黄昏は手を繋いで

2.悩める修道士

 目が覚めてまず視界に映ったのは天井の木目だった。黒い染みは黴だろうか。ところどころに奇怪な紋様のように広がっている。
 そこまで考えてダニエルは飛び起きた。
 修道院の慣れた自室の天井は石造りだ。木目なんか見えるわけがない。
 ここはどこだと上体を起こして辺りを確かめようとする前に、手元の違和感に気づいた。手をついて身を起こしたダニエルの手は寝台に触れている。シーツの下はどうやら木の板ではなく、何か藁のようなものが敷かれていて、その上に布をかけているといった状態らしい。
 でこぼことした寝台から這い出しながら、改めてダニエルは自分のいる場所を確認する。歪み、雨染みのいくつもういた木の小屋は、彼にとっては覚えがない。それに寝台のすぐ横に据えられたこのテーブル……。
 そこまで考えて、ダニエルはようやく昨日の出来事をまざまざと思い出した。テーブルの木目に染み渡るようにして広がった赤茶色の染みがそれを彼に思い出させたのだ。皿から零れ、乾いた血の色だ。
「僕は――」
 ざっと頬から爪先まで血の落ちる気配を感じながら、焦った様子でダニエルは小屋の入り口であり出口でもある扉を開ける。眩しすぎて金色に感じる陽光が差し込んで目を細めた。夜明けの光はいつも変わらずに美しいが、それを心に留められるかどうかは見る者の状況によって決まる。ダニエルは現在、陽光の美しさも目に入らないほど焦っていた。
「お客さん、起きた?」
 弾んだ声がその焦燥に拍車をかけ、ダニエルは路地裏で猫に出くわした鼠のように飛びあがる。澄みきった明るい声音は、昨夜の食人鬼のものに違いない。ダニエルは振り返って息を飲む。
「どうしたの?」
 少女が声をかけるまで、ダニエルはその場でぼんやりとした顔を彼女に向けていた。
 今のダニエルに、曙光の美しさは目に入らない。だが、金環を背負って立つ長い金髪に夜明けの菫色の瞳をした少女が、暁の女神のように美しいことだけはわかる。
「お客さん?」
「あ、ああ」
 少女が再び首を横に倒してダニエルへと一歩近付いたことで、ようやく我に帰る。疑問符を浮かべてこちらへと歩み寄る様子を見せた少女は、その手に何か握っている。それが昨日、無慈悲にも仲間たちの上へと振り下ろされた鉈を思い出させた。
「う……」
「う?」
「うわぁあああ!!」

 ◆◆◆◆◆

 シェヘラ修道院はロイスの街外れにある。そして食人鬼の住むミスコの森から小さな村を二つ越えたその町に、その建物はあった。フェニカ教の教えを学び、決まりを守り、人に尽くす。それが一般的なフェニカの修道院だったが、シェヘラ修道院では、いずれは神父として世に出てフェニカの教えを広める者を養成する教習所の役目も兼ねていた。そのため、通常の院よりもいくらか広めの敷地を持ち、規模も大きい。お目付け役として司教も幾人か常に滞在している。
 ダニエルが自らの所属する修道院に帰ってきたのは、食人鬼退治へと送り出されて二日後のことだった。修道院から森までは、普通に歩いても一日でつく。
「あの……院長様は」
「……礼拝堂に」
 なかなかダニエルとは話したがらない若者の中から一人の腕を無理矢理つかまえて、ダニエルは院の最高責任者の所在を聞きだす。聞くなり、礼も言わずマナーも守らず廊下を駆け出した。足は疲れていたが、それよりも恐怖の方が強かった。
 中庭を眺める回廊は夕暮れの光に照らされて赤い。朝から二つの村を越えるために駈けずり、今はまた、仲間を失ったあの時と同じ黄昏の時間になっている。
 礼拝堂の扉をつい乱暴に開けてしまうと、中から厳格な老人の諫める声がした。
「誰だ、騒がしい――おや」
「ガスパール院長……」
「ダニエルではないか。どうしたんだ、その格好は? 左目を隠しなさい。他の三人は?」
 院長に言われてようやく自分がいつもつけている眼帯を失くしたことを思い出したダニエルは、咄嗟に空洞である左の眼窩を手で隠しながら、森であったことを告げた。ガスパールがみるみる顔色を失っていく。
「何ということだ……フェニカよ、アルマン、モーリス、ニコ、彼らの魂に神の御手を導きたまえ」
 食人鬼を討とうとして返り討ちとなった三人の青年の名を込めた冥福の祈りを、一人生き残ったダニエルはやるせない、申し訳ない気持ちで聞く。
 ダニエルが生き残ったのは彼が三人より優れていたからではないのだ。むしろ彼らよりずっと臆病であった故に、剣を相手に向けることができなかったことで敵として認識されなかったという、ただそれだけに過ぎない。それも敵があの少女食人鬼という極めて特殊な相手でなかったら通用するはずもない、意外な成り行きだった。
「ダニエルよ、だがお前だけでも生き残ってよかった」
「院長様……」
 自分には不相応なほどの暖かい言葉に、思わずダニエルの右目が潤む。
「今日はもう休みなさい。後のことは明日また話し合おう。呼んだら今度は院長室の方へ来なさい」
「は……はい」
 命からがら逃げ出してきた、けれどダニエルの悪夢はまだ終わっていないのだ。

 ◆◆◆◆◆

 眼帯を失くしてしまったので、部屋に辿り着くまでは俯きがちにダニエルは廊下を歩いた。風が通り抜ける吹き抜けの回廊も、夜となっては薄暗く恐ろしい。手燭の灯りが風で揺れて消えそうに細くなるたびに、ダニエルは不安になる。
「よぉ、ダニエル。帰ってきたんだってな」
「ヴィクトル」
 コツコツと石床を踏む足音に気づいて前方を見れば、修道院での数少ないダニエルの友人、ヴィクトルがこちらへ向って歩いてきていた。特に用事はなかったのか、そのままダニエルについて、来た廊下を戻りだす。
「アレ? お前眼帯どうした?」
「……失くした」
「なんだそうか。じゃ、俺の部屋に余った布があるから、後で取りに来いよ」
「ありがとう」
 ヴィクトルとダニエルは同じ十七歳で、実家が近く修道院に入る前からお互い顔見知りだ。家庭が貧しいためどちらも今は修道院に入れられたが、子どもの頃はよく一緒に遊んだ記憶があり、それ故にヴィクトルは今でもダニエルの友人でいてくれている。
 修道院の中でも、左の瞳と指二本を失ったダニエルを敬遠する人間は少なくない。むしろ、多い。ダニエルは一度罪人の汚れの血を受けた人間だからと言うのがその理由だが、直接汚れを受けた瞳と指を排除することで、その汚れは浄化されたはずではなかったのか。
 ダニエルとまともに接してくれるのは、ヴィクトルとガスパールだけだ。
 石床の廊下を並んで歩きながら、ヴィクトルが思い出したように告げた。
「そうそう、司教がお前を呼んでたぞ」
「……バティスト卿が?」
 その名はこの修道院にいる司教の一人の名だが、ダニエルはバティストが苦手だった。
「ヴィクトル、一緒に司教室に――」
「悪い、俺はこれから食事の片付け当番だ」
 頼みの綱であるヴィクトルはすまなそうに眉を歪めて、ダニエルの申し出を断った。仕方なく、ダニエルは彼と途中の廊下で別れ、司教の部屋へと一人で足を向ける。
「バティスト司教様、ダニエル、入ります」
「……ああ、君か」
 部屋の中から、常に得体の知れない微笑を浮かべている男の声がした。バティストはダニエルの姿を認めると、本棚を整理する手を止めて歩み寄ってくる。ダニエルの肩を軽く叩き、にこりというよりはにやりと言った方が正しい様子で口の端を吊り上げた。
「災難だったそうじゃないか」
「情報が早いですね」
「栄誉ある魔物退治の指令を受けて院を発った勇者たちの一人が、血相を変えて飛び込んできたんだ。ガスパール大司教の部屋の扉の前で聞き耳を立てる者が、全くいないと思うのかい?」
 言いながら、バティストは親指でダニエルの顎をくいと持ち上げる。顔の距離が近付くのに悪寒を覚え、ダニエルは思わず彼を突き飛ばし、壁際に寄った。バティストが舌打ちする。
「その様子では他の三人は死んだようだね」
「……ええ。相手は恐ろしく強くて……」
「無事に生還した喜びを表現したくはないかい?」
「司教の企んでいるような方法は御免です」
 壁際に避難したことで再び今度は逃げられないよう彼の胸と冷たい石壁に挟まれる形になったダニエルは、バティストの視線から顔を背けながら言った。性悪な司教はヤモリのように壁に張り付いた青年を見下ろしながら、意地悪くくすくすと笑う。
 シェヘラ修道院で、ダニエルを恐れも敬遠も忌避もしない人物が三人いる。友人であるヴィクトルに、院長であるガスパール、そして狂人だと言われるこのバティストの三人だ。しかし前者と後者のそれには、天と地ほどの差があった。バティストは何故かダニエルを気に入っているらしく、ことあるごとにつまらないちょっかいをかけてくれる。
「ああ、そんな風に眉をしかめないでおくれ。美しい顔が台無しになるではないか」
「しかめたくもなります……って、誰が美しい顔ですか! 伯爵」
 ダニエルはバティストを修道士、フェニカ教徒としての位ではなく、俗世での位で呼んだ。そしてこれが、彼がどれだけ奇人変人であろうとも破門されることのない理由である。
 リベカ伯爵バティスト卿は、司教でありながら爵位を持つ貴族の一人だった。そのために教会内には、ほとんど彼を咎めることのできるものはいない。フェニカ教では、どんな職業のものも一定の修行を治めれば司祭や司教の位を得ることができる。だがダニエルは、どうしてこのバティスト卿がわざわざ司教になったのか理解できない。
 頬に触れてくる鬱陶しい手を振り払いながら右目だけでキッと睨みつけた。フェニカ教は同性愛を禁じている。しかしバティストのダニエルへの態度やべたべたと気安く触れてくるような行為はそういった意味を多かれ少なかれ含むのではないかと院中に目されて、ダニエルは迷惑しているのだ。その疑惑さえバティストの伯爵という身分によってもみ消されるのだと思うと、余計に腹立たしくなる。
 聖女フェニカの教えはダニエルにとって、何よりも尊いものだ。それを、司教でありながら軽んじるような態度のバティストはダニエルにとって最も許しがたい人間だった。
「ま、無駄話はこれぐらいにしよう。……君も疲れていることだろうし。死んだ三人の弔いをしなければならない。亡骸は? 君一人で連れて帰ることはできなかっただろう?」
 その言葉に、ダニエルは自分が目の当たりにした恐怖を克明に思い出した。白い皿を赤く染めた血まみれの肉塊。
「……ました」
「ん?」
「食べ、られ、ました……アルマンたちの遺体は、あの少女が……」
「少女?」
 言葉にして吐き出さないと今にも泣き出してしまいそうで、ダニエルは震えながらバティストに自分が見たものを話した。声を上げる暇もなく一瞬で屠られた三人の同士と、悪夢のような強さを備えた、あの外見だけは可憐な食人鬼の少女のことを。
 床に崩折れそうになったダニエルを抱きとめながら、全てを聞き終わったバティストが難しい顔をする。
「少女姿の食人鬼か……」