夢術師の子守唄

2.夢術師と夢魔

 クライスアレス王国の南部に位置するロイエンローゼは、灰色の城壁を備えた城塞都市である。今現在の王国は平穏と言ってよいが、つい数十年前までは近隣諸国との戦争を繰り返していた。ロイエンローゼの堅固な城壁もその名残だ。
 現在の女王ヴィルヘルミーナの即位と共に諸国との国交を回復し、平和な時代が訪れた。しかしその女王待望の王子は十二年前の政争で死亡し、現在は直系の嫡子がいないという状況である。
 戦争の終焉と共に国内の各地方で力をつけてきたのが、商人の存在だ。年に三回開催される市のためにあらゆる土地からやってきた商人たちが、ロイエンローゼで交易を行う。
 商人たちが力を持つと共に、商取引に欠かせない法律の方も整備された。その結果ロイエンローゼは法律全般が整備され、治安も大分良くなった。
 そしてこのロイエンローゼで最も力を持つ商人は誰かと問われれば、街の人々はまず間違いなくこう答える。
 それは毛織物と香辛料の交易を行う傍ら金融業を営む、ゼーフェリンク商会だろう、と。
 他都市に比べれば治安の良い街中を歩きながら、ディーターは昨夜の少女を探す手段を考える。
 情報を得るならこの街最大の商家であり、彼ら姉弟の雇い主でもあるゼーフェリンク商会を頼るのが最も早い。その跡継ぎである若旦那スヴェン・ゼーフェリンクこそが、マーレの婚約者なのだから。
 しかしいかな豪商といえど、夢魔などという非現実的な存在を探す役には立つものだろうか。
 これまで何の変哲もないその辺の小僧として生きてきたディーターにいきなり魔女だの呪師だのを簡単に見つけられるわけがなく、ディーター自身もそんな簡単に事が運ぶわけはないと思いながら道を歩く。
 姉のことがあるのでそう長い時間の外出はできないが、いつも買い物くらいならばしている。そのついでにそういった怪しい人脈とツテがありそうな知り合いの何人かに声をかけて――そんな風に予定を立てていたディーターの目論見は、一件目でいい具合に裏切られた。
「だからな、お嬢ちゃん。その奇妙な腹話術をやめてくれと言っているんだよ!」
 馴染みの青果店の店主の声が、苛立ったように響く。
 店主の前にいたのは、確かに夢の中で見たはずの少女だった。彼女は両手であのぬいぐるみのような謎の生物を抱えていた。
 その生物が口を開く。
「ですから、御店主。レリカは別にふざけているわけではないのだ。この娘は口が利けないから、私が代弁しているだけで」
 少女は完全に口を閉じていて、ディーターの目には確かにその生物が喋っているように見えた。だが、もちろんそんなことを本気にする人間は滅多にいない。ましてや頭が固くて神経質で知られる店主だ。気に入らない客には商品を売らないことで有名な頑固親父。
「いくら口を閉じたまま喋る真似が上手くても、不快なものは不快なんだよ。だいたい、人形が喋るわけないだろうが」
 ディーターは二人(?)の会話に割り込んだ。
「あ、あの! おじさん!」
「ん? なんだディーター。お前がこの時間に来るのは珍しいな」
 夢のことが気になって朝早くから出てきたディーターの姿に目を丸くする店主に、指を二本立てながらディーターは言った。
「俺がこの子の買いたかったもの買います! あ、あとこれもください!」

 ◆◆◆◆◆

 少女は何者なのか。夢術師とはどういう意味か。どうして昨夜は夢の中でディーターを助けてくれたのか。その謎の生き物は何なのか。どうして少女は何もしゃべらず、謎の生き物が彼女の声で喋るのか。夢魔について何か知っているのか。
 ディーターは少女に聞きたいことが多すぎた。とはいえ今の彼女はどうやら自分で喋ることができないようで、その台詞は全て彼女の腕に抱えられた生物が代弁する。
「ああ、まだるっこしい」
 ディーターが渡した林檎を齧りながらも視線をあちらこちらに移して通訳を行っていた謎の生物は言った。
「どうせならこちらの方が早いだろう。おいで!」
 ハッと彼が目を覚ました時、そこは夢の中だった。
 その大いなる矛盾にディーターは頭を抱える。かといってこの場所が現実だとはとても思えない。
 ピンク色の空に綿菓子のような黄色い雲がふわふわと浮かんでいて、辺り一面は目と口のついた子どもの玩具のような花が咲き乱れる花畑だった。顔のある花も一輪二輪ならともかく、ここまで揃うと怖いものがある。
 荒唐無稽をまさしく絵に描いたようなその夢の世界で、背後から声をかけられた。
「ここはあなたの夢の中」
「俺の?」
 少女は日傘を閉じて人形のようにお辞儀をした。今度はその唇がしっかり動いており、ぬいぐるみではなく彼女自身が喋っている。
「悪夢をもらった以上もう用はないんだけれど、知りたいというのなら説明してあげるわ。私の名はレリカ。夢術師のレリカ」
「俺はディーター……って、ムジュツシ?」
 初めは聞き違いかと思った。魔術師ならばともかく、夢術師などという言葉は聞いたこともない。
「ええ。夢を渡り、夢を喰らう者。悪魔で言うのならば、あなたが類推した通り夢魔と呼ばれる者が近いわ」
「じゃあ昨日は」
「あなたの悪夢を食べるために、あなたの夢の中に入ったの。おかげでよく眠れたでしょ? そしてこっちは、相棒のテイパー」
 謎の生物を指して彼女は言った。
「獏(テイパー)? 獏ってこんなんだったっけ?」
レリカが片手で抱き上げられる大きさの生物は、彼の知る獏とは違い、いくつかの動物の特徴をつぎはぎしたような珍妙な姿だ。
「実在する動物の方の獏じゃなくて、その姿は東方の伝説で夢を食べるとされている生き物よ。悪い夢を食べてくれるんですって」
「悪い夢を食べる……」
 ディーターはしばし逡巡した後、期待と不安の入り混じった表情でレリカを見つめた。
「その……じゃあ君たちは、どんな夢でも食べることができるの?」
「何でそんなこと気にするの?」
 レリカの当然の問いかけに、ディーターは顔を曇らせ、一か月間も昏睡状態のまま目覚めない姉のことを話し始めた。
「なるほどね」
「何かわかる?」
「あなたが危惧した通り、悪夢に囚われている可能性はあると思うわよ」
 表情を変えず、レリカは淡々と告げる。
 夢術師である彼女は夢の主の悲鳴を聞きつけることによって悪夢の気配がわかる。だがそれが例え悪夢と呼ばれるものであっても、夢を見ている本人が苦しみを訴えなければわからない。夢魔は契約者に幸せな夢を見せる。
「問題はあなたのお姉さんの夢に夢魔が関わっているかどうかね。まぁこれは、実際にその人の夢の中に入ってみないとわからないわ」
 レリカは腰を屈め、地面に座っていたテイパーを再び腕に抱き上げる。日傘を差して歩く準備を終えると言った。
「行ってみましょう、あなたの家に。あなたのお姉さんの、その夢の中へ」

 ◆◆◆◆◆

 レリカの力を通じて入り込んだ景色は、どこか貴族の屋敷のような外観の建物とその敷地内にある薔薇園から成っている。遠く見える薔薇園の入り口には背の高いアーチがあり、緑の蔓が絡まって花の屋根を造り上げていた。
 けれどその夢に一緒に入ったレリカは盛大に顔を顰めた。
 マーレの夢の中、庭園の入り口に似た場所のまるで門代わりに、巨大な砂時計がそびえ立っている。
 大の大人の身長よりも背が高い砂時計。その細い硝子筒の中に、花や金貨や人形といった様々なものが詰め込まれていた。
「あの……どうかしたの? これって何?」
「この砂時計は、タイムリミットと呼ばれるものなの。この中に砂代わりに入っている様々な物質は、この夢の主の記憶。想い」
「それじゃあ」
「この砂時計の“砂”が落ち切った時、夢の主の記憶は失われる。記憶喪失という意味ではなく、人としての幸せな記憶を魔物に売り渡して死の世界へ連れて行かれるのよ」
「なっ――!」
「これではっきりしたわね。あなたのお姉さんは、淫魔(インキュバス)に囚われている」
 それが魔物の介入ではないただの悪夢である場合は、ディーターがレリカに救われたあの夢の世界のように、砂時計は出現しない。砂時計が現れるのは、その夢の主が淫魔によって誑かされている証拠。
「そしてどうやら――あなたのお姉さんを救うには、もうろくな猶予はなさそうよ」
 小さな光の粒のような砂と花や宝石が透明な硝子の中を落ちていく光景は美しい。けれど残り時間を示す砂時計の上部にある砂はもうほんの僅かだった。
「急ぎましょう」
 二人と一匹は駆け出した。
「夢魔って、どんな存在なの? それに、その……レリカは、夢魔とは違うの?」
 どれだけ走っても息が切れることもない夢の中で、ディーターはレリカに尋ねる。体力の消耗はないが、同時に距離感も掴めない。どれだけ走っても変わらない景色に、ずっと同じところを走っているように錯覚する。
「細かい分類は、魔物の定義にもよると思うけれど」
 姉を心配する気持ちと純粋な好奇心が入り混じったディーターの質問に前置きした上で、レリカは辞書でも読むように淡々と語る。
 曰く、夢魔というのは、夢に関する事象を操る魔物全体の総称。その中には、同じ夢魔と言っても良い夢魔も悪い夢魔も含まれる。
 この地域で一般的に夢魔として信じられている魔物は淫魔が多い。淫魔は人に理想の異性の夢を見せて誘惑し、人間の精を奪ったり孕ませたりすると言われている。
「ちょ、うちの姉さん嫁入り前なんだよ?!」
「別に全ての淫魔が相手を妊娠させるわけじゃないわ。私の見た限り、この夢の主は単純に生気を奪われているだけ」
 マーレが夢魔の手によって死にかけていることは変わりない。ディーターの背筋を冷たい物が伝う。
「淫魔にも個体差があって、その性格と能力によって人間への関わり方も変わってくるわ」
「……レリカは、何なの? 夢術師なんて聞いたこともない」
「そりゃ、私が作った言葉だもの」
「その声はどうして? 起きているうちに現実で君と会った時は君は口を利かなくて、あのぬいぐるみ……じゃなくて、テイパーが君の声で喋ってたよね」
「ええ」
 レリカはまたしても淡々と頷いた。
「そもそもテイパーは、私と契約した夢魔なの。だから私の力は本来彼のもの。そして私はこの力の代償として“声”を彼に渡した」
「え、君のおまけみたいなものかと。痛!」
「誰がおまけだね、失敬な」
 うっかり本音を口にすると、テイパーの飛び蹴りをくらった。
 それはともかく、今の会話で一つ気になることがあった。
「レリカ、夢魔と契約したってことは、君はもしかして――」
「着いたわよ」
 しかしそんなやりとりをしている間に、彼らは目的地へ辿り着いたようだ。ディーターは夢の中で、ようやくマーレの姿を見つけた。
「姉さん!」
 薔薇園の中央で、マーレは誰かと抱き合っている。恋人同士のような雰囲気だが、相手の男の顔は彼女の婚約者であるスヴェンとはまるで違った。そしてマーレ自身の顔は、男の胸に抱かれたままで見ることができない。
 彼女はディーターの呼びかけに反応しなかった。それに気づいて顔を上げたのは、マーレを抱きしめている男の方だ。
 現実感のないほどに整った顔立ちの男は、侵入者の姿を認めてにっこりと笑った。
「おやおや、こんなところにお客さんとは」
「お前は誰だ! 姉さんを離せ!」
「……あんただったの? バルドゥイン」
「知ってるの?!」
「ええ。まぁ……一応、比較的、紳士と言われる部類の淫魔よ。――けれどこいつは、夢に侵入した相手の生気を吸い取り命を奪う」
「!」
 レリカの言葉に、ディーターは息を呑み警戒を強めた。
「やれやれ。人聞きが悪いな。悪夢狩りのレリカよ。それでは私がまるで人殺しのようじゃないか?」
「違うっていうの?」
「私はあくまでも、夢の中で異性を口説くという淫魔の本分を果たしているだけさ。その結果、私の魅力に心奪われた女性たちが、私と会える夢から出たくないと、人間としての生を手放してしまうだけにすぎない」
「それを人殺しっていうのよ。たいして違いないじゃない」
「大有りだよ。私の呪縛は、夢の持ち主がしっかりと意識を持ちさえすれば、破れるはずなんだから」
 淫魔はまたしても人が好さそうににっこりと笑う。その表情だけ見れば気障だが善人だと騙されてしまいそうなほど鮮やかに。だが――これは魔物なのだ。
「姉さん! お願い! 目を覚まして! スヴェンさんだって姉さんとの結婚をずっと待っているんだよ!」
 ディーターの叫ぶ声にも、その内容にもマーレは何も反応を見せなかった。彼女はバルドゥインの腕の中で相変わらず背中を見せたまま、彼らを振り返りもしない。
 彼女は望んでこの悪夢に囚われている。
「無駄だよ、少年」
 バルドゥインがディーターに視線を向け、憐れむように微笑む。
「マーレの心は、婚約者とこのまま結婚していいのかという悩みですり減ってしまっている。その元凶たる男の名を聞いても、彼女が現実に戻りたいと思えるわけがない」
「そんな……! だって姉さんは、スヴェンさんのこと、本当に――」
「人の気持ちなんて、曖昧で儚いものだ。そうだろう? 先程の言葉でわからないと言うのなら、もっとはっきり言ってあげようか。――彼女は、現実に戻りたくないんだ」
 ぐっと詰まるディーターに、冷静に話しかけたのはレリカだった。
「騙されちゃ駄目よ。ただの気障ったらしい優男に見えても、そいつは淫魔なんだから」
 淫魔バルドゥインは人の心の弱味に付け込んで、その人の最も居心地のいい世界を悪夢として造り上げる。その甘い檻は、傷ついた人間の意識を絡め取る力がある。
「その人を離しなさい。今ならまだあんたをキャンディにはしないでおいてあげるわ」
「勇ましいが、果たして君が僕に勝てるのかな? 夢術師などと名乗ることしかできない元人間が、生粋の魔物に勝てるとでも?」
 バルドゥインの言葉に、ディーターはレリカの方を振り返る。先程、テイパーと契約したという話からも推測された通り、彼女は元々人間なのだ。
「やってみなきゃわからないでしょう? 何ならあんたを、その元人間に負けた淫魔第一号にしてあげる」
 レリカはナイフをとりだそうとした。しかし彼女が動くよりも早く、バルドゥインが指揮者のようにその手を振るう。
 すると、平穏そのものだった空間を突如として嵐のような強風が襲った。
「ああ、そうそう。言い忘れていたけど、私の作った夢に溺れている人間にとって、君たちのような異分子は幸せな時間を邪魔する侵入者でしかないんだ」
 現実では軽い台風程度の風で人間が吹き飛ばされるなどということは、ありえない。しかしここは何度も繰り返すが夢の中。
「わぁあああああ!」
 ディーターたちは強風に吹き飛ばされて、強制的にマーレの夢の中から追い出された。