に浮かべる。
「憎んでいるよ、シェスラート=エヴェルシード」
「シェスラ――」
「俺はお前を憎むよ、だから俺の血を飲ませた。不死なる力を持つ、吸血鬼の血を」
 凄絶な笑み。
「お前は人でありながら人ではなくなった。吸血鬼の寿命を知ってる? 通常なら五百年。そしてお前は俺の血を飲んだことで、眷属と化した。本物の吸血鬼でないからそれよりも寿命は短いだろうけど、少なく見積もってもまあ、三百年程度は生きるだろうな……」
「三百年っ!?」
 与えられた数字の大きさにロゼッテは瞠目する。彼の動揺が深くなるたび嬉しそうにシェスラートが血の気のない頬へ笑みを刻んだ。
「そうだよ。それだけの年月を、お前は世界のために生きるんだ。《帝国》のためにその命を捧げろ。俺を憎みながら」
 それがシェスラートから、結果的に命と皇位を奪うことになったロゼッテへの復讐だと。
「何故だ……シェスラート」
「……から」
 赦せないのは、殺そうとした行為そのものではない。それが示す、裏切りと言う名の意味だ。
「だって、俺はお前を……」
 大量の血を必要とする吸血鬼の体から、その命の源が失われていく。力の滑り落ちた腕が床に零れ、瓦礫にあたって小さな音を立てた。か細い息が終わる瞬間を、確かにロゼッテはその腕の中で感じた。
 しばし呆然としていると、教会の扉が開かれた。外は精力的に生い茂った下草が足音を吸う。常人であるならば教会に入ってからでなければ新たな人の登場に気づきがたい。「満足ですか?」
 シェスラートの妻であり、彼の子を身篭るサライだった。
「ねぇ、シェスラートを殺して、彼から未来を奪って満足なの?」
「サライ」
 シェスラートを抱いたままロゼッテは彼女を振り返る。美しい夜明けの紫の瞳が、今は憎悪に濡れている。
「私、あなたみたいな人大嫌い!」
 唐突に、彼女は叫んだ。他のどんな罵声でもなく、ただ嫌いだと。
「自分の弱さも罪も自覚していたヴァルター王とは比べものにもならない! あなたはただの臆病者の偽善者よ!」
 だからシェスラートの気持ちを受け入れることも、彼を解放することもできなかった。その上で、シェスラートに自分の理想を押し付けた。
 人は己の見たいものを見る。
 けれど、シェスラートだってロゼッテに自分の見たいものを押し付けていたことは否めない。彼がロゼッテを求めたのは、ロゼッテがヴァルター王にどこか似ていたからなのだろう。両親の愛に恵まれず、不遇から世界の暴虐による支配を思い立ったと言われる王と。
 サライは震える細い肩を意志の力で封じ込め、すっと息を吸って整えた。切ない眼差しを、シェスラートの亡骸の左腕に向けた。そこには彼女自身が神の意志を示すものだと皆に教えた図形があった。
 廃教会の破れた色硝子の虹色の光と血の匂いの中で、神を打ち捨てた者への選定を下す。
「シェスラート=エヴェルシード。あなたは《選定者》ロゼッテ=ローゼンティアの託宣により、初代《皇帝》としてこの世界《アケロンティス帝国》を治める者、支配者となれ」
 それは未来の予言だった。拒絶することの許されない神の託宣。もとより違えることなど許されないそれを違える道は、もはやロゼッテには残されていなかった。
「かつて神が世界を作り出したことを、人は神聖なる喜劇(ディヴァーナ・コメディア)と呼んだ。では人が神の作りたもうた世界を否定して新たな時代を始めることを、神聖なる悲劇(ディヴァーナ・トラジェディア)とでも呼ぶのでしょうか」
 この滑稽な悲喜劇を。
 アケロンテは地獄を流れる幽囚の河の名だという。人の手で創られるものに、正解などありはしない。まして天国を求めて道を間違えた場合には。
 それでもロゼッテは進まねばならないのだ。
「《選定者》とは」
「《皇帝》を選び出し、任命する人。その証が、体に浮き出たこの紋様。……本来は皇帝その人を意味するはずのそれを、シェスラートは自らの意志で、神に逆らって塗り替えた……」
 それがただ一つの復讐だと。
 嗚咽を漏らすこともなくただ涙を流し続ける運命の巫女は、この結末を最初から知っていたのだろうか。だからあんな風ロゼッテを敵視して、シェスラートとロゼッテを見るたびに悲しそうな顔をしていたのか。
 物言わぬ亡骸を抱いて、眩しいほどに晴れた空の下へと出ようとする。教会の入り口で、まだ中に残っていたサライから問いかけられた。外に出ようとするロゼッテの足は止まった。
「ねぇ。それで、この人はあなたのものになった?」
 殺してしまえばもう誰にも奪われないと。
なんて幼稚な考えなのだろうか。愛される自信がないことは謙虚と言えるのかもしれないが、愛されなくても相手を手に入れたいと思った時点でそれはただの傲慢なのだ。サライはロゼッテを見抜いていた。
 朽ちた教会と青空の境、自分は影の中に立ち腕に抱いたシェスラートは光を浴びている。その笑顔を見ることができなくしたのは、紛れもないこの自分なのだ。
 ロゼッテは静に首を横に振った。