夢術師の子守唄

8.子守唄を君に

 夢魔に渡されたナイフで胸を突いたレリカは、寸でのところで当の夢魔に命を救われた。
 正確にはそれは彼女を救ったわけではない。だが彼は彼女の時間を止めることによって、本当にその決意が確かなことを確認したかったらしい。
 泡さえも動かない時の止まった海の中、彼は尋ねる。
「――いいのかい? レリカ。君はあの二人を憎んでいたんじゃないのかい」
「ええ。憎んでいた。そしてそれ以上に愛している。だから……命の対価には命を払うから、私の命で二人を助けて」
「……それが君の望みなのか」
だがテイパーは簡単には頷かなかった。
「私のナイフを随分即物的に使ってくれたようだけど、それは本来夢の中でその一部を加工するための道具だ。だからそれに刺されても、現実の人間が普通に死ぬわけではない」
「……全然痛くないと思ったら」
「けれど君のこの行為を、私の力を通じて夢に反映させることはできる。夢の中で自分を刺した時と同じように、君の存在そのものをナイフでこの世から消すことはできるだろう――それが君の払う一つ目の代償だ」
 レリカは了承した。だが、一つ目? 二つ目はなんだろう?
「レリカ!」
 時間が動き出す。血まみれのアゼルを抱いたフランが、何かを察してレリカへと呼びかけた。――いや、このやりとりは夢なのかもしれない。自分たちはまだ海の中なのだ。それとも先程の夢魔が余計な気でも利かせたか。
「レリカ! 行かないで! 行かないでよ!」
 泣きながら叫ぶフランに優しく微笑んで手を振る。自分という人間の存在そのものがこの世から消えてしまうのなら無用な心配かとも思ったが、それでも言葉は口をついて出た。
「泣かないで、フランチェスカ。あのね――私、実は人魚姫なの。だから海に還るだけよ」
 王子様を刺せなければ、泡となって消えてしまう人魚姫。それでも構わない。あなたたちのためなら、この声を失っても、自分が泡となって消えても――構わない。
「二つ目の対価だ、私の人魚姫」
 救いたいのは二人。対価は一つではすまないと夢魔の声は言う。消えゆくこの身から更に何を望むのか。不思議がるレリカにテイパーは言った。
「私の愛した君の歌声を私に。――そして現実から切り取られて夢の存在となった君は、夢魔として私と共に生きるがいい」
 そうして少女は、夢術師となった。

 ◆◆◆◆◆

 目覚めたマーレは無事にスヴェンとの結婚を果たした。
 ついに腹を決めたスヴェンはゼーフェリンク商会の当主としてマーレに対する悪評を完全に抑え込み、マーレも内心はどうであれ、見た目には気丈に振る舞い、国を代表するような商家の奥方として生きる覚悟を固めたようだった。
 その裏に抱えたものはまだ無数にあるものの、とりあえず街に、彼らの周囲には平穏が戻った。
 それと同時に、ディーターもまた、一つの決意をマーレに伝えた。
「家を出ようと思うんだ」
「ディーター」
 マーレとスヴェンの結婚式の前夜、姉弟は顔を合わせて家族としての最後の話し合いをしていた。
「急な話じゃない。ずっと前から考えていた」
「わかっている。……わかって、いたわ。ずっと。私の結婚が決まってから、あなたが時折何か深く考え込んでいたり、荷物を整理しはじめたりしていたから」
 どちらも予兆を感じていた。
 でもどちらも、それを言葉にしなかった。その沈黙の代償がマーレの一か月の昏睡であり、危うく彼女はそのまま還らぬ人となる可能性もあった。
 言葉で伝えられない感情もある。だが言葉にしなければ大概のことは伝わらない。
 ディーターがマーレの幸福のために自分を消すこともできると言ったのは、我儘を通して彼女に嫌われたくなかったから。彼にとってはそれが何よりも恐ろしいことだった。
 自分はレリカの言ったような「いい子」ではない。それをディーターは誰よりもよく知っている。彼の何を引き換えにしても叶えたい願いは、マーレやレリカとは別のところにあるだけのこと。
「俺は姉さんもスヴェンさんも好きだけど、いつまでも甘えてるわけにはいかない。好きだからこそ、一度二人から離れて自分がどこまでできるか試したいんだ。――最初からこういう風に言えていれば、たぶん姉さんをあれだけ不安にさせなくても済んだろうね」
「……そうかもしれないわね。私もあなたを、いつまでも私の手がないと生きていけない子どもだと思い込んでいた」
 自嘲するように俯くマーレに、顔を上げたディーターは打って変わって意を決した様子で告げる。
「あのね、姉さん。俺、きっとこの街に帰ってくる。――だからその時は、ちゃんと迎えてね。姉さんとスヴェンさんが結婚しても、二人の間に子どもができても、それでも――俺の居場所も残しておいてね」
 きっと夢術師を名乗るあの少女と出会う前だったらこんなことは言えなかった。それまでのディーターは、自分さえ消えれば皆が幸せになれると思っていたのだから。
「そんなの、当たり前でしょ。あなたこそ、忘れないで」
 マーレは涙ぐみながらも微笑んでディーターを抱きしめた。
「いつになっても、どこにいても、あなたは私の大事な弟よ」

 ◆◆◆◆◆

 最低限の手荷物だけを持って家を出る。マーレが嫁に行き、ただでさえ寂しくなったその空間はそれで完全に住人を失う。
 ディーターはしばらく街の中を、何かを探すように歩き回った。
 彼の予想通りなのかたまたまか、彼女は最初に出会った時と同じように、頑固親父の青果店の前にいた。
「だからな、お嬢ちゃん。いい加減に――」
「おじさん、それ俺が買います」
「ディーター。またお前か」
 店主だけでなくレリカまでもが、吃驚した様子で振り返る。
 彼女が買うはずだったものを代わりに抱えたディーターは、広場の階段に腰かけながらその林檎の一つをレリカに、一つを獏の姿のテイパーに渡した。
 そして自分が家を出てきた事情を話し出す。最後の最後で、こんな言葉と共に。
「君の旅についていきたいと思うんだ? 駄目かな」

 ◆◆◆◆◆

 レリカは先日マーレと話をしたことを思い出した。
「――で、結局、命を対価にしてまで叶えたいあなたの望みは何だったの?」
あの後、レリカは一度だけ、マーレの夢の中に会いに行った。
「夢魔にとりつかれた人間は一度夢魔を追い払えばそれで終わりと言うわけじゃないわ。元の原因から直さなくちゃ、いつまでたっても悪夢に囚われ続ける」
「それは……それはもう大丈夫です」
「ディーターがこの街を出て行くだろうから?」
「……」
「あなたが気にしているのは、ディーターの出自?」
 それが孤児であるという現状を指すものではないことに、マーレも気づく。
「私はこう見えて、夢魔となってから見た目の何倍も生きているの。それに権力者は悩みも多いから、色々な国の王宮を訪れるわ。今回のように知り合った相手もいる」
 レリカは瞳を細めた。
「ディーターはこの国の女王ヴィルヘルミーナにそっくりね。あの女王とあの少年を同時に知る者は滅多にいないだろうから、誰も気づかないだろうけど」
 ロイエンローゼは物理的に王都から遠く、ここの住民は基本的に国王の顔を知らない。
 そして出会った際にレリカが見たディーターの夢の中、彼はチェス駒に追われていた。騎士や女王の格好をした顔のないチェス駒は、どこか貴族の世界を思わせないか。
「女王の息子ディートリヒ王子は十二年前に政争に巻き込まれて行方不明。公式には誘拐されて死亡したことになっていたけれど」
 十二年前に二歳だった王子は、生きていれば今年で十四歳。ディーターと同じ年だ。
 レリカはそこでマーレの反応を窺うように言葉を切った。金髪の娘は、艶やかな笑顔を鎧のようにまとう。
「一体なんのことでしょう? あの子はただのディーター。私の弟です」
「……ええ、そうね」
 レリカもマーレの口から決定的な言葉を引き出そうとは別に思っていない。女王の嘆きはともかく、少なくともディーターと言う名の少年はこの家族のもとで育ったことを幸せだと思っているのだから。
「それじゃ。私は帰るわ。邪魔したわね」
「レリカさん」
 マーレが初めて夢術師の名を呼んだ。
「これから、ディーターをよろしくお願いします」
「……ちょっと待って、なんで私がそんなものお願いされなきゃならないの?」
「あの子はきっともうすぐ、家を出ることでしょう。そしてたぶん、あなたについていく」
「だからなんで――」
 呆気にとられるレリカに、容姿ではなく性格、話の途中で笑うタイミングなどやはりどこかディーターとの相似が見られる娘は重ねて頼み込んだ。
「どうか、あの子をよろしくお願いします」
 ――とは言っても、自分にできることなどほとんどなさそうだが。
 林檎をテイパーに手渡すディーターと並んで歩きながら、レリカは考える。
「ねぇ、レリカ。俺が食べたキャンディの……悪夢の元となった人たちはどうなったの?」
 彼の問いには、口のきけないレリカの代わりにテイパーが答えた。
 虐待されていた子どもが成長して会いに行き、その頃には親も改心していて、幸せになったと。あの時レリカが悪夢を奪い、子どもが里子として実の親から離れたからこそその結果が生まれたのだと。
 それを聞いてディーターは微笑んだ。
「レリカ、やっぱり君は悪人にはなれないよ」
「……」
「でも悪人になろうとなんてしなくても、ふとしたことで誰かを傷つけるなんて簡単なんだ。だから俺は家を出て、姉さんのもとを離れることにする」
 常に明るく能天気に振る舞いながらもどこか影を抱えた少年は、軽い行動とは裏腹に決意を感じさせる言葉を口にした。
「少なくとも両親を愛しながら憎んでいた子どもがその過去を受け入れられるまでに成長するぐらいの時間は、俺もこの街に帰らないでいようと思う。――だから着いて行っていいですか」
「それとこれとは話が別よ、とレリカは言っている」
「それに俺、君にまだ何も返してない。夢魔との契約には対価が必要だって言ったのはそっちだろう? 俺、一方的に助けてもらってばかりだ」
 それはそうなのだが、だからと言ってついて来るというのはどうなのだ。生身の人間と行動を共にするのは一部の場面では便利な反面、制約も多い。
 ――それにたぶん、ディーター自身は一方的に助けられたとは言うが、今回の出来事からは、レリカもきっと得たことがあるのだ。
 そんな風に無表情の裏で頭を悩ませるレリカの前でふと足を止め、彼は言った。
「ねぇ、レリカ……いつか、俺にも君の歌を聞かせてね」
 夢術師は立ち止まった。
「君の声が――歌が、テイパーに払った“代償”なんだろうってことはわかっているんだ。それでも俺は、君の歌を聞いてみたい」
 彼女がテイパーに捧げた声は、幼馴染と親友の命を救う対価だった。レリカはそれを悔いることなどなかったから、多少の不便さは感じる者の、声を失ったことを悲しむこともなかった。
 現実では音にならずとも、夢の中ならまた歌うことができる。テイパーがそう望んだからだ。彼は彼女の声だけでなく、その歌を愛したのだから。
 しかしディーターが歌ってほしいというのは、そういう意味ではないのだろう。彼は現実の彼女が、彼女の声で歌うのを聞きたいというのだ。
 未練などないつもりだった。一つのものを贖うには同じく一つのものを差し出すのが当たり前だと思っていた。
 状況が違うと言えばそうだが、それでも夢の中のマーレを呼び覚まそうとしたスヴェンのような選択はレリカにはできなかった。だから。
 隣を歩きながらディーターが微笑む。父の死と引き換えに生を得た少年は、癒えない傷を抱きながらもまるで痛みを知らぬ者のように鮮やかに笑う。
「俺も少しだけ欲張りになることにしたんだ。だからね――歌ってよ、レリカ」
 ――僕は君の歌が大好きだよ。
 ――ねぇ、歌って。あなたの声、大好きよ。
 歌うことが好きだった。
 そのための声を失った。
 だから二度と歌う必要もないと思っていた。しかしレリカは今、初めて自分が本当はどうしたいのかを考えた。
 返事はテイパーに代弁させず、小さくも確かな望みを向けてきた少年の方を向いて深く頷くことで答える。
 ――いつか、きっと。
 ディーターも頷いて微笑み、視線を前へと――彼らが向かうべき方角へと戻した。
 彼らはこれからも、どこまでも歩いていく。

 了.