Fastnacht 01

002

「最近、よく夢を見る。海の夢だ」
「海? それは……珍しいですね。殿下は海を見たことはないと伺いましたが」
 毎年恒例の神託伺い、すなわち“託宣の儀”のために着替えながら、リューシャはセルマに明け方の夢の話をする。
 王子であるリューシャの世話をする女官の数は少ない。いざリューシャが呪われた王子として問題を起こした時、傍にいた人間も巻き添えで破滅する可能性があるからだ。王宮の侍女や従者となれば貴族の子弟が行儀見習いで勤めることも珍しくはないが、リューシャの周りには貴族出の従者はいなかった。
 そして平民の従者は、リューシャ自身の捻くれた性格に耐え切れずすぐに辞めていく者が多い。
 今日の儀式のために装束や装飾品を運んできた女官たちも、その着付けまでは命じられていない。役目が終わるとそそくさと王子の部屋を辞す。
 結果的には唯一の護衛であるセルマが侍女のような役割を兼ねることとなるのだ。
 だがセルマは知っている。リューシャのその態度には、「無能」になるべく育てられた王子とは思えぬ深遠な計算があることを。
 呪われた王子と知ってなおリューシャに長く仕え続けられる者は底抜けのお人好しかもしくは本当の主君から世継ぎの王子に毒を盛ってこいとでも命じられた間諜ぐらいのものだ。自分の下に残り続ける使用人たちがそのどちらであるかをリューシャは見極め、前者は一定期間傍に置いたのちある程度のところで辞めさせ、後者は難癖をつけて苛烈に処断する。
 呪われた神託のせいで苛烈で傲慢だと周囲から認識されているリューシャは、八つ当たりのような理不尽な理由で使用人の一人二人を処刑させることも容易い。
 そのように振る舞うからなおさら敵が増えていくとわかっていても、王子らしい帝王学や文武を教えられなかったリューシャが身を守るには、このような手段をとるしかないのだ。
「ああ、そうだ。だが我の夢には海が出てくる。湖や池ではない、波音と潮の香りがする、紛れもない海だ」
 従者の数が少ないと面倒なことも多いが、反面便利なこともある。事実、身の回りの世話をする者の数が極端に少ないからこそ、リューシャは王子にあるまじく、自らの通常の身支度程度なら誰の手も借りずに行うことが可能だ。今も準備の半分はセルマに任せているが、残り半分は自分でやっている。
「夢の中なのに、香りまでわかるのですか?」
 儀式用の衣装の着付けを手伝いながら、セルマがリューシャの夢の話に驚く。
「似たような夢のお話は、確か以前も聞いたことがあります。王子はずっと昔から、その海と知らない少年が出てくる夢を見続けていると」
「ああ。我は何度も何度も、あの海の夢を見ている。いつもは茫洋としているその記憶が、毎年この“託宣の儀”の前、数日間に渡って強まる。夜明け前の夢なのに、妙にはっきりとして頭に残る」
「儀式の前に?」
 そこで彼女は支度を整える手を止め、何事か考える仕草となった。
「殿下……それはもしかしたら、その夢が殿下に授けられた託宣を読み解く鍵となるのかもしれませんよ」
「ああ。我もそう考えた。だが解せぬ。見たこともない海、会ったこともない人間の夢が我の人生に何の関係があるのか」
「夢と言えば予知夢、預言夢、夢渡り、それから……」
「魔術に造詣が深い者ならばもう少し何かわかるだろう。だが、この大陸では魔術師やその上の界律師など滅多にいないからな」
「はぁ。神の血を伝える古王国アレスヴァルドとしては、辰砂のような存在を生む可能性のある魔術師など、国内に入れたくもないでしょうからね」
 こればかりは仕方がないと、リューシャもセルマも溜息をつく。
 何もないところに炎や水を生み出し、それらを自在に操る一種の“奇跡”の担い手である魔術師。その更に先の階梯への到達者、界律師。界律師はその名の通り、この世「界」の「律」を解した者だという。
 しかしかつて一人の魔術師が、不遜にも自らの力は神に匹敵すると驕り神々へ反逆した。悪名高いその魔術師の存在により、神々への信仰深い地では魔術師は忌み嫌われる。
 古き神話、伝説の類なので魔術師の存在に対し大っぴらな迫害があるわけではないが、少なくとも魔術師の一国での人数や地位、教育機関の数といった勢力図には関係してくる。
 アレスヴァルドは、この世界でも有数の「魔術師嫌い」の国家だ。アレスヴァルド王家には古くより「神の血を伝える」という伝説があり、そのために神々の敵対者たる魔術師の存在を国家として忌み嫌う立場を貫いている。
 現在の勢力図では、魔術師の権威は東程強く、西になるほど弱まると言われている。そしてアレスヴァルドは、世界で最西部にあたる青の大陸に存在する古王国だった。
「だがそうだな……そろそろ、国外の魔術師で誰か神託の解釈ができそうな人材を秘密裏に探すべきだろうな」
 この国を滅ぼす者、総てを殺す者という託宣を受けた呪われし王子は鏡の中の自分を確認すると、飾り短剣を掴んで立ち上がる。
 “託宣の儀”の装束は白だが、同じ色の死に装束に身を包むのはまだ早い。鏡の中の自分の空色の目にまだ諦めの色が映っていないことを確認し直し、リューシャは今日の戦場へ赴く。
「今年こそ、我に与えられし託宣の真実を探し当てる」

 ◆◆◆◆◆

 王族の誕生日。それも唯一の世継ぎの王子の生誕祭である。国としては盛大な式典を行い、民にも酒や料理を振る舞って祝う。
 しかしそれは儀礼としての表向きの話で、真実この国唯一の世継ぎの王子の誕生日を、彼が生まれてきたことを祝う人間は片手の指の数にも満たないほんの一握りだけだった。
 いずれ国を滅ぼす者。そう託宣を受けた王子の誕生を、心から祝う者は少ない。
 城下で民が料理と酒に興じている間、祝われる当人であるリューシャは城の奥深くにある神殿に赴くことになっている。王族が生まれた時に予言を授かるのもこの場所で、彼らは毎年誕生日が来るたびに神殿で神の加護を願うのである。それが“託宣の儀”。
 同時に神の託宣も再び与えられ、生誕のその時に受けた託宣とはまた別の結果を伝えられることもある。祝福を受ける儀式を終了し、自らが正統なる王位継承者であることを宣言して誕生祝いの式典の挨拶に赴くのがこれまで十五年間のリューシャのこの日の予定であった。
 不思議なことに、国を滅ぼす王子と宣告されながらもリューシャに神々が与える加護が人より減じられたことはない。
 むしろ、不吉と言える予言を裏切るかのようにリューシャにはこれまでどんな王族も与えられたことのないような祝福が与えられる。神官たちがそう言うだけで余人にはそれが真実かどうかわかりはしないものだが、そのこともますますリューシャの立場を複雑にする要因だ。
 人界にとって忌まわしき者が神々の寵児ということは、まるで神がアレスヴァルドの滅びを願うかのようである。
「お。来たか、リューシャ」
「ダーフィト」
 リューシャとセルマが託宣の儀に向かう途中、儀式を行う神殿の前の通路に一人の青年が立っていた。
 マホガニーのような深い赤の髪、そして海のように碧い眼をした彼の名は、ダーフィト=ディアヌハーデ。
 王の従兄弟ゲラーシム=ディアヌハーデ公爵の一人息子にして、本人は継承権を持たぬ身でありながら、現在国内で最も王位に近いとされている男だ。年齢はリューシャより九歳年上の、二十五歳。
 ダーフィト自身は誰の目にも野心が明らかな父とは違い、王位とは無関係な一貴族としての立場を謳歌する気でいる。生まれ育ちが良い故に穏やかな気質で、軍学校に通っていたため武人としての能力は抜群だが、本人は争いごとを嫌う性格だ。
 彼が権力への執着を嫌うのは、欲深い父親を誰よりも近くで見ているからだ。だからこそ年下の再従兄弟にあたるリューシャを兄のように可愛がり、軍学校の先輩である平民のセルマとも親しく付き合う。
 その態度がなおさら王子にも公爵にも期待しない勢力から一般市民まで皆を惹きつけてやまないのであるが、とにかく現状、ダーフィトにリューシャを押しのけて国王になる気はないようだ。
 とはいえ、リューシャの父であるエレアザル王もその側近たちも、いざ本当にリューシャが王位継承者としての役目を果たせないとわかったときには、このダーフィトを王の養子として次期国王の座に迎え入れることだろう。
 ダーフィト自身はそこまでわかっているのかいないのか、リューシャが物心つき、己の立場を十二分に理解したころから変わらぬ付き合いを今も続けている。
「儀式前の典礼とかは省略されてるけどさ、再従兄弟としての見送りぐらいいいだろう? リューシャ、十六歳の誕生日おめでとう」
「……我の誕生日を本気で祝う台詞を口にする馬鹿が、ここにもいたな。まったく」
 政治的にはリューシャ王子最大の敵であるダーフィトだが、身内としては恐らく誰よりも真摯にリューシャの誕生日を祝える存在だ。
 裏を返せばそれは、ダーフィトがリューシャに与えられた神託を重要視していないことの表明でもあった。リューシャに与えられた破壊者の神託、この国を滅ぼす者だという言葉、それを真剣に受け取っていないからこそ、いずれ全てを破滅させるかもしれないリューシャと平然と付き合えるのだ。
 憎まれ口を叩きながらも、ダーフィトがこのような調子だからこそリューシャも彼を憎みきれない。
 不信心と言ってしまえば簡単だが、何もダーフィトは強固な無神論者というわけではない。彼は彼なりの理屈で、呪われた神託に行動を左右されたくないだけだと言う。リューシャの存在が国を滅ぼすものであるのならそれはそれで、「その時」になれば自分は滅びを止めるために最大の努力をするという決意。
 ダーフィトはリューシャがこの先もしもリューシャが世界を呪い国を滅ぼすようなことを自らの意志で起こそうとしたら止めるであろうし、リューシャの意志ではない不可抗力で国が滅びそうになるなら止めてみせると、そう自分に誓っているだけなのだ。
「リューシャ、お前はまだ神託の正しい意味を探っているのか」
「ああ、もちろん」
「成果は……まぁ、出ていたら状況を変えるために動くよな。わからないのか?」
「何せ一言だけだからな」
 世継ぎの王子であるリューシャが何の取り柄もない無能なただの子どもであることは、それだけでは何の問題もない。リューシャのように偏った教育をされずとも、永い王家の歴史上いくらでも愚鈍な支配者や才能に乏しい王位継承者などいくらでもいた。
 それでも彼らがリューシャほどに忌み嫌われていなかったのは、その無能が国家の発展を阻害するようなものではなかったからだ。国王が無能であるなら、傍らに有能な部下を立たせておけば良いだけのこと。そしてどうしようもないのであれば、暗君はさっさと暗殺してしまえばいい。
 個人としては間違った考えであっても、国を守るためにはもう何度も歴史の裏側で繰り返されてきた事実だ。
 リューシャに関しても、彼が生まれたその時に受けた託宣の内容により、王子を廃嫡すべきだという意見は四方八方から寄せられた。
 王族が生まれた際に神官から授けられた託宣の内容は、秘匿することも改竄することも赦されない。何より、神官は神の言葉を違えることができない。神官の口を通じて届けられるどんな言葉もそれ自体は変えることはできず、人にできるのはその正しい解釈を探すことのみ。
 神託の内容がもとより平和的な内容である場合は、熱心な解釈はされずに言葉をそのまま受け取るだけでいい。だが伝えられた内容に凶事が含まれる場合、人々は必死で知恵を募り神の言葉の正確な意味を求めて頭を捻ることになる。
「より良い言葉がお前の身に降るように」
 リューシャ以外の王族が託宣の儀に向かう際にかけられる台詞を、ダーフィトが口にする。それはただの挨拶以上の、今年こそ不吉な預言ではなく少しでも良い神託を受け取れるようにとの願いだ。
 リューシャが神託通りに全てを滅ぼすなどと信じていないダーフィトであっても、その神託に実際に国家が振り回されている状況と、当の本人であるリューシャの苦労を見ていればそういった言葉をかけたくもなるというものだろう。
 そしてリューシャは、自分が僅かにでも生き延びる可能性を求めてその「神託の正確な意味」をずっと探し続けている。総てを滅ぼす者となる。その言葉の意味を。
 それはいずれリューシャ自身の意志で総てを滅ぼしたくなるという意味なのか。
 それとも本人の意志とは関係なしに、リューシャのとった何らかの行動が滅びへの道筋をつけるという意味なのか。
 あるいはアレスヴァルドという国自体がどんな判断をしようとも、最終的にリューシャの存在がなんらかと関連付けられて滅びへの階となるという意味なのか。
 神託や未来の預言と言ったものの解釈は多岐にわたる。滅びをリューシャ自身の意志で下すというのであれば、確かにリューシャを殺せば滅亡の預言は回避できるように思える。
 だがその託宣の解釈が、滅びへの契機がリューシャ自身の死にあるとしたら? あるいはリューシャ自身がどう行動し、周囲がどう反応しようと関係なく全てが滅びるのは未来において決定事項だとしたら? その場合リューシャが死んでも何の意味もないどころか、下手をすればリューシャを殺すことこそが、滅亡の引き金になるのかもしれないのだ。
 考えすぎだと一笑に付すことができればいい。だが人は神ではなく、愚かで間違いやすい生き物なのだ。神の真意をこれだと単純に信じ込み浅はかな行動に移って滅亡しては目も当てられまい。
 だからこそ、アレスヴァルドの人間、そして呪われた王子と呼ばれるリューシャ自身は今でも神託の正しい解釈を求めている。途方もない神の言葉の真実を――。
「行ってくる」
 再従兄弟の見送りにいつもの仏頂面でそれでも手を振り、リューシャは神殿への歩みを再開した。