神聖なる悲劇 02

013

「ロゼッテ様、シェスラートは……」
 血まみれの少年を抱いて戻ったロゼッテの姿にソードが絶句した。部屋の奥にいた幹部たちも、何事かと駆け寄ってくる。その彼らにロゼッテは言った。
「シュルト大陸のゼルアータ派勢力はもう完璧に制圧済みだな」
「あ……はっ、はい!」
「ではバロック大陸へと向かう。《帝国》成立に邪魔な国、まずはこちらと徹底抗戦の構えを見せているサジタリエンを撃破するぞ」
「頭領!」
「エヴェルシード!」
 ロゼッテ様、とは何故か、誰も、ソードですら呼べなかった。
「我が名はシェスラート=エヴェルシード」
 宣言に誰もが息を飲む。
 ロゼッテの奥から姿を現したサライが無言で頷く。唐突に彼らは気づいた。彼女は《シェスラートこそ始皇帝》とは言ったものの、それが紅い瞳の吸血鬼の少年のことだとは一言も言っていない。
「この帝国世界の、初代皇帝となる者なり」
 ロゼッテ。否、シェスラート=エヴェルシードは高らかに宣言した。これより彼は、その言葉通りアケロンティス帝国を建国し、治めていくこととなる。
 その永遠とも思える命を懸けて。
 彼を愛し、彼を憎みながら。

 ――シェスラートはロゼッテのものだ。

 ◆◆◆◆◆

『吸血鬼の血を飲んだことにより、ロゼッテの……否、シェスラート=エヴェルシードの寿命も肉体も変質した。頑強な吸血鬼の力を手に入れた彼の手によって、二つの大陸は次々に攻略されていく。そして数十年後には、かつての解放軍の望みどおり、世界《帝国》が建国された。
 その時でさえ、シェスラート=エヴェルシードの外見はまったく変わらず年老いてはいなかった。周囲は畏怖の眼差しを彼に向けたが、彼は自らの命の切れる瞬間まで、よく帝国を治めた。
 長すぎる命を彼に与えた者は、知っていたのだろうか。大陸を、ましてや世界を統一して平穏な世界を作り出すには、一人の人間の寿命などではとても足りないことを。半分は魔物であり、そして神のようでもあった三百年の時を過ごした初代皇帝の功績により、世界《帝国》にはやがて平穏が訪れた。
 帝国とは言うものの、一人の人間の血筋に拘ればいつか暗帝が立ち、世界を乱すかもしれない。その問題は、初代皇帝につき従った巫女が解決した。彼女は神の意志をその唇に乗せた。
 世界の覇者は、天が選ぶ。《選定者》の紋章をその身に示す者が《皇帝》を導くであろう。皇位は世襲制ではなく、神の力によって選ばれた人間が務めるものとなった。
 人の手で作り出されたように見える世界は、それでも神の手によって支えられている。だからこそ、世界と運命に翻弄された最初の二人、この帝国を作る礎となった二人の存在もただ神の手のひらの上で踊らされていただけに過ぎないのかもしれない。我々人間は、それだけ小さな存在なのだ』
 帝国成立について記された本は、そのように結ばれていた。著者名はソード=リヒベルク、フィリシア=リヒベルクとされている。この本を書いた者は、初代皇帝シェスラート=エヴェルシードにつき従った従者の一人らしい。
「おい、ロゼウス!」
「ん? ……あ、シェリダンだ」
 昇り階段の上から呼ばれ、書庫の床に座りこんでページを繰っていた本を今読み終わったロゼウス少年はその人の名を呼び返す。蒼い髪の少年が、不機嫌そうに眉根を寄せた。橙色の瞳が剣呑に細められる。
「あ、シェリダンだ。じゃない、この馬鹿者。今が何時だと思っているんだ? 夕刻の鐘などとっくに鳴り終わったぞ」
「え、嘘!」
「嘘をついてどうする。いくらお前が暗い場所でも目の利く吸血鬼族だからといって、そんな暗い場所で本など読むな。全く、いつまで経っても帰って来ないと思えば……」
 ロゼウス、と呼ばれた少年は白銀の頭をかいた。瞳は血のように鮮やかな紅い色をしていて、それは吸血鬼族の特徴だ。
「だいたい、お前なら今更帝国成立の起源など読まずとも知っているだろうが。ロゼウス=ローゼンティア王子」
「そんなこと言うなって。シェリダン=エヴェルシード王。ここの本、うちの国にあったのとちょっと中身が違うからつい気になったんだよ」
「何?」
 シェリダンはロゼウスの手元から問題の本を奪い去り、さらに近くからもう一冊を抜き出した。
「お前が言っているのはこれだろう、ロゼウス」
「あ。うちの国にもあったやつだ。ねぇ、じゃあ、これは何?」
 今はシェリダンの手の中にある、先ほどまで自分が読んでいた一冊を視線で示したままロゼウスが尋ねる。
「始皇帝の従者の手記。始皇帝シェスラート=エヴェルシードがこの国の出身と言うか建国者だから残されたものだろうな。しかし、今更こんなものを読んでどうする」
「どうするって……」
「三千年も前の人間が、何を考えて国造りをしたのかその真意など知ったところで仕方がないだろう。確かにエヴェルシードの建国の王がローゼンティア王家の先祖から力を借りたというくだりは興味深いと言えるが、実際にそれを知ったところで、どうにもなるまい。所詮は私たちとは別の人間だ」
 焼き尽くされて荒れ野となった花畑にまた花が咲いてもそれは踏みにじられたかつての花ではないように。
「それはそうだけど。確かにいくら先祖同士に因縁だか義理だかがあったとしても、今のエヴェルシード王国とローゼンティア王国に何かがあるとは思わないけど、でもちょっと、面白いとは思うじゃないか」
「そうか?」
 シェリダンは鼻で笑う。
「所詮神だの英雄だのと祀られようと、相手は私たちと同じく一人の人間だ。ああ……お前は吸血鬼だが。それでも持てる感情に大きな違いがあろうはずもない」
 そして彼はパタンと本を閉じると、ロゼウスの持っている分も奪い取って纏めて書庫に収める。そうしてようやく空いた手でロゼウスの手を取ると、書庫を後にしようと歩き出す。
 ロゼウスは大人しくついてくる。実際の気性はともかく、彼は外見だけで判断するならば酷く華奢で少女のような面差しをしていた。その面立ちを目にするたびに、シェリダンの胸の奥底には、複雑な感情が揺らめく。
 憧憬とも苛立ちともつかぬこの困惑めいた感情はなんだろう。相手の瞳が自分以外のものを映す事が、酷く気に入らないというこの勝手さは。
「何千年経ったところで、結局人間の生き方など変わらない。いつだって必死で、懸命で、愚かで、きっと滑稽な喜劇のような悲劇にしかならないのだろう」
 繋がれた手に焼け付くような熱さを覚えながら、彼はゆっくりとそう締めくくった。

 了.