7.幸福の対価
レリカは何かの合図をするように、腕を大きく振った。するとこれまで青い液体に染められていた空間から水分が消え去る。
「レリカ」
万華鏡のように揺らめきながら水中の硝子片に映し出されていた過去もそれによって消えた。ディーターは思わずレリカの方を見る。
「君が夢魔のナイフで刺したのは、自分自身だったのか」
水が引くと、そこは以前にディーターの夢の中で見たような空間だった。ただし玉座も壁もなく、闇の中にぽっかりと浮かんだ白と黒のチェス盤模様の床だけが存在している。
「元人間には、ずっと水中にいるってのはどうもね。ここが夢の中だってのはわかっているけど」
まったく動じていない様子ながら彼女はそう言って視線を移した。
そこにはディーターもレリカの夢の中で見た夢魔の男が立っている。バルドゥインとどこか似た空気を持つ、絶世の美貌の青年だ。
しかし彼を指して言われた次の言葉に、ディーターは目を丸くした。
「ありがとう、テイパー」
「どういたしまして。私の歌姫」
「……テイパー?」
あの、現実世界ではレリカの片腕に抱かれる程度の大きさの、奇妙な合成生物こと獏のぬいぐるみじみた魔物が、この美青年?
レリカを夢魔にした元凶。
ディーターはなんだか急に笑い出したくなった。いろいろな感情が溢れだしてきて、自分でも制御できない。
「坊や」
過去の記憶の中ではよく笑いくるくると表情を変えていた少女は、今ではすっかり無表情が板についている。そのレリカが、昔も今も変わらない青い瞳に珍しく驚きを浮かべた。
「どうして泣いているの?」
「え?」
先程まで水の中にいたせいか、指摘されるまでディーターは自分が涙を流していることに気づいていなかった。
「どうしてって」
自覚してしまったら熱い滴はますます止まらず、頬を滑り落ちて床に溜まる。
「君の想いが、あまりに悲しいから」
愛する幼馴染と大事な親友。憎しみの分だけ深い愛情を抱く、誰よりも大切な二人を救うために彼女は他でもない自分の命を投げた。
夢魔との契約より二人が救われたとしても、彼らの記憶の中に彼女は存在しない。三人で過ごした日々は永遠に失われ、何もかもがなかったことになる。
それが今、こんなにも深く強く胸を締め付ける程に悲しい。
「悲しむ必要などないわ。それに、私の選択は、あなたが今しようとしたのと同じことでしょう」
「うん」
ディーターは頷いた。頷いて、そのまま蹲り顔を覆う。
レリカの過去を覗いたことによって、彼にはわかってしまった。
この方法ではマーレを救うことはできない。
誰かを犠牲にした救いなんて、救いではない。その考えはマーレがディーターのためにバルドゥインと契約したのと同じ。
皆が皆、誰かのために何かをしようとして、そのために自分を捨てようとしていた。
けれどそれは真の意味の救いにはならない。
「……坊や?」
レリカは不思議そうに首を傾げる。
彼女にはもうわからない。彼女は人であることを捨て、その心の一部を手放した。
ディーターはひとしきり涙を流すと、自らの手でそれを拭い立ち上がった。
こんな方法では駄目だ。わかっている。それでも彼は、姉を救いたい。救わなければならない。
立ち上がったディーターを、バルドゥインが睨み付ける。
「乱暴なことをしてくれるね、少年。一歩間違えば、私が連れて行かなくてもマーレが心を破られて死ぬところだったよ。――君はここに、彼女を追い詰めにきたのかな?」
「違……俺は……ッ!」
「それだけ、その子はこの子のことが大切だったというだけでしょう」
言葉に詰まるディーターを擁護するように、レリカはその隣に立った。
バルドゥインが溜息をつく。
「もうマーレをそっとしておいてあげたらどうなんだい? これ以上現実にいても、彼女は擦り切れていくだけだ」
「それは困るわね」
とはいえレリカに退く様子はなく、直接的な手出しはしないまでも変わらずバルドゥインからマーレの魂を取り返すことを諦めてはいなかった。
「何故人は大事な人に、どんな形でもいいから生きていてほしいと願うのかしらね。その道が幸福に続く保証なんてどこにもないのに」
かつて自らの命を懸けて親友と想い人を救った少女は、苦く笑う。
「そしてその想いを、彼女を大事に想う人々がおしこめなければいけない理由もない」
その言葉に自失状態だったディーターは我に帰り、バルドゥインの腕に抱かれている姉の方を見つめた。
「――姉さん」
なんとかマーレの意識を覚まそうと、ようやく立ち直ったディーターは再び呼びかけた。
「お願い、目を覚まして」
震える声を振り絞り、拒絶を覚悟で彼女の願いに反する彼の願いを口にする。
「ごめんなさい。俺のせいで、これまでもあなたをいっぱい傷つけた。でも俺は、それでもあなたに生きていてほしい。それがあなたを傷つけるとわかっていても」
安らかな死は確かに甘い誘惑なのだろう。
生きることは傷を増やしていくことにほかならないのかもしれない。
それでも。
ディーターが呼びかけるごとに、足元の空間に漣が走る。意識を失っているように見えてもここは夢の中、彼の言葉はちゃんと届いていて、それでも状況の打破につながらない。
ディーターは拳を握りしめた。やはり駄目か。駄目なのか。自分では、彼女の心を引き戻せない。
レリカも厳しい顔つきをしている。
「原因とは言わなくとも、あなたのことが夢魔との取引の理由になっている以上、あなたの呼びかけだけじゃ足りないんだわ」
「……俺じゃ、姉さんを取り戻すことはできないの?」
「マーレ嬢の悩みの原因は坊やと失った父親に関する噂。その結果、彼女はあなたを守るために自分の望みや感情を奥に押し込め、バルドゥインと取引した」
マーレにとってディーターは確かに大切な存在だが、そうであればあるほど、彼女はディーターを守るためにも淫魔との取引に縋ってしまう。
その心を動かすには、彼女が庇護すべき弟の存在では駄目なのだ。
「そんな……!」
無念さにディーターはきつく目を瞑った。
何もかも消えた空間でいつの間にか彼らの視認できる範囲に出現していた砂時計からは、休む間もなく記憶の砂が滑り落ちていく。
あの砂が落ち切れば、マーレの魂はバルドゥインのものになる。
そして無情にも、全ての砂が落ち切るかと思われたその時。
『マーレ』
天上から声が降ってきた。
バルドゥインに抱きかかえられたマーレの、深く閉じられた瞼がぴくりと動く。
「スヴェンさん?」
間違えるはずもないほどに聞き覚えのある声に、ディーターも目を丸くして果てのない空を見上げる。
『マーレ、どうか目を覚ましてくれ』
その呼びかけに応えるかのように、マーレはゆっくりと目を開け、婚約者の声が降ってくる何もない空を見上げた。
バルドゥインが驚いた様子で、彼女を地面に降ろす。
「レリカ、これって」
「スヴェンとか言ったわね。彼女の婚約者が、夢の外――現実から呼びかけているのよ」
ディーターにはわからないが、レリカは夢術師の力で現実にマーレの枕元に座るスヴェンの姿を見ていた。
夢の中で呆けた様子を見せるマーレも、まるで外にいるスヴェンと視線を合わせようとでもするかのように、一心に天を見つめた。
『僕との結婚が君を悩ませ、傷つける原因になったことはわかっている。いや、わかった振りをしていただけだ』
自責の念が滲む苦しげな声音。続いて彼は、昼間にディーターと話したことの一部を持ちだしてきた。
『今日の昼間、ディーターがうちに来たよ。あの子は、自分さえいなければ君は幸せになれるのかと、思いつめた表情で僕に聞いた』
確かにそんな話はした。そしてもう――それでは姉を救えないことまでわかってしまった。そして。
『その時にやっとわかったよ。マーレ。君も彼と同じように考えているのだと。君たち姉弟は、血の繋がりなんかなくても考え方がそっくりだからね。――だからこそ、僕は君に伝えたい』
似た者同士だと称した姉弟を昔から見ている男は、そのどちらとも違う選択を口にした。
『マーレ、君を愛している。どこにも行かないで、ずっと僕の傍にいて、僕と一緒に生きてほしい』
婚約した時と同じセリフが、夢の外のスヴェンの口から紡ぎだされたことにマーレが強く反応する。
「今更調子の良いことを――」
苦々しげに毒づくバルドゥインの様子とは裏腹に、彼女の視線は空の向こうのスヴェンの姿を必死に見ようとしていた。
『僕の臆病さが、君に自分さえいなければ何もかも上手くいくだなんて悩ませてしまったことは知っている。それがわかっていても、僕はもう、君なしの人生なんて考えられない』
「スヴェン……」
砂時計の砂が止まった。落ち切ったのではなく、落下が止まったのだ。ほんの少し、一息の間に零れ落ちそうなほどに僅かな砂が、何かに押しとどめられている。
『僕が苦しんでいたとき、君は傍にいてくれた。今度は僕が、君の傍にいると誓うよ』
声だけでもマーレには、今のスヴェンがどんな顔をしているのか不思議と理解できる。
『だから――どうか目を覚ましてくれ。誰かを犠牲にして築く平坦な道ではなく、どんな険しい道のりでも、僕と一緒に歩いていってほしい』
「ああ……スヴェン!」
吐息し、彼女は泣き顔を隠すかのように顔を覆った。
凡庸でありふれた、だからこそ真摯な言葉はまるで慈雨のようだ。優しく温かく降り注ぎ、傷ついた夢を癒していく。
「私の術、マーレの悪夢が……」
バルドゥインが声を上げる。
空が剥落するように剥がれ、その欠片は光の粒となって消えていった。割れた灰色の雲の向こうに、晴れ渡った青空が広がっている。
もうこの世界に淫魔の築き上げた甘い檻は存在しない。
「マーレ」
「――バルドゥイン」
自らの傷にがんじがらめに囚われて蹲っていたはずの娘が自分の足で立ち上がり、そっと彼の胸を押し返すのが見えた。
「今までありがとう。そして、ごめんなさい。私――行くわ」
止まった砂時計が硝子の砕ける音を立てて消えていく。バルドゥインは最後にもう一度、彼女に問いかけた。
「マーレ、本当にいいのかい? 君はあんなに現実で苦しんでいたのに」
この淫魔によって命の危機にまで晒されていたはずだというのに、マーレの微笑みはまるで親しい友人か、それこそ恋人にでも向けるように優しい。
「あの人が迎えに来てくれたから、帰らなきゃ」
「……マーレ」
「さようなら。幻の恋人。私が今こうして生きることにすら臆病にならずにすむのは、あなたのおかげよ」
彼女は爪先立ちで伸びをし、バルドゥインの頬に親愛の籠もったキスを送る。
「あなたは私に幸せな夢を見せてくれた。私を慰めて、励まして、逃げ道になってくれた。あなたのおかげで、私は救われた」
バルドゥインが甘い言葉を囁く振りでマーレに現実への恐怖を植え付け、夢に縛り付けるような淫魔だったらまた事態は違う方向に向かったのだろう。しかし彼は、現実から逃げ出した彼女の心をただ、癒した。そう、優しい恋人のように。
少なくとも今マーレがこうして現実と向き合う気になれたのは、彼のおかげだと。
「お別れよ、バルドゥイン」
マーレの姿は光の粒になって消えた。彼女の視線はディーターの方にも向けられる。姉は少し困った顔で笑いながらも、弟と現実で再会することを約束した。
マーレが目覚める決意をした以上もう消えるまであとわずかの空間に残された者たちが顔を見合わせる。
「……やれやれ。僕の恋人たちはいつも気まぐれで勝手だ。どんなに甘い夢を見せても、結局は現実に帰っていく」
淫魔は夢術師の少女の方を振り返った。
「で、僕をどうするんだい? レリカ」
「あなたは殺さないわ」
「いいのかい? 悪夢狩りともあろう者が」
「だって被害者が、あなたの見せたものを幸せな夢だと信じているのだもの。悪夢ならともかく、幸福な夢を刈り取るわけにはいかないわ。それをしたら――私は本当に魔物になってしまう」
「夢術師だなんて珍妙な呼称に拘るのはそういうわけか。人間とは本当に、わからない生き物だよ」
自分はこれで失礼させてもらう、とバルドゥインは言った。
「じゃ、達者でね。レリカ、それに兄さん」
「兄さん?!」
ディーターはこの場にいるもう一人の夢魔――テイパーを見た。そういえばレリカの回想の中の彼とバルドゥインは、気障ったらしい言い回しが良く似ている。女たらしの魔物なのだからそれが種族的な特徴かと思っていたのだが。
呆気にとられて彼の去った方を見つめるディーターに、レリカが声をかける。
「さて、私たちもそろそろここを出るわよ」
まだまだ何か言いたいことはあるような気がするのだが、とりあえず姉を救うという目的自体は達成された。
促されて、ディーターは頷く。差し伸べられたレリカの手を取り立ち上がった。
――帰ろう。皆が待っている現実へ。