黄昏は手を繋いで

6.剥落する日常

 次の日、ダニエルは再びリゼットに呼び出されて中庭へと赴いた。
 今日はこれまでに溜まった仕事や、出かけている間にできなかった諸々のことなどを手がけて忙しかった。リゼットが彼に会いに来たと知らされたのはちょうどダニエルが副司祭から用事を言いつけられた後で、それが終わるまで待っていてほしいと彼女に頼んでいた。
 もう大分時間が経ってしまった。待たせてしまったかと不安になりながら中庭へと向うと、桃色の薔薇の向こうに見慣れた赤毛が見つかる。
「リゼ――」
 婚約者に声をかけようとしたダニエルは、その時彼女が一人ではないことに気づいた。リゼットの向こう側に誰かいる。あれも見慣れた茶髪だ。
「ヴィクトル……」
 幼馴染の青年の名を、呆然と呟く。二人は話に夢中で、ダニエルの姿にはまだ気づいていない。薔薇の植え込み一つ分向こうから、ダニエルは聞きたくもない話し声を拾う。
「どうしてもいけませんか?」
「だから何度も申し上げているはずです、わたくしは……」
「それでも、俺はあなたを愛しているのです。ずっと、初めてあなたを見たときからずっと――」
 ダニエルは、親友が自分の婚約者に恋をしているなど全く知らなかった。考えてみたことすらなかった。
 動揺のあまり一歩後に下がると、足元の声だがパキリと音を立てて折れた。それはちょうど話の切れ目だったので、ヴィクトルとリゼットもようやく間近のダニエルの姿に気づく。
 リゼットがパッと顔を赤らめ、ダニエルから視線をそらした。一方ヴィクトルは、戸惑うダニエルの視線を真っ向から受けとめてそらさない。その榛色の瞳に、初めてダニエルは彼の自分への憎悪を見た。
 ダニエルは茫然自失の体で、そのまま一言も二人にかけず、中庭を立ち去った。
 背後からリゼットの声が何度も彼の名を呼んでいたが、振り返ろうとはしなかった。
 知らなかった。知らなかった。彼が、彼女を愛しているなんて僕は知らなかった。
 ダニエルは二人の密会に酷く衝撃を受けた。だが、自分が何に一番驚いているのかわからない。これが悲しいことかどうかすら、わからなかった。
 リゼットは院長ガスパールの娘で、公爵令嬢で、来月にはダニエルと結婚する予定の婚約者だ。それはもう何年も前から決まっていたことで、修道院中が知っている事実だ。
 だがダニエルは、自分がリゼットを好ましくこそ思っているものの、彼女に恋人としての好意までは抱いていなかった。彼女はとても素敵な女性だから、結婚すればきっと幸せな家庭が築ける。けれど、世間で言うように、炎のごとき情熱で彼女を愛したことはない。
 ダニエルを敵視するヴィクトルの瞳には、それがあった。中途半端な好意で彼女と結婚しようとしている自分が恥ずかしく、自分を憎むヴィクトルの眼が恐ろしくて、ダニエルは自分がどうするべきなのかわからなかった。
 自分は本当にリゼットと結婚してもいいのだろうか。彼女の方はどう思っているのだろう。隻眼で左の薬指と小指を切り落とされた汚れを受けた人間であるダニエルと、賢く強く、誰から見ても好青年であるヴィクトルとでは、始めから勝負になんかならないのに。
 その後、ヴィクトルともリゼットとも言葉を交わさず、その日の夜のうちに、ダニエルは再び食人鬼の森へと向けて旅立った。

 ◆◆◆◆◆

 森は相変わらず鬱蒼として暗く、ぎざぎざの葉にひっかかれて指先に小さな傷を作った。栗鼠や野兎が、滅多に来ない人間の姿を認めて怯えたように逃げていく。近頃姿を見かけることの多くなったこの季節の虫たちが、頭の上を飛び交っている。視界をふさぐ蜘蛛の巣の脆い檻。
「あ、お客さんまた来た。いらっしゃい」
 先日ダニエルが割った分では足りなかったらしく、小屋の前の広い場所で薪割りに精を出していたシュザンヌが彼の姿を認めて嬉しそうに笑った。右手には、彼女のように華奢な少女には似合わない、無骨な斧が握られている。あれで一撃すれば今のダニエルなら簡単に殺せるだろう。
 けれど彼女はそうしなかった。右手の斧を足元に置くと、編み上げサンダルで下生えを踏んで、真っ直ぐ彼の元へ駆け寄ってくる。
「お客さん」
「お客さん、じゃない」
 シュザンヌはきょとんと目を丸くした。
「ダニエル……僕は、ダニエルだよ」
 先日一度だけ名乗った名前を再び繰り返して見せると、シュザンヌは幾度か口の中で彼の名を呟いて、しっかり覚えようとするようだった。
「ダニエル」
 にっこり笑って彼女がそう、自分の名前を呼んだとき、ダニエルは初めてここ数日の心の憂いを取り除かれた気がした。自然の中で、野草を採取し獣を狩り、火を焚き水を汲んでただ生きるだけのこの少女がむしょうに羨ましかった。
「ダニエル……どうしたの?」
 項垂れた彼をシュザンヌが不思議そうに覗き込む。ダニエルは顔を上げて、その視線に答えた。無理をして笑顔を作ると、言った。
「薪割り、手伝うよ」

 ◆◆◆◆◆

 シュザンヌと二人で、森の奥で過ごしている数日は、ここ何年もダニエルが感じたことのないような穏やかな日々だった。
 シュザンヌは食人鬼である。人を殺して喰らう化物だと言われているが、こんな場所に足を向ける人間などそうそういない。普段は食事として必要な分だけの獣を狩り、それを食べて暮らしているのを見ると、彼女が人間を殺すのは彼らに危害を加えられそうになっただけらしいと知れる。
 シュザンヌの日々は、時計などなくても規則正しく決まっていた。朝は日の出と共に起きて、殺して食べた生き物たちの墓にフェニカ教の十字架を手にしながら祈りを捧げ、それが終わったら森に野草や木の実を朝食として摘みに行き、片付けたら近くの川に水を汲みに行って洗濯をする。さらにそれが終われば夕食となる獣を狩りに再び森の中を歩き回り、日暮れと共に眠る。
「ダニエル、つかれた?」
 薪割りの途中で手を止めた彼を背後から覗き込んで、シュザンヌが尋ねた。物思いに耽っていたダニエルはなんでもないと首を振って、再び作業を開始する。八本の指でしっかり斧を握り締め、丸太に向って振り下ろす。
 薪は幾つでも必要だった。初夏の今のうちからこうして溜めておけば、冬は暖かく過ごせる。その頃までダニエルがいるわけはないのだけれど、華奢な腕で無骨な斧を握り締めるシュザンヌの姿を見て、ついつい自分がやると申し出てしまったのだ。
 初めて出会った時の超人的な強さが嘘のように、シュザンヌは明るく稚い普通の少女だった。波打つ金髪が鳥の巣のようにくしゃくしゃでいるのも、着飾ってけばけばしい街の少女たちよりずっと好ましい。リゼットのように黙ってそこに立っているだけで周囲の人間を虜にしてしまうような気品と美貌の持ち主ではないが、春宵の花や、夏の木漏れ日のような清々しい美しさを感じる。
 ダニエルは、彼女がいつも理由もなくにこにこと、何でも楽しそうに行っている姿が好きだった。水汲み、薪割り、料理、洗濯、意味もなく共に行って、その笑顔を眺めていた。
 シュザンヌの方も自分の他に人のいる生活が珍しいのか、ダニエルの後を子どものようにちょろちょろとついてきた。いつの間にか二人にとってそれが当然となっていて、夜も藁に布を敷いただけの寝台で、丸くなって一緒に眠る。
 薪割りが一通り終わって、ダニエルは腰を上げた。傍で見ていたシュザンヌがパッと立ち上がり、薪を幾つか纏めて紐で縛り束にして小屋の庇の下に置くダニエルの背を追いかけた。
 台座に刺しておいた斧を彼女が手にとるのを、ダニエルは振り返ってみる。シュザンヌはその斧を、自然な動作で持ち上げて小屋の中に入り、所定の位置に収めた。
 もう、ダニエルはシュザンヌにいきなり襲われ殺されるというような考えは持っていなかった。彼女にとって、彼はあくまでも“お客さん”なのだ。

 ◆◆◆◆◆

 薪割りの後は昼食で、今日のメニューは焼いた野兎と野草のサラダだ。木の実のソースの甘酸っぱい香りを楽しみながら、口に運ぶ。シュザンヌの料理は料理と呼べるかどうかも微妙なものだったので、ダニエルが鍋の取っ手を握ると、彼女は酷く喜んだ。
 そうして料理をしながら食器の数を数えていて、ふとダニエルは気づいた。この小屋には何でも、二人分の道具が揃っている。食器はスプーンにフォーク、コップも、大小の皿も二つずつ。また、毛布やシーツも二枚ずつあった。
 それから不思議なことに、普段は開けられない衣装箱が一つ小屋の中に置いてある。その中には些か流行遅れのドレスが幾つか収められていた。古びた成人女性の衣服、シュザンヌも最近はこの中の服を着ていることもあるようだが、元々はこれらの服は彼女のものではなかったのだろう。装飾品に疎いダニエルでも、十年近く前に爆発的に大流行したとあるデザインのドレスに見覚えがあった。 
 シュザンヌはかつて、誰と暮らしていたのだろう。これらの衣装から推測すれば、若い女性だということがわかるが。
 そもそもシュザンヌのような年若い少女がこんな辺境の森の奥で、一人で暮らしているということ自体がまず不思議だったのだ。彼女はこの十年ほどの間に、誰か――恐らくは若い女性によってここに連れられてきた。
 何のために?
「シュザンヌ」
 食事が終わって、ダニエルは食器を流しに運びながらシュザンヌへと話しかけた。布巾でテーブルの上を拭いていたシュザンヌが、む、とも、ん、ともつかぬ声で返事をする。
 再び席について真正面からその顔を見つめた。
「どうして、君はここにいるの?」
「え?」
「君はいつ……誰と一緒にここに来たの?」
「いつ……? えっと、ずぅっと、前」
「ずっとって……その、何歳ぐらいの時?」
 どうやらシュザンヌには常人と同じ時間の概念は期待できないようだった。こんな森の中で何年も暮らしていては、時間の感覚がおかしくなるのも無理はない。改めて言葉を変えて尋ねると、ようやく何かを思い出しかけたらしく、切れ切れに言葉を紡いでいく。
「あの日、ここに来たとき……わたしは、たしか五さいのたんじょうびのすぐあとで……お父さまが帰ってくるのを、おうちでお母さまと待ってた」
 五歳。今のシュザンヌは十五、六だろうから、約十年前の話ということになる。
「あの日……おうちにだれかが来たの。お父さまはまだかえってなくて、お母さまが何かこわい顔して、その人と話してた。それですぐに、おうちでて、森ににげたの」
「逃げた?」
「うん。にげなくちゃって、お母さまが言ってた……けど、つかまったの。わたしは木のかげにかくされて、お母さま……死んじゃった」
 シュザンヌは眉根を寄せた。それは悲しいと確かに感じているのに、それを上手く表現できないのがもどかしいような様子だった。
 そういえばダニエルは、まだ一度も彼女の泣き顔を見ていない。
「死んじゃったお母さまのよこで、おってきた人が何かしてたの。わたしは、ちょっとだけそれを見たの。そしたら」
 シュザンヌは顔を上げた。ダニエルを真っ直ぐ見つめて言う。
「その人、お母さまを食べてた」
「――――!!」
 それが、シュザンヌの食人習慣の始まりだ。いずれは聞かなくてはならないだろうと思っていたことを、図らずも知ることになった。
「にんげんも、食べられるの。お肉、とりもうさぎもおおかみも、みんなかわらないの」
 視線こそダニエルを捕らえてはいても、実際にはどこか遠くを見る瞳で、シュザンヌは歌うように続ける。
「お母さまとお父さまがよく言ってた……にんげんだけがトクベツなんて、絶対ないんだって。このよの生き物は、みんなビョウドウなんだって」
 フェニカ教では、陸の生き物は皆、神が人間に与えた僕であり食物だ。その動物たちと人間が対等などありえない。
「だから、祈るんだって。わたしたちは食べなきゃ生きていけないのに、食べることはころすことだから」
 シュザンヌが持っていた十字架は明らかにフェニカ教のものだった。亡くなった母親が持っていたものだという。彼女の言うことはフェニカの教えに相反するものが多いが、それが父母の教えだとしたらどうしてシュザンヌの母親はフェニカ教を信じていたのだろう。
 考えれば考えるほどわからなくなる。
 シュザンヌの日課である暁の祈りが、どうしてもダニエルには理解できなかった。自分で殺した人間や生き物たちの魂の平安を祈るなんて、偽善ではないのか。けれど祈りを捧げるシュザンヌの姿があまりにも一途で真剣に見えたから、これまで口を出せなかった。
 命とは何なのだろう。
 人は牛を馬を鳥を兎を殺してもいいのだとフェニカの神は言う。だが、命に優劣などつけられるものなのだろうか。ダニエルもシュザンヌも修道院の皆も、他の生き物を殺して食さずには生きていけない。人間以外の生き物もそうだ。別の生き物を殺して食する弱肉強食が当然の自然の世界で、人間だけは何故特別なのだろう。
 ――君はフェニカ経典がどこまで正しいと思っている?
 ――この世にはね、尊いものなど何一つないんだよ
 先日のバティストの言葉を思い出す。かの伯爵も教会に属していながら、異端の意見の持ち主だった。経典はどこまで正しいのか。この世に尊いものなど何一つない。
 けれど、全てが尊くないということは、全てが対等で平等だということになるのではないのだろうか。
 そしてフェニカ教の経典は聖女フェニカの死後、教会に属する大勢の学者たちの手で編纂されたものだ。バティストの言うとおり、疑おうと思えば、疑える。
 貴族も奴隷も病人であれば構わずに全ての人の治療を試みたというフェニカが、人間だけを尊いと考え、その他の生き物は全て愚劣な僕だと果たして考えたのだろうか。
 わからない。わからなくなる。誰か答を授けてくれ。どうか、神様フェニカ様……。
 彼女たちを疑いたくはない。
 けれど、シュザンヌをこのままただ非道な食人鬼と断じたくもないのだ。彼女には彼女なりの理由がある。命を尊ぶ心は、もしかしたら修道士以上かもしれない。シュザンヌが人を殺して喰らうのは、人間の命を軽んじているからではない。むしろ逆だ。人間も、その他の命も全て平等に考え、それでも人は何かを喰らわねば生きていけないという自然の掟にしたがっているからなのだ。
 鳥や獣を殺して喰らうことを当然のように受けとめ罪悪感を覚えることもない人々と、野の獣に加えて人間さえも手にかけるがそれらの命全てを自らの糧にするという自然の法則を全身で受けとめている食人鬼と。
 果たして、どちらが正しいのだろうか。

 ◆◆◆◆◆

 背後でカチャカチャと食器の触れ合う音がする。水が零れる音に混じって、少女の唸り声。
「うー」
 シュザンヌは昼食の後片付けを始めた。長い髪が零れ落ちて水に浸るのが鬱陶しいらしく、しきりに手の甲で額を擦り上げている。それでも一度よけた髪がまた頬を撫でて、愛らしい唇を拗ねたように尖らせていた。見事な金髪は何度も水につかり、ソースの混ざった水でべとべとだ。
 ダニエルは横から彼女に歩み寄って、シュザンヌの髪の一房をつまみ上げた。鬱陶しいそれがなくなって、シュザンヌの仕事がはかどる。
 彼女は僅かに首を傾けてダニエルのほうを眺めると、嬉しそうな、やわらかな笑みを浮かべた。つられて彼も笑み返す。――なんて、穏やかな時間。
 こんな日々がずっと続けばいいのに。
 ダニエルはもはや何も考えたくはなかった。修道院に戻れば、リゼットとヴィクトルのことを考えずにはいられなくなる。ダニエルは二人とも大好きで……だから、どうしていいのかわからない。
 それにきっと、次に修道院に帰って報告をした時こそ、“食人鬼”シュザンヌの命運が修道院によって決せられるだろう。そうすれば、シュザンヌは。
 悪いものは取り除かなければ。
 フェニカ教の教えが、今初めてダニエルの胸を針のように鋭く刺す。もうとっくに、ダニエルはシュザンヌを害す気持ちなど失っていた。ただ、この少女を何も傷つけることのない環境に置いてそっとしておきたかった。シュザンヌは自分に危害を加える者でなければ、人間は襲わないのだから。
(どうすればいい。僕は、どうすれば……)
 答を出す日は、もうすぐだ。