黄昏は手を繋いで

7.暴かれた穢れ

 修道院に戻ってきた時はすでに空が茜に染まっていた。流れる雲は暖色を七色に揺らめかせた歪な虹のようだ。染みのように横切るのは、群れを成して旋回する鳥たちだった。
 そういえばシュザンヌと初めて出会った時も黄昏時だった。青い空を見ている時間のほうが長いはずなのに、この燃えるような空にやけに慣れた感がある。しばし考え込んで、ようやく気づいた。黄昏の紅は「おかえり」の色だ。
 一日中遊びまわって家に帰った子どもの頃、頼まれ物を終えて奉公先に帰った少年の頃、見ていたのはいつも、この空だった。
 街の外れにある修道院は、周囲を背の高い木々に囲まれている。正面の入り口にはアーチ型の門が立っていて、街へと続く道からはいつもリゼットが馬車で通ってくる。
 どこも見慣れた光景だった。けれどどこか違和感がある。
「院長……?」
 門の前に佇んでいた黒い人影に声をかける。シルエットからガスパールだと判断したが、本当はよくわからない。
 これは誰だ?
 しかし、ダニエルの戸惑いは一瞬のことだった。呼びかけられたガスパールは影の中からゆっくりと姿を現し、ダニエルへとにこやかに答える。
「ああ、君か。戻ったんだね」
「はい」
「どうだろう。“食人鬼”についての情報はしっかり集められたかな?」
「――はい。そのことで、お話したいことが……」
「中で聞こう」
 顔を見てしまえばそれはガスパール以外の何者でもなく、ダニエルは彼について数週間ぶりに院の中へと足を踏み入れた。彼がミスコの森から戻ったのを見て取って、廊下をすれ違った二人の修道士は急におしゃべりを止めた。院長であるガスパールだけでなく、明らかにダニエルのことを意識している。
 家と呼べるものはこちらのはずなのに、シュザンヌと森で暮らしていたときよりずっと居心地が悪い。ダニエルは、知らず俯きながら歩いていた。影が落ちて暗い廊下を、手燭を持って前を歩くガスパールが立ち止まった気配で初めて顔を上げる。院長室の前に辿り着いていた。
 ダニエルはシュザンヌのことについて、正直にありのままを話した。
 緊張は期待と恐れの表れで、声が震えないように努めるので精一杯だ。上手い言葉を尽くしてシュザンヌを庇い立てすることもできず、感じたままを素直に口にするしかできない。ダニエルはとにかく不器用な人間だ。
 全てを聞き終わると、ガスパールが高価な椅子を軋ませながら溜め息をついた。
「なるほど、ミスコの森の“食人鬼”は環境と過去の体験によって食人行為をなしただけであって、きちんと教会で誠意を持って教育すれば普通の人々と同じように社会で生活することが可能か……」
「はい」
 ダニエルの脳裏には、シュザンヌの邪気のない笑顔が浮かぶ。ガスパールの脳裏にはきっとアルマンやニコたちのことが浮かんでいるだろうと思われた。同じ院に属する修道士なら、殺された彼らを悼み敵討ちこそすれ、食人鬼を庇うなどもっての他ではないのか。
 ダニエルももしこのまま修道院で与えられた情報を聞くだけならそう思っただろう。だが、彼はシュザンヌという少女の本当の姿を知ってしまった。そして、憎しみや恨みを捨てて人々への思いやりと愛に生きることこそがフェニカ教の教えではないのかと思った。
「少し、考えたい。ここで待っていてくれるか」
「はい」
 ガスパールは院長室を出て行った。他の部屋の高位の修道士たちに相談でもしにいくのだろう。ダニエルは一人ぽつんと部屋の中に残され、することもなく視線を床に落とした。客用の椅子はあるが座る気になれない。
 そうして床を眺めているうちに、彼は机の下に落ちている数枚の書類に気づいた。向こう側に回りこんで、それを拾う。机の上は、ガスパールの院長としてや領主としての仕事上の書類でいっぱいだった。また山を崩すのも面倒だろうと引き出しに仕舞いかけて、ふと赤い線が目についた。
「これは……」
 二枚の書類は同じ形式、同じ日付。なのに、書かれている内容、数字が若干違う。もっとよく見ようと窓際により、消えかけた夕陽の赤い残照を頼りに文面を詳しく読む。
「こ、れって――……!?」
「どうしたんだね」
 穏やかな、それでいて冷ややかな声がかけられる。気配もさせずにガスパールが戻ってきていた。ダニエルが窓を半分塞いでしまっているため、先程よりも部屋の中が暗く、逆光になっている自分より向こうの姿の方が見えにくいかもしれない。
「院長……どういうことですか? これは。……これは、領地の収穫量の改竄書……では」
 震え声でダニエルはガスパールに尋ねる。脱税を見破られたガスパールの表情はもはや穏やかとは言い難く、口元は笑っていても目が凍ったままだ。ああ、これは誰だろう。僕の目の前にいる人は誰なんだろう。
「気づいてしまったんだね。よけいなものを見てしまったな。ダニエル・クローツ」
「お答えください! あなたは、領地の農民たちの収穫量を改竄していたのですか? 不正行為をされていたのですか!? どうして!」
 修道院の院長たるものが自ら不正を行うなど信じられない。しかも二枚の報告書に書き付けられていたのは、農民たちを重税から救うための偽造ではなく、彼らから多量の収穫を巻き上げ、国にはずっと少ない量を届け出て残りは自分の懐に入れる、あくまでも彼自身のためだけの不正だったのだ。
 眼を瞠るダニエルを指さし、ガスパールが一言口にした。
「食人鬼に洗脳された罪人だ。捕らえよ」
 その言葉を合図に扉が開き、一斉に幾人かの彼と同じ黒服の修道士たちが入り込んでくる。多勢に無勢で勝ち目はなく、窓から逃げようとしたダニエルはすぐに周りを囲まれた。
「信じ、られない……っ、大司教ともあろうものが、フェニカ様と神に仕える修道院を治めるものが、自ら不正を働くなんて……」
「何のことだね。ダニエル修道士。私が言っているのは、君の罪状のことだよ。数々の旅人を屠り、我らが同胞を三人も殺した食人鬼を庇い立てするとは、残念だがもう君の思考はまともとは言いがたいな」
「そんなの――っ?!」
 でたらめだと叫ぼうとして、ダニエルはふと周りの修道士たちの様子に気づいた。彼らはダニエルより年上の青年ばかりだったが、皆一様に虚ろな目をして、ガスパールに従順な様子を見せている。
「どうして……」
「無駄だよ、ダニエル。彼らだって、自分たちの将来の保証はほしいのさ」
 公爵の権威を振りかざして、安泰な将来と引き換えに数人の修道士を買収したと言うのだ。彼らはガスパールの言う事ならなんでも聞くようにと言われているのだろう。
 だが彼らはわかっていない。そうして一度手を染めてしまったらもう二度と、まともな道に戻れはしない。彼らはガスパールとの取引で未来を手に入れたつもりでいて、永遠にそれをガスパールの手のひらに握られてしまったことに気づいていないのだ。
「……僕を殺すんですか…っ、あなたは、そうやって自分に不都合なものは全て消していくんですかっ、……他人は全て自分の食い物だとでも!? ……そんなの」
 それでは、欲望のために他の生き物を殺す獣と同じ。偽造や言い訳を繰り返して自己保身に走らないだけ獣のほうがよっぽどマシだ。
「食人鬼は、あなた方のほうだ!!」
「こやつを捕らえろ!」
 周りの青年たちがダニエルを拘束した。必死で抵抗するも、狭い空間で五、六人を相手にはできない。後手にされた両手を捩じりあげられて、痛みに呻きながら残った片目だけ開けてガスパールを睨む。
「こんなこと、まかり通ると思っているのですか?」
「できないとわかっていることをするほど馬鹿ではないよ。私も」
「あなたは」
「それとも、君は本当に自分がリゼットと結婚できるとでも思っていたのかね?」
「――え?」
 何故いきなりそんな話題になるのだろう。ダニエルには理解できない。ガスパールは彼の困惑にも構わず続ける。
「私が君のように、罪人の血の汚れを受けて隻眼となり指をも失った輩を本気で娘の婿に迎えるとでも思っていたのかね? 残念だったな。公爵家の財産はお前などには渡さん。どうせなら食人鬼に食い殺されてしまった方が、こちらも始末の手間が省けてよかったのに」
「あなたは……そのために僕を……」
 ガスパールはダニエルとリゼットの結婚を阻止するためにダニエルを食人鬼退治へと派遣したのか。その目的はダニエルたちが食人鬼を退治することではなく、食人鬼に殺されることこそを望んでいたのだ。
 ダニエルは言葉も出ない。
 ヴィクトルのときの比ではない。そこまで自分は憎まれ疎まれ、蔑まれていたのか。ただ、罪人の血を受けたというだけで。その汚れを取り除くためと言って彼の瞳を抉り、指を切り落としたその本人が、そんなことを言うのか!
「あなたは……最低だ……!」
 ガスパールは答えずに、薄く笑った。それは、あの黄昏の惨劇や暁の祈りにシュザンヌが見せたものとは似ても似つかぬ、酷く醜い笑みだった。