夢術師の子守唄

4.悪い夢の甘い味

 ピンク色の空は淡い紫に染まり、涼やかな風に淡い花の香りが乗っていた。
 気づけばディーターは再び夢の中にいた。どうやら放心状態だったらしく、スヴェンのところから帰ってきて以来の記憶がない。
 また夢の中に連れ込まれたのは、そうでないとレリカと直接話ができないからだろう。
「それで、あなたは何を気にしているの?」
 ディーターの動揺は親が罪人であるというだけではないと見ぬき、レリカが控えめに、しかし確かな真実を求めて問いかけてくる。
「……俺と姉さんは、血が繋がってない」
「……似てない姉弟だと思ったわ」
「姉さんに比べたら、俺、地味だもんね」
「……そんなことないわよ。あなたもそれなりの顔はしているわ。ほら、ヴィルヘルミーナに似ているし」
「誰それ……」
 金髪碧眼の華やかな美女である姉と、黒髪黒瞳で端正だが平凡な顔つきの弟。中にはそういう実の姉弟もいるだろうが、マーレとディーターの場合は違う。
 それでもレリカの不器用な冗談とも言えない冗談で少しだけ気が緩んだ。ディーターは普段意識の底に沈めていた過去を思い出す。
 彼らの父親、孤児であったというマーレを拾った男はある時貴族の家から家督争いで殺されそうになっていた子どもを“盗んだ”。その子どもこそがディーター。
 幼児誘拐だけでなく関連するあらゆる罪状を着せられて、主には貴族の体面のために父は罪人として処刑された。もともと厄介者だったディーターは“誘拐犯”こと父親に攫われて殺されたことにされて見逃された。
 マーレは恐らくスヴェンにも事情を話したのだろう。どこまで告げたのかはわからないが少なくとも父の処刑とディーターに深い関わりがあることは知らされているようだった。
「父さんの罪と呼ばれるものは、俺の存在そのもの。姉さんもスヴェンさんも、俺がそのことで傷つかないように、悩んでいることを俺に気づかせないようにしていた……」
 姉もその婚約者も、自分をあまりに大切にしてくれた。
 ディーターの目に涙が浮かぶ。
「俺のせいだ。俺のせいで、姉さんが……むぎゅ!」
 落ち込むディーターの横でがさごそと何かを探していた様子のレリカが、ふいにディーターの口の中に、問答無用で飴玉を押し込む。
「落ち込んでいる暇はないわよ」
 ひどい。
「それは悪夢を切り取って加工したもの。夢魔の力の結晶。それを絶えず身に蓄えることによって、夢へと干渉する力を手に入れる」
 口の中で飴を転がしながら、その甘さに一気に落ち込みが削がれたディーターは思わず素直な感想を述べる。
「悪夢っていうからなんか凄い味がするのかと思ったら、普通に甘いんだね。なんか意外」
「悪夢の種類にもよるわ。ちなみにあなたの夢はとんでもなく不味かったわよ」
「ははは……」
 レリカと出会った当初、思い切りまずいと叫ばれたことをディーターも思い出す。
「それは父親に虐待されていた子どもが里子に出される時に悪夢として捨てた、実の親に優しくされていた頃の記憶を夢として見たものだもの」
「――」
 舌の上で転がる甘味を感じながら、ディーターは言葉を失った。
「それが、悪夢なの?」
「ええ。その時の被害者は、その夢さえなければ実の両親を憎みきることができると嘆いていたから」
 口に含んだ小さな飴玉からは、甘く優しい味がする。
 微かに花の香りがするようなその飴を舐めながら、ディーターの脳裏には見たこともない少女と男の人が晴れた空の下、花畑で遊ぶ光景が浮かんでいた。
 これが元の悪夢。
 誰かが捨ててしまった、幸せな記憶。
 思わず口の中の飴を吐きだそうとしたディーターの唇を、レリカがそっと指を当てて塞いだ。たいして力も込められていないようなその指先一つで、ディーターは飴を吐くのも言葉を吐くのも全て封じられてしまう。
「あなたが今考えた通り、その飴を食べ終われば、その悪夢は完全にこの世から消えるわ」
 消える。なくなる。悪夢と言う形で誰かの夢から切り取られた幸福の記憶が失われる。
「だからこそ、そのキャンディはあなたに夢へ干渉する力を与える」
 口の中で雪のように溶けていく飴の最後の一口を飲み干した。
 言葉にできない不思議な力が自分の中に染み込むのを感じながら、ディーターは尋ねる。
「その人は、本当に捨ててしまったの?」
 たとえ自分を傷つけたとしても、本当の親がくれたたった一つの優しさを。
「ええ、捨てた。あなたみたいにわかりやすい悪夢ではないけれど、だからこそ私は夢の中で尋ねた。本当にいいの? と」
 返ってきた答は確認するまでもない、ここにその記憶の飴があったことが答。
「幸せの形は人それぞれよ。何が大事で何が不要か……夜毎悪夢に魘されるほどに忌まわしい記憶かなんて、誰にもわからない」
 他者の目にどう映ろうと、その人の不幸も幸福も、その人自身にしかわからない。
 レリカは自分よりも少しだけ背の高いディーターを見上げる。
「それは、あなたたちも同じよ」
 凪の海のような青い瞳には、何の感情も浮かんでいない。少なくともそのように見える。
「あなたのお姉さんは、もしかしたらあなたを憎んでいるのかもしれない。もしくは憎みたいけれど現実に憎むことができなくて、だからあなたを傷つけなくてすむ夢の世界に逃げたのかもしれない」
 罪人の娘という噂でマーレが淫魔の獲物となるほどに傷ついたというのであれば、その原因となったディーターは彼女に憎まれていることも考えられるとレリカは言った。
「もしも彼女が、本当にあなたのことを疎んでいたら……あなたのいない世界を望んだら……あなたはどうするの?」
「――もしも姉さんが、そう望むなら」
 そんなもの考えるまでもない。ディーターはこの一か月、もしかしたらという思いと共に繰り返し導き出した答を、飴玉を溶かした舌の上に乗せる。
「俺は、消えても構わない」
 静かな決意を伝えるとレリカは目を伏せた。
「あなたはいい子ね。私は上辺ですらも、そんな風に願えなかったわ。私の幸せを壊そうとする相手を……恋敵を、憎み、恨んだわ」
 緩やかに首を振る動きに合わせて、紅い髪が風に揺れる花のように舞う。零れ落ちそうな造花と同じ色の青い瞳が、驚いた顔のディーターを静かに見つめた。
「好きな人がいた。その人を別の女の子が好きになった。女の子は私の友達。私は二人とも、本当に大好きだった」
 内容の割には淡々と、何かが抜け落ちてしまったような口調で語る。
「ある日友達から私と同じ人を好きになったと聞かされて、でも私は自分の気持ちを伝えることができなかった。その代わりに悪夢を見るようになった。毎晩毎晩、夢の中で友達を殺す。それから好きな人も殺してしまう」
「レリカ」
「そしていつしか、私の夢の中には夢魔が現れた。彼は私にとって邪魔な人間を誰でも殺すと言った」
「夢魔が? 夢魔は夢の外ではとても弱い魔物なんでしょ? なのにどうやって」
 レリカは自らの太腿に括り付けているホルダーから、いつも身に着けているナイフを取り出した。
「――俺の夢の中でも使っていた奴だよね」
「悪夢を切り取り、加工できるナイフよ。これで斬られた者は現実から切り離されて夢の一部となる」
 手入れをしている様子もないのに磨き抜かれたかのような刀身を見せる。
「このナイフで夢の中の人間を刺せば、その人間の存在を文字通り闇に葬ることができる。つまりその人間が現実で“存在しなかった”ことになるの」
「それって……」
「対淫魔用の最終兵器。そして同時に、対人間用の最終兵器なのかもしれないわね。その効果は実証済みよ」
 実証。一体誰で試したと言うのだろう?
「親友を、初恋の人を、何度も殺す悪夢を見るうちに、私の夢にはいつしか夢魔が現れた。夢魔は私に契約を持ちかけてきたの。対価をもらう代わりに、望みを叶えると」
 それはお伽噺の魔物の常套句そのものだ。けれど何に引き換えても叶えたい望みのある人間にとっては、この上なく魅力的な取引に違いない。
 レリカの望み。マーレの望み。彼女たちは悪魔に願った。命に匹敵するものを対価として差し出し、希望を叶える。
「そして夢魔はこのナイフをくれた。このナイフで恋敵を刺せば、その存在を消して恋する人を自分だけのものにできる」
 かつての自分に思いを馳せ、彼女は静かに瞳を閉じる。
「もう一度聞くわ。――本当に、いいの?」
 元人間だという夢渡りの魔物は、だからこその真摯さで念を押す。この戦いに負けた際の結末を見るまでもなく知っているからこそ。
「悪夢であってもそれはその人の一部。それを傷つけてまで、取り戻す覚悟があるの?」
 亡くなった妻を取り戻すために冥界を訪れた男は、死者の国を出る前にその顔を見てしまい結果的に妻を永遠に失う。不確かな覚悟しかないなら、いっそ夢など見ない方がいい。
「――俺にも、叶えたい願いがあるんだ」
「私と契約しようとでもいうの? 確かにあなたは夢魔が侵入できるほどの悪夢を見ていたし、私も夢魔のはしくれではあるけれど。私の本性は、恋敵を貶めようとした残酷な魔物なのよ」
 唇を歪めて苦味走った儚い笑みを浮かべたレリカに、ディーターは言った。
「でも君は、その恋敵も想い人も、本当に殺してはいないんでしょ?」
 レリカは不意を衝かれたようにきょとんとした顔になる。
「……どうしてそう思うの?」
「君を見てればわかるよ」
 ディーターは微かに笑い、度重なる念押しにしっかりと頷いた。
「さぁ、行こう」