6.溺れる歌声
少女は小さな町の酒場兼宿屋に生まれ、店を手伝いながら、歌姫よろしくいつも歌っていた。
彼女の歌は娯楽の少ない田舎町ではちょっとしたものであり、町で彼女を知らぬ者はいなかった。くるくると表情を変え、愛想よく、吟遊詩人も顔負けの歌声を持つ宿屋の看板娘として少女は町の皆から親しまれていた。
少女には、幼馴染の少年がいた。同い年だが両親を早くに亡くし、彼女の実家である宿屋に住み込みの従業員として働いていた。
兄妹のようにして育った二人は、とても仲が良かった。そして兄妹のようと言われることはあっても、彼らは実際の兄妹ではない。
少女は少年のことが好きだった。家族ではなく、異性として。しかしなまじ近すぎる間柄故に、そのことを気軽に言いだせない。
それでも二人は誰よりも仲が良く、誰よりも近しい関係だった。
少年は少女の歌を聞くのが好きだった。
彼が両親を亡くした直後、悪夢に魘されて眠るのを怖がる彼の枕元で子守唄を歌っていたのが少女だった。
「僕は君の歌が大好きだよ」
少女の歌を聞きながら少年は穏やかに笑む。
もしもそのままの関係が続けば、いつか彼らは気持ちを通わせることがあったかもしれない。穏やかに続く日常の中で、幼い恋は育っていく。
ある日少女の宿屋に、貴族の訪問があった。
とはいってもその貴族は最初から小さな町の古びた宿屋に用があったわけではない。彼には病弱な娘がいて、用事で外出したはいいものの屋敷に帰りつくまでに体調を崩し、帰路の途中に存在した唯一の宿屋に客としてしばらく滞在することとなったのだ。
病弱な貴族令嬢は、少女や少年と同じ年頃。体が弱いために社交界に顔を出すこともできず、これまで友人がいなかったという令嬢と少女たちはすぐに仲が良くなった。
娘の病弱さに貴族としての責務を果たすことは期待していないというその父伯爵は、娘が平民の友人を作ることを許した。政略結婚や社交には使えぬ娘でも両親は溺愛していた。
少女と少年はたびたび伯爵の屋敷に遊びに行った。令嬢は相変わらず体が弱かったが、二人の友人を得たおかげで気力が満ちて来たらしい。明るく笑うことが増えたという彼女の容態が良くなっていくのを、二人も喜んだ。
そしてある日、少女は令嬢から聞かされた。
少年のことが、好きなのだと。
◆◆◆◆◆
体調を崩した令嬢の見舞いにたまたま幼馴染はおらず一人で赴いた時、レリカはそれを聞かされた。
「彼のことが好きなの」
頬を染めて相談してきたフランは、どこにでもいる恋に悩む少女だった。
「私、単純だと思う? ろくに男の人のことなんて知らないから、知りあってすぐのアゼルのことを簡単に好きになるなんて」
「そんなことないわよ。いい奴だもの」
「レリカも、アゼルのことが好きなの?」
不安げながらも真摯な瞳で尋ねられて、どうして本当のことが言えなかったのだろう。
「違うわよ。だって私とあの子はずっと兄妹みたいに育ったんだもの。一番いいところを知っているのは当然じゃない」
レリカの返答にほっとした様子で、目を伏せて恥じらいながら、フランは語る。
「私ね、二十歳前に死ぬってずっと言われていたから、誰かに恋をしようと思ったこともなかった。昔よりはずっと元気になったけれど、それもいつまで続くかわからない。このまままた段々と具合が悪くなっていって、寝台から出られない日々に戻るのかもしれない」
「――そんなことないわ。フラン、きっと元気になるわ」
レリカもフランの容態のことは常に気にかけていた。今日は元気でも明日はどうかわからない。この恋は、そんな彼女のただ一つの支えだということはレリカにもわかっている。
「だからね、私はこの恋を諦めたくないの」
儚げに微笑む少女。彼女は私の大事な友人。
「ねぇ、歌って。あなたの声、大好きよ」
熱で潤んだ目を向けてねだるフランに、求め通りの子守唄を聞かせる。
レリカは彼女から、その恋を奪うことはできなかった。その代わりに同じ日の夜、夢を見た。
親友を、殺す夢を。
◆◆◆◆◆
宿の酒場に奇妙な男が現れるようになった。男は必ず少女がいる時にしか姿を現さず、頼んだ酒にろくに手も付けずその歌声に聞き惚れている。
その頃少女は、悪夢に魘されて飛び起きる回数が増えていた。
夢の中で鈍く光るナイフを手にし、想い人を奪われぬために親友を殺す。
あるいは、親友を奪われぬために想い人たる幼馴染を殺す。
汗まみれになって飛び起き、夢と現実の狭間で喘ぐ。
彼女の、彼の、やわらかな腹にナイフを差し込んだ感触まで生々しく残る手で顔を覆い、夜明けまで泣き続けた。
眠れない夜が続き、少女は日に日にやつれていく。どうしたのかと他でもない恋敵の令嬢や想い人たる幼馴染に問われても、なんでもないと答えるしかない。
そのやつれ具合とは逆に、解決しえない恋の悩みを抱いたまま歌われる少女の恋の歌はとても素晴らしかった。彼女のファンだと名乗る奇妙な美しい男だけでなく誰もがハッとせずにはいられないほど、その痛みが紡ぐ歌は深く心に響く。
いつものように少女が眠りに入ると、夢の中に造り物のように美しい男が現れた。
「おいしい悪夢が育ったようだね」
その時も少女は親友を殺す悪夢を見ていたところだった。咄嗟にナイフを振りかざし、どこか見覚えのある男の口を封じようとする。
「おや、怖い怖い」
渾身の一撃を難なく躱し、男の指が彼女のナイフを爪の先で軽く突く。すると、ナイフは砂糖が溶けるようにあっさりと消えてしまった。
「殺したいの? 恋敵を? それとも自分が恋した相手の方を? それとも、両方?」
連日宿を訪れて彼女の歌に聞き惚れていた男は、夢魔だと名乗った。彼女が睨み付けるのも構わずに、微笑みながら語りかける。
「殺してあげるよ? 君の望みなら何人でも」
「そんなこと私は望んでない!」
「私の力なら、君を苦しめるものを全て消すこともできる」
「そんなこと頼んでないし頼まない!」
「ああ、自分の手で殺したいってやつだね?」
人の言うことを聞かない夢魔は、彼女の手に先程まで彼女が手にしていたのと似たような大きさの、装飾的なナイフを手渡した。
「これは夢魔のナイフだよ。夢の中でこのナイフを使い、人を殺すとその人間の存在は現実から抹消される」
その言葉に、少女は魅入られたようにナイフを見つめた。
「人殺しにすらならずに目障りな相手を消すことができる、便利な道具だよ」
「……いらないわ。そんなもの」
「どうかな。私は本当に私を必要としない人間の前に現れることはできない。君には強い願いがあるはずだ。とても強い願いが。――もっとも、それを叶えるためには相応の対価が必要となるけどね」
血にまみれた夢を見る。焼けつくような渇きが、衝動が、彼女を突き動かそうと、突き破ろうと暴れまわる。
「ま、何かあったら呼んでくれ。夢の中でなくとも、私は常に君のすぐ傍にいる」
◆◆◆◆◆
その日、三人は令嬢の用意した馬車に乗って海へと出かけた。
娘の体調が良くなったことを、両親は当の本人以上に浮かれて喜んでいたらしい。友人と出かけたいという彼女の希望を聞いて、その馬車を用意してくれたそうだ。
街から少し離れた場所にある海岸は、季節外れのために人気がなかった。ここよりももっと街に近い場所に海はあるが、そう言ったところはもちろん港として開かれている。彼女たちが馬車で訪れたのは、観光地でもなくただ波が砂浜に寄せては返すだけの場所だ。
それでも滅多に来られない場所に、子どもたちがはしゃぐのは早かった。悪夢のせいで元気のなかった少女も、久々に穏やかな気持ちで三人で過ごす時間を楽しんだ。
夢魔に渡されたナイフはまだ彼女の手の中にある。夢から醒めてもこれだけは消えず、彼女はそれをいつも持ち歩いていた。
これで人を刺せば、その人間の存在を初めからなかったことにできる。
もしも友人を、幼馴染を刺したら、これまで三人で築き上げてきたはずの時間はどう変わってしまうのだろう。
強い誘惑を感じながらもそれを打ち払い、少女は手を振る二人のもとへ駆け寄った。波打ち際で遊んでいるのも良いが、そればかりでは単調だと、彼らは遠目に見つけたらしい入り江の探索を提案した。
――そこで、事故が起きた。
足を滑らした令嬢を助けようとして、少女も少年も反射的に海へと飛び込んだ。
しかし泳ぐ季節でない海の水温は冷たく、泳ぐつもりで来ていなかった彼らの着衣は水を吸ってその動きを邪魔する。もともと体の弱い令嬢と、近頃の睡眠不足が祟った少女。
そして、海に落ちそうになった令嬢を助けようとして飛び込み、彼女が水中の岩場にぶつかるのを庇った少年が最も重傷だった。
青い水中に赤いリボンのような血が流れていく。
悲鳴さえも泡と消える水中で、少女は無意識のうちに助けを求めた。
「呼んだかい? 私の歌姫」
いつの間にか隣にいた夢魔の男に、縋るような眼差しを向ける。残酷な悪魔はこの上なく優しい笑みを浮かべながら囁いた。
「私に対価を払えば、君の願いを叶えてあげるよ」
願いを叶えるには、対価が必要。
「まだ生きているあの娘を殺すことも、もう死に逝くしかないあの少年を救うこともできる。君が望むなら、娘の命を少年に移し換えて生かすこともできよう」
「さぁ――」
悪魔は笑う。本音をさらけ出せと。
どんな醜悪な本心も身勝手な願い事も、今なら何一つ不自然さを感じさせることなく叶えてやると。
彼女は叫んだ。
「二人を助けて!」
どちらかではなく、両方を。
私ではなく、彼らを。
そのためなら――。
少女は衣服の下に隠し持っていた礼のナイフを取り出し、躊躇うことなく自らの胸に深く突き刺した。