黄昏は手を繋いで

5.祈りと痛み

 暁の空は菫色をしている。
 それにダニエルが気づいたのは、修道院に入ってからだった。十一歳の時に彼は左目と左の指二本を失った。その彼を、雇い主が気味悪がって修道院に送ったのだ。
 罪人の汚れた血を受ければ、その者も汚れる。血の触れた部分を切り落とし抉ったのだからもう今のダニエルに汚れは残っていない。そのはずなのに、世間は彼を避ける。
 修道院でもそれは変わらなかった。けれど孤独に負けそうになる彼を救ったのは、他でもないフェニカの教えだ。
 元々フェニカ教に対する信仰の強かったダニエルの信仰心は、修道院に入ってますます強まった。希望を持つには暗く絶望するには生ぬるい中途半端な貧しさと、両親が敬虔な信徒であったことが影響しているのだと思う。素行不良で更正のために院に入れられた少年たちとは比べ物にならないくらい、ダニエルの信仰心は強かった。
 規模も大きいが人数も多いシェヘラ修道院では、個室は基本的に与えられない。それは院長やバティスト卿のような一握りの人間にだけ与えられた特権だ。だが、ダニエルは小さいが個室を与えられている。彼と同室になりたがる者が一人もいなかったからだ。先に修道院に入っていたヴィクトルはすでに他の少年たちと同室で暮らしていた。
 失った左目と指はそのままダニエルの欠落となった。あの日、何かを失くした。そしてそれ故に、ダニエルは人の輪に入っていけない。どこにも居場所がないような気がした。
 一晩中決して寝ないつもりだったのに、やはり睡魔には勝てず、いつの間にか寝入ってしまったらしい。夢から醒めて、ダニエルは薄っすらと目を開けた。少し肌寒く感じるのは何故だろうと寝ぼけた頭で考え、粗末な木の天上を見てようやくその理由に思い当たる。
 腕の中で眠っていたシュザンヌがいない。
「シュザンヌ!?」
 慌てて起き上がり、小屋の扉を乱暴に開けた。木造の戸は軋み、耳障りな音を立てるが構ってはいられない。だがダニエルには、自分が何故こうも焦っているのか自身でも理解できなかった。
「お客さん?」
 シュザンヌは外にいた。相変わらずくすんだ色の服を着て、鳥の巣のようにぼさぼさの頭で、それでも綺麗だ。暁の陽光を背にして立っている彼女は、かつての世に現れ出でた聖女のように見えた。
「起きたの? ……どうかしたの?」
 ダニエルの剣幕に驚いた様子で、彼女は大きな瞳を二度三度と瞬かせる。その手に握られているものを見て、ダニエルは目を瞠った。
「それ、フェニカ教の」
「じゅうじか?」
 シュザンヌが無造作に右手に持っていたのは、間違いなく見慣れたフェニカ教の十字架だった。赤毛だったというフェニカの髪の色に合わせて銅色の金属で作られた十字架は、陽光を受けて輝いている。修道士であるダニエルには見慣れたものだ。だがどうして、彼女が。
「何、してたの、今」
 不躾だとは思いながらもダニエルは彼女の全身を見回して言った。シュザンヌは無言のままに、森の一角を指差す。彼女の示す先には幾つもの木の杭が立てられていた。その内のいくつかはまだ新しい。
「おはか」
「墓?」
「今までたべたどうぶつたちの」
 シュザンヌは小屋の中に戻り、流しへと置いてあった盥の一つを持ってきた。その中には昨日の夕食であった野兎の骨が入っている。彼女は殺した生き物の体の何一つ無駄にせず、内臓まで綺麗に平らげた。後には黄ばんでところどころ黒い染みの残った骨だけが残され、それが今埋められようとしている。
「これ、今まで食べた生き物全部の?」
「うん」
 ダニエルは比較的新しい杭の幾つかを見ながら尋ねた。この中のどれかの下には、ダニエルの同僚であった三人の修道士のものもあるのだろう。
「……して」
「お客さん」
「どうして、君は――人間を喰らうの?」
 朝焼けはいつも美しい。この光は、ダニエルにとって希望の光だ。だが今は美しすぎて、切なくなる。
 シュザンヌは土を掘り指先を黒く染めながら、野兎の骨を埋めていく。
「ときどき来るこわい人たちは、なんだかこわいこと言って、こわいことするからたおすの。たおしたからたべるの」
「だって、相手は同じ人間なんだよ?」
「にんげん? どうして……? にんげんはたべちゃいけないの?」
「え?」
「にんげんはたべちゃいけないの?」
 どうして食べてはいけないの?
 人間だけは。
「うさぎとか、とりとかはたべていいの? なんでにんげんはだめなの?」
「それは……」
 フェニカ教で禁じられているから――駄目だ、答えになっていない。十字架を持っているからといって、シュザンヌがフェニカ教徒だとは思えない。人が人を食すこと、それは最大の禁忌で忌むべきこと。だがどうしてそうなのだろう。ただ殺すより殺して喰らうことのほうが罪悪視されるのはどうして。
 こんなにも真っ直ぐに問われてしまうと、ダニエルは答えを見つけられない。人が人を殺すことは、罪悪だ。だがフェニカ教では異端者を審問にかけてから処刑している。殺人がそうやって許容されているのに、どうして食人は理由の如何を問わず全てが禁忌とされているのだろう。
「天のかみさま、お救いください」
 十字架をおざなりに握り締め、両手を合わせてシュザンヌが祈る。ダニエルは立ち尽くしていた。院では日課となっている朝の祈りの祈祷文の欠片すら、頭に浮かんでこなかった。
 何故人間は食べてはいけないのか。殺してはいけないのか。兎や鳥はいいのに。牛や馬は殺して食べてもいいのに。
 命は平等なんかじゃない。
 今初めて、そのことを思う。

 ◆◆◆◆◆

 また来る、と告げてダニエルは森を後にした。無事に情報収集ができそうだったら、とにかく一度は帰って首尾を報告しろと言われていた。朝の問の名残はダニエルの胸にしこりとなって残り、そればかりを考えながら彼はシェヘラ修道院に戻った。
 夜遅く、ダニエルは院長室でガスパールと顔を合わせた。
「それでは、例の化物はお前を信用していると」
「はい……」
「では、再び調査を続けてくれ」
「わかりました」
 ガスパールとの面談は簡潔に終わった。今回も前回も、ダニエルには目に見えて危害を加えられたことはない。事情を詳しく説明すると、ガスパールは訝りながらも一応は納得する様子で、引き続きダニエルに彼女を見張るように命じた。
「不安なら何人か人員を増やすか?」
「いえ……そうするとまた、向こうが警戒して斬りかかってくるやもしれません」
「そうか。ならばこの件は君に預けるが、くれぐれも気をつけるがいい。一ヵ月後にはリゼットと結婚するということを考えてもな」
 ガスパールに言われて、ダニエルはそこで初めてリゼットのことを思い出した。彼は食人鬼の調査のためにミスコの森へと赴いている間、一度も自分が彼女のことを考えなかったことに気づく。それだけ緊張していたのだろうとダニエルは考えた。
「はい。心がけます。それでは失礼します」
「ああ」
 一礼して、ダニエルは院長室を後にした。夜の廊下は暗く、燭台を片手に身長に廊下を歩いていく。自分の部屋へ辿り着くと、寝台の硬さと冷たさを思って知らず溜め息を零していた。人肌の温もりを一夜とさえ味わった後だから、余計に胸が軋む。野宿の時は気を張り詰めているからあまり気にならないが、こうして落ち着いて眠れる場所では一層孤独が、冬の雨露のごとく身に染みる。
「やあ、お帰り」
 だが一瞬にして、ダニエルはいっそその方がよかったと考え直した。
「バティスト伯爵!?」
「そう。私だよ」
「僕の部屋で一体何やってるんですか!?」
 心臓が口から飛び出すかと思うほど驚いたダニエルは、腰を抜かしたまま乱暴に問いかける。最後の理性と根性で、右手の燭台だけは倒さない。
「君の報告を、ガスパール公爵を通さずに君の口から直接聞きたいと思ってね。さ、遠慮せずにここにおいで」
「……ここは僕に与えられた部屋です。それになんでベッドの隣じゃなく、膝の上を叩くんですか?」
 まさかそこに座れとでも? ダニエルがきつく睨み付けると、バティストはやれやれといった様子で腰を上げ、ダニエルの座る場所を作った。やれやれと言いたいのはこちらだ。
 小さな個室は寝台だけでいっぱいであり、他に座れるのは書き物机についている古い椅子ぐらいのものだったが、ダニエルはバティストの隣に空けられた場所へと素直に腰を下ろした。寝台は窓際に置かれていて、青白い月光が差していた。話をするだけなら暗いままでも構わないだろうと、バティストはさっさと手燭の火を消す。
 いくら月明かりがあるとはいえ、お互いの表情などはもう闇に沈んでしまって全く見えない。
「それで? 食人鬼はどんな様子だった?」
「どうって……いつも通りでしたよ。森の中で小さな小屋で、普通の人間のように生活していました」
 水を汲み、皿を洗って、洗濯をして。
 朝には、自分が今までに食い殺した生き物たちへの祈りをあげていた。
「そうか。それは難しい問題だ。変わった食人鬼だな」
 ダニエルはバティストに、シュザンヌから問いかけられたあの質問を向けた。
 何故人間だけは食べてはいけないのか。
「僕は、彼女に答えられませんでした。フェニカ教を信じるなら、そんなことはいけないって言わなければならないのに。どうしてもできませんでした」
 自分でも考え込んでしまった。あれほどに信じていた聖女の教えを、一瞬でも疑った。
「疑うのは別に悪いことではないさ」
「でも」
「何もかも誰かに言われるまま従い、自分の頭で考えることを放棄したらその時こそ人間は破滅するね」
「伯爵」
「ダニエル、君はフェニカ経典がどこまで正しいと思っている?」
「え?」
 聖なる書物なのだから、その全ては真実に決まっているではないか。何を言い出すのだろうこの人は。ダニエルはそんな目でバティストを見た。暗闇で、月光がなぞる彼の輪郭しかダニエルにはわからない。だが隣にいる彼の気配から、ダニエルはいつものあの薄笑いを連想することはできなかった。彼が今とても真剣な顔をしているのではないかと思った。
「バティスト卿」
「いいかね? ダニエル・クローツ。この世にはね、尊いものなど何一つないんだよ」
「伯爵!」
「経典は人の手で作られたものだ。間違いや解釈の違いなど幾らでも出てくる。……聖女フェニカが神秘の力で病人を癒したって? 違うね。真実はこうだ。彼女は優秀な医者だったんだよ」
 バティストの言葉は、あまりにも唐突で乱暴にダニエルには思えた。神秘の力など、尊いものなど何もない? それではフェニカの教えは、聖なる経典は、この修道院や司祭たちは一体何のためにあるのか。
「本当だよ。この世は何もかも全部嘘っぱちなんだ。このフェニカ教すらね」
「それ以上フェニカ様を侮辱することは、例え天の御神が許してもこの僕が許しません」
 暗闇越しでも怒気は伝わったらしく、バティストが肩を竦める気配がした。
「やれやれ。君は若いね。それはそれでいいんだが、修道士としては少し立派過ぎるね」
「何が言いたいんです?」
 ダニエルはバティストが影で狂人と言われているのを知っていた。そんな人物の言うことをまともにとりあってはいけないということも。それでも、どうしてもフェニカへの侮辱だけは許せなかった。
「別に私は聖女フェニカの意志を疑うわけではないよ」
「けど」
「君にも、いずれわかる」
 言って、バティストは寝台から腰を上げる。取っ手に手をかけたところで、くるりとまたダニエルのほうを向いた。
「ところで、その食人鬼は確かにフェニカ教の十字架を持っていたんだね」
「ええ、はい、そうですけど?」
「わかった。ありがとう。では、私はこれで失礼するよ」
 ダニエルに戸惑いと不愉快をたっぷり植え付けて、バティストは部屋を去った。