黄昏は手を繋いで

4.無垢なる魔物

 翌日、退治は無理だろうからとにかく生きてできる限り多くの情報を持ち帰るようにと改めて指令を受けて、ダニエルは再び食人鬼の住むミスコの森へと向った。
 魔物と呼ばれるその者の住居は森の最奥にあり、奥へ奥へと進んで行く内にダニエルが道を間違えたのではないかと不安になる頃になって、ようやくその小屋は姿を現した。鬱蒼と生い茂る木々の葉がそこだけ途切れて明るい点の光を届け、浅葱色の下生えを照らしている。
 入り口の外には、やはり先日と同じように、あの少女がいた。洗濯物を干そうというのか、腕にくすんだ色の布をかけ、二本の細い柱の間に張られた糸の上へと広げていく。何が楽しいのかいつも綻んでいる口元が、作業の途中で彼の姿を見つけてぱっと満開の笑顔になった。
「お客さんだ!」
 濡れた服を足元の籠の中へと放り出して、彼女はダニエルに駆け寄ってきた。食人鬼との再会に竦みそうになるのをこらえながら、ダニエルは必死で呼吸を整え、彼女の眼前に立った。
「どうしたの? また来たの?」
 少女姿の食人鬼は相変わらず幼児のような口調で、無邪気に彼に尋ねてくる。ダニエルはぎこちなく頷くのが精一杯だったが、それで彼女には十分らしく、何がそんなに嬉しいのか、にっこりする。
「お客さん、いらっしゃい」
「あ、ああ……その」
 鉈を握っていない今は平凡で無害な普通の少女だと何度も自分に言い聞かせながら、ダニエルはともかくもこの少女に警戒心を与えぬよう取り入ることへと苦心する。
「その……君の――僕はダニエルと言うんだけど、君の名前は?」
 言ってしまった後で本名を素直に教えてしまったのは間違いかと後悔しながら、ダニエルは聞いた。少女が薔薇色の唇を開いて答える。
「シュザンヌ」
「シュザンヌ……?」
 普通に名乗られて、尋ねておきながらダニエルは困惑する。食人鬼に、人を喰らう化物に、人並みの名前があるだなんて自分でも思ってみなかったのだ。
「えっと……あの、その……」
 もともと社交的とは言いがたいダニエルは、緊張と焦燥で立っているのもやっとであり、それ以上言葉を続けられなかった。何とかこの少女、シュザンヌに取り入らねばならないのに、どうしたらいいのかわからない。だが、その辺りの都合はシュザンヌ本人が解決してくれた。
「お客さん、どうぞ」
 こちらが驚くほど無防備に彼女は小屋の扉を開けてみせる。今の彼女は武器となるようなものを持っておらず、駆け込んで鉈や刃物を奪い、力尽くで押さえ込めばダニエルにも勝てるかも知れなかった。
 けれど彼には、何故かそれができなかった。
「……お邪魔します」
 何の疑いもかけられることなく、促されるままに、ダニエルは食人鬼の住処へと再び足を踏み入れた。そうしてダニエルは戸惑う。
 ここまでは順調にいったが、ここからどうするのかということが、彼の頭の中には全く計画されていなかった。もともと口下手で、婚約者のリゼットをよく怒らせているような男だ。食人鬼とはいえ、見知らぬ少女と二人きりで、何を話していいのかさっぱりわからない。彼の任務は少女に取り入りその情報を持ち帰ることだというのに。
 シュザンヌはダニエルの思惑など全く知らない、それ以前に彼の行動など気にもしない様子で、ぱたぱたと動き回っている。一応ダニエルを椅子に座らせてからは、再び外に出た。立ち上がって開け放してある扉に近寄って見えたものは、洗濯物を干している少女の姿だった。
 波打つ見事な金髪はけれど伸ばし放題で、鳥の巣のようにくしゃくしゃだった。
 空になった桶を抱えてこちらへと戻ってくるシュザンヌを見て、ダニエルは慌てて席に着いた。がたがたと椅子を鳴らす彼に視線を向けて、彼女はきょとんと首を傾げたがすぐにいつもの笑顔に戻って、流しへと向った。
 こうして見ていると、本当にただの女の子にしか見えない。
 明るい日の光の下だから、武器を持っていないから、返り血に濡れていないから。だから、だろうか。彼女は修道院の仲間を三人も殺したのに。
 シュザンヌにとって外界の常識とはどれだけ意味のあるものなのだろうか、ダニエルをお客さんと呼びながら彼女は特にもてなすということもなく、微笑を浮かべたまま狭い小屋の中を動き回っている。部屋の隅の藁に布をかけただけの寝台を整え、水を汲んである桶を流しの上へと運んでいる。付近に井戸は見当たらないから、どこか小川からでも汲んできていたのだろう。
 こんな辺鄙どころでない森の奥で、彼女はどうやって生活しているのだろうか。食べ物だって小動物や野草しかないようなこんな場所で。
 そこまで考えてふとダニエルはそこに気がついた。
 この少女にとっては、人間は鹿や兎やその他の動物と同じく、生きていくために殺して喰う以上の意味はないのではないかと。
「あ、あの……鉈、とか斧とか、ある?」
「なた? あっちにあるよ」
 考え込んでいる自分に気づき、ダニエルは慌てて顔を上げ、視界の隅でごそごそやっていたシュザンヌに話しかけた。布きれを手にしていたシュザンヌは、立ち上がって寝床の壁を指す。恐らくはその壁の裏、小屋の外でもあるという意味なのだろう。
 ダニエルは何とか彼女に怪しまれないまま、ここで数日情報収集せねばならない。そのためにはまず、自らの身を守ることが先決だ。武器をこちらの手にしておくことが必要だろうと考える。
「お客さん、どうしたの?」
「薪割りでもしようかと思って」
 咄嗟についた嘘だったが、これは功を奏した。ダニエルがそう口にした途端、シュザンヌが顔を輝かせた。
「お客さん、手伝ってくれるの?」
 期待に目をキラキラさせて小首を傾げる様は、年齢以上に幼くて愛らしい。疑いもなく彼を見つめる瞳に、ダニエルは小さな罪悪感を覚える。
「ああ。外で、いいのかな?」
「うん。あのね、木と斧はね、向こうにあるの」
 再び同じ壁の向こうを飛び跳ねながら指差すシュザンヌを小屋の中に残して、ダニエルは外へと出る。言われたとおりに小屋の裏手へ回ると、粗末な薪割り場があった。
 ふと小屋の中の流しやかまどの様子を思い返し、薪割り場を観察しダニエルは疑問を覚える。
 これらの小屋は一体誰が作ったのか。
 中の流しとかまどはもちろん、この薪割り場も急ごしらえのような作りではあるが、決してでたらめではない。それなりにしっかりとした作りで、最初から住むことが目的だったのだと思われる。けれど、あのシュザンヌにこの小屋、このかまどや薪割り場が作れるものだろうか。先程だって洗濯した衣服を干そうとして何度も取り落としていたくらいなのに?
 もしや以前、彼女と一緒に住んでいた誰か別の人間がいるのではないか。

 ◆◆◆◆◆

 当然のことだが夜は眠れなかった。
 うっかり背中を見せれば殺されるのではないかと、か弱い小動物のようにダニエルはその晩をどう過ごせばいいのかと頭を悩ませた。よくよく考えれば食人鬼の実態を調査して報告しろと言われたからといって、直接会う必要はないのではないかと気づいたのはこの時だ。木々の多い森で二晩三晩野宿を続けて、遠目に動向を確認すればいいのではないか、そうでなければ、夜だけはこの小屋を出て別の場所で眠るとか。
 だが、そのどちらもダニエルは結局実行することができなかった。シュザンヌの就寝は規則正しく健康的な生活を奨励する修道院に負けず劣らず早いもので、日が暮れて野兎と野草の夕食をとってすぐに彼女は眠たげに小さく欠伸をした。
 そういえばこの家には、灯りの役目を果たす蝋燭もカンテラもない。奥深い森で獣たちと同じように日々を暮らしている彼女の生活は、日の出に始まり日の入りに終わるようだった。ダニエルが初めてシュザンヌに会い、死体を目の前にして気絶して起きたあの朝も、まだ明けて間もない払暁の空だった。彼女の菫色の瞳は、紫に白む空に似て。
 だが回想は長くは続かない。シュザンヌは小屋の隅に据えられた木箱からくすんだ色の毛布を一枚新たに取り出すと、それをダニエルに渡してにっこり笑った。
「お客さん、ねよう」
「寝るって、僕は……」
「ベッド、向こうなの」
 そのまま腕を取られて、ダニエルは少女と共に藁に布をかけた寝台へと倒れこむ。
「おやすみ」
 至近距離でシュザンヌの美しい顔を眺めると、彼女は暁色の瞳を細めて穏やかに言った。
 そしてそのまま健やかな寝息を立て始める。
「って――嘘っ、早……」
 あまりのことにダニエルは一瞬意味が理解できず、驚いて身を起こそうとした。しかし緩く絡められたシュザンヌの腕が、彼の体を引っ張る。仕方なくダニエルはずるずると壁に背を持たれた。
「凄い娘だな……」
 固い木の壁に背をつきながら、柔らかな少女の肌を腕の辺りに感じる。呆気にとられて子どものように天下泰平な寝顔を眺めれば、ずきりと胸が痛んだ。
 人間は寝ている時に一番無防備な姿を見せる。だから寝姿を晒したり寝所を共にしたりするのは、よっぽど親しい人間相手でなければ普通はしない。それもこんな若い娘が。
 もう十五、六歳にはなっているだろうに、何故か物心ついてまもない幼児のように幼く未発達な印象を与える食人鬼の少女、シュザンヌ。彼女は「客」だとダニエルを信じきっている。
 ダニエルは彼女に習い、寝台へと身を横たえた。擦り切れてごわごわとした粗末な毛布。藁にシーツを掛けただけの寝台。はっきり言って寝心地は良くない。けれどすぐそばにある、人肌の温もりはあまりにも懐かしく、かつて家族で暮らしていた頃を思い出して泣きたくなる。なのにダニエルが今こうしているのは、この温もりを彼女から奪うためなのだ。
 この少女を殺すためだ。
 彼女はダニエルの同胞たちを殺した食人鬼なのだ。
「どうして……」
 ふと口をついて出た言葉を、誰に向けたものなのかダニエルは自分でもわからなかった。彼の腕の中で安心して眠る食人鬼の少女シュザンヌか、それとも。