黄昏は手を繋いで

9.黄昏は手を繋いで

 まったく、なんということだ。
 シェヘラ修道院長、大司教ガスパールは苦虫を噛み潰したような顔でぶつぶつと呟く。
「あんなガキ一人、まだ捕まえられないのか! とっとと口を封じてしまわないことにはややこしいことになるというのに……」
 どうせ異端者として処刑してしまうのだからと軽く考えていたが、今思えば厄介だ。隻眼で指の足りない異端者の言うことを街の人間がどれだけ信じるかは知れたものだが、悪い芽は摘んでおくに限る。フェニカ教でもそう教えているではないか。悪いものは取り除かなければ、と。
「あなたはいつもそれですね、公爵」
 ふいに、誰の気配もなかった場所から声をかけられてガスパールは飛び上がるほど驚いた。慌てて振り返れば、いつの間にか窓を塞ぐ形でバティストが立っている。ただでさえ得体の知れないこの男が、ガスパールは苦手だった。 
「何の用だね。バティスト司教」
「たいしたことじゃありませんよ。たまにはあなたと昔話をしようと思いましてね」
「私は今忙しいんだ。できれば後で――」
「あなたが殺した女性を覚えていますか?」
「何?」
「ああ、申し遅れました。そういえば私はうっかりあなたに本名を教えておくことを忘れていました。私の名は――ベルトラン。あなたに妻と娘を同時に奪われた男ですよ、公爵。もっともあなたは妻のことばかり追いかけて、私の顔など知りもしなかったでしょうが」
「貴様は、あの……!!」
 バティスト――否、ベルトラン伯爵は酷薄な目で、蔑むような薄笑いを浮かべた口元で相手を威圧する。
「権力に任せて他人を食い物にするのはさぞや気分がよいのでしょうね。公爵。唯一あなたの思い通りにならなかった我が妻は、そんなに気に入りませんでしたか? 我が家を卑劣な罠で貶めて、妻と娘が森の奥深く逃げねばならぬほど追い詰めるほどに。野の獣と鳥を狩って必死にその日その日の命を繋ぐ女を、殺すほどに」
 ガスパールが顔色を無くす。
「ああ、あなたこそ本物の食人鬼でしたね。死んだ我妻の肉は、そんなにも美味でしたか?」
 人が人を喰らう行為の背後には、幾つかの理由が存在する。
 一つは、飢饉や遭難の末に、純粋に食料とするため、一つは、民族的な儀式で社会的に行うため。
 そして一つは、相手の存在を自分に同化するという変態性欲のためだ。対象を食することで、その相手を手に入れたつもりになる。
「ベルトラン……貴様! 妻と娘を失った後に、屋敷に火をつけて自殺したのではなかったのか!?」
「復讐のためなら、私は鬼にもなるし、地獄からも舞い戻りましょう。人間であるという誇りなんて、何ほどのものだと言うのです? 血の滲むような努力で再び爵位を手にすることなど、守れすらしなかった幸福で穏やかな家庭を維持する以上に難しいことですか?」
 けれど、娘だけは生き残ったと知ったときの希望が一番大きい。金髪に菫色の瞳のシュザンヌは、彼が訪ねたときに決して街へ戻ろうとはしなかった。仕方なくベルトランは、彼女が住みやすいよう幾分小屋を作り変えた。
 生きていてくれれば、それだけで十分だ。
 ベルトランの言葉が終わる頃から、修道院の外が騒がしくなってきた。明らかに修道士ではないものたちが引き起こす騒音だ。
「警吏の馬車がようやく来たようですね。自分が行った手を使われる気分はどうです? 公爵」
 ベルトランはダニエルから聞いていたガスパールの改竄書類の隠し場所を突き止め、偽造したものとすり替えて街に提出した。唯一過去のベルトランの境遇と違うのは、彼の場合は偽造書類による冤罪だった事件が、ガスパールの場合は実際に不正に手を染めていたということだ。
「ベルトラン! 貴様ぁああ!!」
 院長室に入り込んできた数人の役人に取り押さえられ、引きずり出されるガスパールの憤怒の表情を冷ややかに見据えながら、ベルトランは吐き捨てる。
「今度は、あなたが地獄を見る番だ」

 ◆◆◆◆◆

 半日走り続け、ミスコの森に着いたのは夕方だった。心臓が破れそうに痛い。けれど自分にできることを果たしたら、もうこんなもの破れてしまってもかまわない。
 残照が消えかけ大分暗い小屋の前に、人影がぽつんと一つ立っている。
「シュザンヌ!」
「ダニエル?」
 顔が見える前から、ダニエルにはそれが彼女だとわかった。どんなに暗闇でも、目の前の相手の顔すら見せない黄昏でも、彼女だけはわかる。絶対に間違えたりしない。
「ダニエル? どうし……」
「一緒に逃げよう」
 呆気にとられているらしいシュザンヌの手をとり、ダニエルは強く訴える。
「近いうちに、きっと修道院から追っ手がかかる。君は“食人鬼”として教会に追われているんだ。だから、この森を出よう。僕と一緒に」
 以前はあれほど告げるのを躊躇い、胃を痛めた言葉が今はすらすらと出てくる。
 シュザンヌはわけもわからず、もともと最低限の荷しか持っていないのでほとんど着の身着のままダニエルに腕をとられて走っていた。
 夜の暗い森は、全てを照らす太陽ではなく、限られたものにだけ慈悲深い光を投げかける月と星だけが二人の道行きを照らす。
 切れ切れの息で、ダニエルはシュザンヌを落ち着けようとするのか、宥めようとするのか、ぽつぽつと言葉を零していく。
「あのね、シュザンヌ……」
「なあに?」
「これからは、もうできるだけ人間を食べないでくれ」
 シュザンヌの食人行為には純粋に食料とするだけの意味しかないので、その問題が解決されていれば、彼女が食人をする意味も必要もないはずだった。
 それでも、どうしても人間を食べたくなるようなことがあったら。
「僕を食べていいから」
「――……イヤっ!」
 突然、シュザンヌがダニエルの手を振り払った。
「シュザンヌ」
「イヤっ! イヤ、イヤ、イヤなの! ダニエルはたべたくない!」
 強烈な拒絶に、ダニエルは呆気に取られた。自分はそんなにまずそうなのかと恐る恐る尋ねるが、シュザンヌは違う、と首を横に振った。
「イヤなの……たべたくないの……ダニエルとは、おはなししたり、いっしょに寝たり、まきわったりしたいの。ずっと、ずぅっとそうしていたいの。だからたべたくない」
 ――あなたにとっては薔薇も朝焼けもわたくしも、みんな綺麗で、それだけのもの。それって特別とは程遠いの……。
 全てを平等に愛しているということは、結局誰も愛さないことと同じだった。
 それでも人が人を食べないのは、命の価値こそ同じでも、人にとって牛や馬や鳥と人は違うから。人は、人をこんなにも強く愛するから。
「シュザンヌ、ごめん……」
 ダニエルは再びシュザンヌと手を繋いだ。顔を上げたシュザンヌが、涙に潤んだ瞳で彼を見上げる。
「……それでも、もしダニエルが、お母さまみたいにしんじゃったりしたら」
 首にかけていたフェニカ教の十字架を彼女は指で弄る。
「そのときは、ぜんぶたべてあげる。ひとくちものこさない。ぜんぶ……」
 ダニエルはシュザンヌを抱きしめた。痛いくらいにきつい腕と、彼の胸の中で、シュザンヌはダニエルの心臓の鼓動を聞く。すると、何故かとても落ち着いた。
 あくまでもそれは最後の手段だ。薪を割り、水を汲んで、共に生きることができるほど幸せなことはない。
 それでも、本当にどうしようもなくなったら。
「たべて、あげるから。だから、わたしがしんだら」
「……うん」
 ダニエルはシュザンヌを抱きしめながら、囁くように誓った。頬を透明な雫が滑る。
「君を、欠片も残さず食べてあげる」
 そして黄昏の食人鬼たちは、暗い森の中へと消えていった。

 了.