黄昏は手を繋いで

黄昏は手を繋いで

1.緋色の黄昏

 ごとり、と音を立てて落ちる肉片をダニエルは声を上げることもできずにただ見つめていた。光を失った瞳が無機質に彼へと向けられる。首の切断面から溢れ出す血。
 死は、もはやダニエル自身の上にも降りかかろうとその白く細い手を振り上げている。すでに三人の仲間は殺された。ああ、僕もここで死ぬんだ。
 固く目を瞑りフェニカ女神様への祈りを胸中で唱え始めたダニエルの耳に、鈴を転がすような声がかけられたのはその時だった。
「あなたは?」
「……え?」
「あなたは、たたかうの? あなたもわたしをころしに来たの?」
 それまで彼に死を与える無慈悲な刃であったはずのものが、口を開いた。無邪気、と形容していい程あどけない表情を浮かべて、返り血の散った頬もそのままに首を傾げる。
「あ……」
「ねぇ、たたかうの?」
「た、戦わない! 君を殺すこともしない!」
 半ば夢中で、ダニエルは叫んでいた。必死だった。そもそも先程、瞬きの間に彼の同僚である修道士三人を屠ったその相手に、勝てるはずなどなかった。普通ならここで彼も殺されるのだろうが、何故か「敵」は彼に戦闘意志を確認してくる。
「たたかわないの? じゃあ…」
 彼は数瞬前、神に祈った時よりよほど強い気持ちで祈る。
「お客さんね!」
「え?」
 しばらく考え込むような素振りを見せた後で、「敵」は弾んだ声を上げた。右手に持った鉈から絶えず滴る赤い血で下生えを濡らしながら、にっこりと笑う。
 ダニエルにはどうして相手がそんな思考に到達するのかわからない。その思考の中では訪れる者たちは敵でなければみんな客人なのだろうか。先程まで殺しあっていた者の仲間でさえも。
「お客さんなら、家に行きましょう」
 そう言うと、「敵」は転がった修道士の死体を拾い集め始めた。持ちきれる分だけ細い両腕に抱えてすぐ側の傾きかけた小屋へと運び、何往復かする。ダニエルは何もできずにただそれを見つめていた。
「行こう、お客さん」
「あ、ああ」
 神よ、どうかこの愚かで臆病な僕をお許しください。そして哀れな彼らを救いたまえ。
 ただ一人の生き残りとなった修道士ダニエルは、倒すべき「敵」である少女に連れられて、彼女の住処へと招かれた。

 ◆◆◆◆◆

 一体、どうしてこんなことになったのだろうか。
 その日、二つ先の村にある修道院から四人の修道士がこの森を訪れたのには訳がある。ダニエルを含める少年から青年という年頃の若い修道士たちは、一週間ほど前に院長から話をされていた。
 西の森の“食人鬼”を退治せよ。
 ダニエルたちの住む修道院から村を二つ越えた森に、訪れる人々を喰い殺している人間がいるというのだ。
 人間が、人間を、喰い殺す。
 共食い。それはフェニカ教において最大級の禁忌だ。最もおぞましい行為とされている。
 周辺の村人たちに泣きつかれて、ついに教会が重い腰を上げることを決めた。派遣されたのがダニエルたち四人だ。森の奥深くにひっそりと隠れ住むように建てられた粗末な小屋に、食人鬼は住んでいる。それを始末して来いと。
 なのに何故こういうことになった。
「お客さん、どうぞ」
「あ、ああ」
 ダニエルは目の前で愛らしく小首を傾げて椅子を勧める少女を見た。
 殺せといわれた食人鬼の住処である。自分たちの敵であるところの住人はこの少女一人のようで、他には誰の姿も、家族らしき人がいる様子も見当たらない。
 少女のやわらかに波打つ金髪は絹糸のように淡く、瞳は晴れた日の早暁の色をしていた。容貌の整っていて美しい、まだ十五、六歳ほどの娘。だがこの容姿に騙されてはいけない。彼女は先程、ダニエルの同僚である修道士三人を恐るべき速さと正確さで屠ったのだ。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
 目の前に何か液体の入ったグラスが置かれる。いや、グラスと言っていいのかどうかわからない。飲み物を入れるのかスープを入れるのか、木の器の中で緑色の液体が揺れていた。
 ダニエルは慎重に辺りをうかがう。粗末な小屋の中。家と言うよりも本当に小屋だ。かろうじて流しだけは作られているようだが、浴室はなく、入り口から入ってすぐのここが玄関で居間で寝室で書斎だ。奥の方に少女の寝具らしき布の塊が見える。ダニエルが今ついているテーブルは小さくて朽ちかけた木で作られていた。
「ねえ、お客さん」
「え……な、何?」
「そのおめめと、左手の指はどうしたの?」
 尋ねられて、言葉が喉元でつかえる。指の数が足りない左手で左の瞼の辺りを探ると、あるはずのものがなかった。咄嗟に辺りを探すが、見当たらない。落としたのは、外か。
「これは……昔、いろいろあって……」
「ふぅん?」
 少女はそれ以上詮索せずに、くるりとダニエルに背を向けた。流しの方でカチャカチャと何かを用意しているような気配がする。ダニエルは目を伏せて、その音だけを聞いた。
「お客さん」
「え?」
「はい、どうぞ」
 少女が差し出した皿の上には、微かに人間の腕の原形を残した、生の肉が盛られている。
「ひ……!」
 ダニエルの目の前が真っ暗になった。

 ◆◆◆◆◆

 この世界で最も普及している宗教、フェニカ教。
 その昔、一人の少女がいた。幼い頃から不思議な力をその身に宿していた彼女は、多くの人を救った。彼女の指先が触れると、どんな重い病人も瞬く間に癒えた。どんなに深い傷口もあっと言う間に塞がった。
 そうして医者ですら匙を投げた病人や怪我人を治療しながら、少女は彼らに教えた。彼らを見守る神の話、天の御神は常に我ら人間を見守っておられる。我らは、愛されて生まれてきた。その教えこそがフェニカ教だ。
 だが、世に彼女の名が知れ渡って数年もしないうちに、聖女フェニカはロルイアを去ることになる。不治の病人や瀕死の重傷者を一瞬で癒すその力を、人々は恐れたのだ。
 そして聖女は斬首の刑に処せられた。
 上下に別れた聖書の、上巻の最後の一句が歌うように蘇ってきて、ダニエルはふとある日を思い出す。それは凍える冬の記憶だ。指先に触れた血の温もりだけが冷えた体にあたたかい。
 けれどそれを感じた左手の小指と薬指は、もうダニエルには残されていなかった。
 あの日、左目を抉られると同時に斬りおとされてしまったから。
 病気でできた膿や腫瘍、刃や棘が刺さってできる傷口。治療の第一歩はまず傷を悪化させる異物を取り除き、雑菌が入らないように消毒するところから始まる。それは病篤い者たちの治療に努めたという聖女フェニカの肖像と相まって、フェニカ教第一の教えとなっていた。
 悪いものは取り除かなければ。
 それは何も病巣に限ったことではないのだ、と説く声がする。この社会を乱し腐敗させる輩、忌まわしい異端者を葬り去らなければ。
 教会によって、フェニカ教の教えを妨げ邪悪な思想を広めようとする人々は異端者と判断され、かつてフェニカが処刑されたのと同じ方法で冥府の国へと送られる。
 その時、ダニエルはたまたま街を歩いていた。奉公先の主人から急な使いを頼まれて、裏道を通りながら急いで仕える屋敷へと帰るところだったのだ。幼かったダニエルは、あの日、広場で何が行われるかなんて知らなかった。
 そして彼は飛び出してきた先で、ちょうど教会が魔女と判断した女性の斬首を行う場面を見てしまった。
 その時の驚きや空気の匂い、叫び声などはもう薄れてしまったのに、首から溢れて宙を鮮血が舞った一瞬間だけはどうしても忘れられない。左目と左の指二本が血に濡れて生温かく、視界は鮮やかに赤かった。
 人々がやけに騒ぐ声がしていた。ああ、なんてことだ、汚れた罪人の血が子どもの上に。
 悪いものは取り除かなければ。
 周りの人々が口々に叫んで、ダニエルはそのまま刑務官に取り押さえられた。教会へと預けられ、厳しい顔をした司祭に説明される。
 いいかね。君の左の瞳と薬指と小指、これはあの魔女の血によって汚れてしまったんだ。親愛なる、幼きフェニカ教の徒よ。私の言いたいことがわかるかね?
 はい、司祭様。
 悪いものは取り除く。それがフェニカ教の教えだ。汚れは雪がなければ。
 そうして、血に濡れた左の瞳、左手の二本の指を、ダニエルは失ったのだ。