夢術師の子守唄

5.人魚姫のナイフ

 青年は控えめに扉を叩いた。
 今は夜半で、他人が気軽に訪問していいような時間ではないことはわかっている。けれど彼はどうしても、いてもたってもいられなくてここまで来た。
 すぐに必要なくなるとの恋人の言葉にも関わらず作らせた合鍵が役に立った。粗末な家の中に足を踏み入れ、一直線に寝室に向かう。
 寝台の上に横たわる金髪の娘と、その傍らに突っ伏すようにして不自然な体勢で眠っている黒髪の少年。
 よく見ると少年の目元には涙が光っている。彼は少年を起こさないようにそっとその目元を拭ってやった。
 そして彼は、自分も寝台の傍らに寄り添うようにして、その寝顔を見守った。

 ◆◆◆◆◆

「先日は横着してマーレ嬢の夢の中に直接潜入したけど、今日は道を開きましょう」
「道を開くって?」
「あなたの夢とお姉さんの夢を繋げて、あなたの夢から彼女の夢に入るのよ。島から島へ橋を渡すようなもの。これならマーレ嬢の夢で何かがあっても、昨日みたいに一方的に夢の中から弾かれることはないわ。その代わり」
 レリカはディーターを見つめた。
「万が一彼女の夢が傷つくようなことがあれば、あなたの心も傷つく。……それでもいいのね?」
「かまわないよ」
 彼らはディーターの夢の中から、マーレの夢へと乗り込んだ。
「!」
 レリカが架けた橋を渡り、再び姉の夢に足を踏み入れたディーターは思わず声を失う。
「景色が……」
「浸食が進んでいるわね――時間がないわ」
 マーレの夢の中は、先日見た時と随分様子が違った。
 そこはまるで影絵の中に入り込んでしまったような、白と黒の世界。薔薇園も砂時計もそのままだが、色彩が抜け落ちている。
 ディーターたちは幽鬼のような灰色の人型の霧がゆらめくモノクロームの景色の中を走った。道は変わっておらず、先日マーレとバルドゥインの姿を見つけた庭園に辿り着く。
「姉さん!」
 マーレはあの時と同じように、バルドゥインの腕の中にいた。
「また君たちか」
 淫魔は彼らの姿を認めて口元を歪める。
「この前も言っただろう。彼女は現実には戻らない。このまま私が連れて行く」
「私も言ったわよ。バルドゥイン」
 レリカはスカートをたくし上げ、太腿のホルダーからナイフを抜く。
「その人を離しなさい。キャンディになりたくなければね」
「やれやれ。乱暴な人たちだなぁ」
 臨戦態勢になったバルドゥインの体から、黒い影のようなものが立ち昇る。彼はすっとマーレから離れると、以前もやって見せたように大きく腕を振る。
 影絵の空間に嵐が吹き荒れた。
 しかし今度はディーターもレリカも、その風に吹き飛ばされるようなことはない。今夜はあの時よりもしっかりと大地に足が着いているのをディーターは感じた。
「なるほど、陣地を整え、万全な準備をしてきたか」
 バルドゥインはにやりと唇を歪めて笑うと、パチンと軽く指を鳴らす。
 地面から次々に影が現れた。鎧を着た騎士の輪郭を持つそれらが、レリカ目掛けて襲い掛かる!
 もちろんレリカも一方的にやられはしない。彼女が両手を広げるとそこから無数の花と人形が現れた。
 地に落ちた花は種へと変化し、地面へ潜り込んで再び芽を出して蔓状の植物に育つ。それらが影の騎士たちの足を止めている間に、木や陶器でできた人形の兵隊がバルドゥインへと飛び掛かる。
 バルドゥインはいつの間にか闇そのものを凝らせたような得体のしれない気配のする鞭を手にしていた。足元に殺到する人形の兵隊たちを打ち据える。
 ガシャンと派手な音を立てて割れる陶器の人形たち。そして彼が人形の兵隊に気を取られているすきに、レリカは手にしたナイフでバルドゥインに斬りかかる――。
「姉さん!」
 その戦闘の脇をすり抜けて、ディーターはマーレに駆け寄った。
「姉さん!」
「来ないで」
 彼女を抱きしめていたバルドゥインの腕が離れてもその場所に佇むままだったマーレが、ようやく言葉を発した。
 しかしその声音は冷たく、彼女は相変わらず振り返らない。ディーターは姉の後ろ姿と対峙する。
 緩やかに波打つ美しい金の髪は、彼女の自慢だった。ディーターは街中で彼女を見かけて、それが後ろ姿でもすぐにわかった。
「私はバルドゥインに頼んで願いを叶えてもらうの。そのための願掛けとして、もうあなたの顔を見ないと決めたの」
「でも、それは命と引き換えなんだよ!」
 全ての夢魔がそうではないが、少なくとも淫魔バルドゥインとの契約は、契約者の死を意味する。
「……姉さんの叶えたい願いって、何? それは、現実で努力するだけじゃ、叶わないような途方もないことなの? 俺に何か手伝えることはないの?」
「……」
「戻ろうよ。姉さんに叶えたい願いがあるなら、俺はいくらでも協力する。スヴェンさんだってきっと――」
 弟の懸命な呼びかけにも、マーレは応えない。何も響いていないわけではないようだが、それ以上にマーレにはこの場を離れないという意地のような事情があるようだ。
「きゃあ!」
 レリカの悲鳴に、思わずディーターは振り返った。バルドゥインの鞭に打たれそうになった彼女を人形の兵士が庇い、レリカ自身はその余波でごろごろと地面を転がる。
 ディーターの足下に、小さな何かが滑り込んできた。
 それは、剥き身のナイフだった。レリカが武器として使う、悪夢を切り取り、淫魔に傷を与えることもできるというナイフだ。彼は反射的にそれを拾い上げる。
 淫魔に傷を与えるナイフ。夢の中で使えば、その人を殺せるともいう武器。
「何をするつもり?! やめなさい!」
 いち早くその決意に気づいたレリカが制止の言葉をかけるが、ディーターは腕を止めず――彼の胸の前で逆手にナイフを構えた。
「ありがとう、レリカ。俺をここまで連れてきてくれて」
 今この場で淫魔と夢術師が戦い、彼女が傷つくのはマーレを救うためだ。それはディーターの頼みであり、現実に戻ることを望まない彼女の目を覚ましたいのは、ディーターの願い。彼の我儘。その我儘を突き通すにあたって、彼はこれまで何もしてこなかった。
 武術の心得も魔術の心得もない、お伽噺の英雄とはまったく無縁の、ただの子ども。そんな自分に何かできることがあるなんて、ディーターはちっとも思っていなかった。
 それでももしも、この事態を変える手が彼に残されているとすればそれは一つしかない。
 ――このナイフで夢の中の人間を刺せば、その人間の存在を文字通り闇に葬ることができる。
 ――つまり、その人間が現実で“存在しなかった”ことになるの。
 姉の苦しみの原因が自分であるのだと知らされた時から、彼は覚悟を決めていた。マーレ自身が弟を厭うことはなくても、少なくとも彼の存在がその理由であるというのなら。
「もしも姉さんが、俺のせいで、罪人の娘だって噂を立てられて苦しんでいるのなら……死んでも逃げ出したいほどに、その世界を厭うなら……――俺が、消えるから」
 絶望的な覚悟とは裏腹に、ナイフを自らに向けるディーターの表情も声音も酷く優しい。
 伝わる緊張に、マーレの肩が揺れた。
「姉さんは、幸せにならなきゃ、駄目だよ……。スヴェンさんは優しい人だ。姉さん、結婚が決まって、あんなに喜んでいたじゃない」
 ディーターにとってマーレは、姉というよりもむしろ母に近い。彼のせいで父親を失ったことを恨むこともなく、物心もつかぬ幼子だったディーターの面倒を見、ここまで育て上げた。彼女がようやく自分の幸せを掴みとったことを誰よりも喜んだのはディーターだ。
 その幸福を、自分の存在が潰してしまうくらいなら。
「姉さんの――二人の幸せの邪魔をするくらいなら、俺が消える」
 ナイフを持つ手に力を込める。
「お願い姉さん――どうか戻ってきて」
「ディーター!!」
 レリカが彼の名を叫ぶ。続いてマーレの悲鳴も聞こえた。
「違うわディーター! 私はただ、あなたのために――!」
 次の瞬間、彼らの足下の地面――マーレの夢の世界は、硝子のように砕け散った。

 ◆◆◆◆◆

 ――あなたを守りたかった。
 あまりにも悲痛なその声は、まるで懺悔をしているかのようだった。
 ――私の可愛い弟。父さんから託された大事な命。唯一の家族。あなただけは絶対に守ってみせる。
 ディーターは水の中、思わず振り返る。そこには、過去の自分がいた。
 姉の腕の中で何の屈託もなく笑っている。ああ、こうしていつも守られてきた。
 影絵の薔薇園の足場が崩れ落ち、彼らはその下層の水中に落ちた。あの薔薇園はマーレの夢。ディーターの行動と発言は、彼女にその基盤を揺るがすほどの衝撃を与えたらしい。
 マーレがバルドゥインと契約したのは、ディーターのため。そうとも知らず、自分はなんて滑稽なことをしていたのだろう。
 硝子のように砕け散った夢の欠片は鏡のように、きらきらといくつもの光景を映し出す。
 幸せな記憶も辛い記憶も全てが入り混じり、水底から水面に向かう泡のように駆け昇る。
 水中に映る記憶は自分のものだけではない。知っている顔も知らない顔も、無限の過去が交錯する。
 ――マーレ、君を愛している。どこにも行かないで、ずっと僕の傍にいて、僕と一緒に生きてほしい。
 ――対価を払えば、願いを叶えてあげる。
 ――お前は俺の娘。ディーターを頼んだぞ。
 ――ねぇ、歌って。あなたの声、大好きよ。
 水の中にいるというのに、呼吸ができる。他人の声も地上と同じくはっきり聞こえた。
 夢魔とその宿主である人間は繋がっている。そして今、マーレの夢にはディーターの夢からレリカの力によって橋が架けられている。
 二人の宿主と二人の夢魔。四者の夢が綻びはじめた世界で混じり合う。
 砕けた硝子に鏡のように映しだされたのは、夢と言う名の過去。
 そしてディーターは、夢術師の記憶を見た。