Fastnacht 01

003

 ダーフィトに見送られ進んだ神殿の廊下の先、大きな両開きの扉の前でセルマを待たせてリューシャは自ら扉に手をかける。
 アレスヴァルド王国の王宮の敷地内に、その神殿はある。
 国家の重要事に関する占いや祈祷を行う際に、民間と同じ神殿にいちいち王族が赴いていては都合が悪いことがある。そこで王族や高位の貴族が使う王宮神殿と、街中で民衆のために存在する神殿と教会とは分けて建てられたのだという。国内に神殿の存在する数は、神の血を伝える古王国と呼ばれるアレスヴァルドは他の国とは比べ物にならない。
 そして王族の誕生日には他の王族や貴族の参拝を断り、その王族ただ一人のためだけに神殿が貸切となる。アレスヴァルドではそれだけ神託が重視されているのだ。
 生まれた時に授けられた神託が不吉な預言であったものは、それがいつか変わることを日々願いながら過ごす。人間には避けられない運命と己の努力で変えられる未来があり、神々の神託はその両方を含んでいるため、希望はあるのだ。
 しかしリューシャの場合、今日までの十五年間は一度も生誕時に授けられた神託の内容が変わることはなかった。

『この者はいずれ、総てを滅ぼす破壊者となる』

 細かい単語や語調が変わることはあっても、リューシャが「滅ぼす者」であるという事実自体は変わらないらしい。そして「総て」が「国」に、「滅ぼす」が「殺す」になるような単語の変化は、むしろその神託の解釈が破壊的な意味であることを裏付けるかのようであった。
 毎年毎年、与えられた言葉を告げるだけの神官たちの方が託宣を受けるリューシャ本人よりも死にそうな顔をしている。一年で一番陰鬱な日だと言っても過言ではない。
 また今日も自分のせいでもないことで申し訳なさそうな顔をしている神官たちの溜息と憐れみの視線を味わいに行くのかとリューシャ自身陰鬱な気持ちになりながら、室内に足を踏み入れる。
 記憶にあるだけで十回以上はこの儀式を行っているのだ。何をせねばならないのか、手順ならばわかりきっている。生誕当日以外の託宣の儀は本人だけが神官の前に立ち神託を授かるもので、貴族や王族などの見守る儀礼的な式典とは違う。だから神託の内容に関わらず、リューシャある意味落ち着いて儀式の間に辿り着いた。
 しかし今日は、どこか様子がおかしい。
 過去の儀式の光景とは違う儀式の間の様子に不安を覚えて足を速める。神託を受けるべき祭壇の場で王子を出迎えたのは、白いローブの神官たちではなく、変わり果てた姿の父親だった。
「父上?!」
 叫ぶリューシャの声に気付いたセルマが室内に飛び込んでくる。すぐに他の護衛の兵士たちも駆けつけた。
 しかしやってきた彼らは、動揺するリューシャが期待したような行動はとらなかった。神剣に身体を貫かれた王が流す血で赤く染められた託宣の間に踏み込んだ彼らは、こう叫んだのである。
「謀反だ! 謀反だぞ!」
「リューシャ王子が国王陛下を――――」
「何を言って……」
 普段から嫌味に関しては条件反射のように倍にして皮肉を返すリューシャの唇も、この予想外の事態に対して滑らかに動いてはくれなかった。
 凍りつくリューシャに、槍を構えた兵士たちが迫ってくる。セルマが反射的に剣を抜こうとするが、生憎神殿には神殿護衛の正規兵以外刃物を持ち込めない。
 疾しいことがなくても追われれば逃げたくなるのが人の本能と言うもので、リューシャも初めは動揺のままにその場から逃げだそうとした。
 しかしその場に駆け付けてきたのが王の従兄弟である、ディアヌハーデ公爵ゲラーシムである。彼はリューシャの姿を見て取ると、いかにも残念だと言った顔を作りこう言った。
「お前が呪われた運命を苦に思っていたことは知っている。しかし、まさか実の父を手にかけるなどとは――」
「違う」
 咄嗟にリューシャは言い返していた。
「我はやってはいない!」
 それだけは真実だ。ゲラーシムの言う通り、リューシャは己の呪われた運命を恨んでいた。しかしだからと言って、自分をこれまで間違った形でも守ってくれていた父王を殺すはずなどない。むしろリューシャが王位を継げる年齢になるまで父王が健在でいてくれた方が、誰に反対されようと安心して玉座につけるというものである。
 むしろ怪しいのは目の前で大袈裟に王であり従兄弟であるエレアザルの死を嘆くこの男の方なのだが、他人はそうは思ってくれないようだ。
 神託の効果は絶大だ。今は間違った方向に。
「呪われた王子とは、こういう意味か……まさか自分の父親を殺すなんて……」
「王も王子もいなくなってどうするんだ。これから」
「リューシャ王子は廃嫡だろう。そうなればあとは――」
 リューシャは父王を殺してはいないが、それを証明する手立てはない。
 本来この部屋にいるはずだった神官全員が、父王と同じく刃物に貫かれた傷を晒し、この部屋で絶命していたからだ。
 冷静に考えれば、無能になるよう育てられて剣を扱えるかどうかも怪しい程度の腕前であるリューシャがこの部屋にいた十数人からの人間を一人も逃すことなく自分一人で殺すことなど不可能なはずだが、そんなもっともなことを誰も言いだしてはくれなかった。
 それにどうせリューシャに不可能でも、その護衛を努めるセルマはアレスヴァルド屈指の剣豪だ。彼女にやらせたと思われればリューシャたちにそれを覆す証拠が今のところ見当たらない。セルマは部屋に入った時自分の剣を持ってはいなかったが、この室内で死んでいる神官たちは護身用の飾り短剣を持っているし、そのくらいであればリューシャも持っている。
 そして部屋の奥、祭壇の裏にはもう一振り剣があることを誰もが知っている。
 アレスヴァルド建国当時から伝わる神剣。その剣の“真の持ち主にしか抜けない”とされる宝剣だが、その剣に細工をしたと言われる可能性はある。王の証として厳重に保管されている神剣は、国内でその剣の正統な持ち主と認められた王と王位継承者だけが抜けるように神官が術をかけている。
 その剣によく似た剣が、血濡れた床に横たわる王の胸に突き刺さっていた。
 この惨状を目にした時、当然の推理と言うよりも本能に近い直感で、リューシャは父を殺したのがゲラーシムであるとわかった。王の従兄弟であり、王位を狙っていたこの男は、外面だけは良く誰からも認められる公爵の仮面を被っている。しかしその内面は醜く、ただの権力欲にとり憑かれた男だ。彼以外にも王を殺す理由のある人間はいるかもしれないが、彼以上に王を殺したがっている人間はいないだろう。
「この、卑怯者! 自らが王位を欲して我が父を殺すとは!」
「何のことかな? リューシャ王子。御自分の罪を私になすりつけようとは良い度胸ではないか。あなたの言葉、そっくりそのまま返そう」
「我は父上を殺してなどいない! 父を殺したのはお前であろう!」
「何を馬鹿なことを。そんな証拠がどこにあるのですか? いや、それよりも、国王陛下を殺したあの剣を見ればいい」
 ゲラーシムは、父の遺体に今も突き刺さっている剣の存在を指示した。
「あれはこの国の正統な王位継承者にしか抜けない神剣。私に引きぬけるはずはない。あれを抜けるのは現在この国であなたのみだ。それが何よりの証拠でしょう」
 遠い昔に強大なる力を持った神官が編んだ魔術で石の台座に固定されている剣は、国が認めた正統な王位継承者にしか抜けないようになっている。
 エレアザルはもし自分に何かあった時でも、次の王に間違いなくリューシャがつけるよう神官長によくよく言い聞かせていた。流石は神に仕える者と言うべきかゲラーシムの野心を見抜いていた神官長も、王の言葉に従い、その欲で民を不幸にしそうな男よりは不吉な予言と神々の加護をその身に同時に受ける王子の方がまだ玉座に相応しいだろうと、リューシャ以外の人間がこの剣を抜けないようにしていた。
 しかしその神官長も国王も、今は神剣で胸を貫かれ絶命している。リューシャの無実を語ってくれる者は誰もいない。
「リューシャ王子が国王を殺したぞ!」
 仮にも王子を拘束することに戸惑っていた兵士たちにとってもその一言が後押しとなったのか、我に返った兵士たちは、ゲラーシムの命により次々にリューシャの身体に手をかけ拘束する。
「赦さぬぞ! ゲラーシム!」
 憎悪の籠ったリューシャの怒鳴り声だけが、血塗れの神殿に響き渡る。
 こうしてアレスヴァルドの王子リューシャは、父王殺しの濡れ衣を着せられて国を追われることとなったのである。

 ◆◆◆◆◆

 いくら王殺しの大罪人であるとはいえ、血縁である王子をむざむざ殺すのはしのびないと、ゲラーシムは理由をつけてリューシャを自らの屋敷に監禁拘束した。
 もともとエレアザル王が殺され、その一人息子であり唯一の王子であるリューシャが罪人と目されている以上、次に高貴な身分で王国の一切を取り仕切ることのできる権力者はゲラーシムしかいない。事の真相を薄々察している者も、ゲラーシムの采配に異を唱えることはしなかった。
 もとよりリューシャ王子は呪われた神託の王子。その存在が滅びを招く以上、彼の死を願ったことがないと言える者は希少だ。
 そういった考えを持つ一派の懸念の一つは、この一連の出来事によって他でもないリューシャ王子がこれまでと違い、アレスヴァルドへの明確な憎悪や奪われた権力への執着に目覚めないかということ。
 今までは不吉な神託の王子として遠巻きにされてはいても、リューシャが自らの意志で国を滅ぼすほどの理由はなかったはずだ。だが父親を殺され、その罪を着せられ、自らが受け継ぐはずだった王位をゲラーシムに奪われたとなれば、それは立派に王国を滅ぼすに足るだけの理由となるのではないか……?
 ただしこのような考えの持ち主たちは、同時にディアヌハーデ公爵ゲラーシムという男の恐ろしさをもよく知っていた。
 早々にリューシャ王子の身柄を手中にしたゲラーシム。彼の手にかかれば、リューシャ王子が生き延びる可能性は万に一つもないと。
 王殺しという罪状は極刑に値するが、殺されたとされるのもその息子。しかしゲラーシムはここでリューシャを幽閉などで済ませる性格ではない。彼は確実に王子を殺すだろうと目されていた。
 そしてやり方こそ乱暴ではあるものの、呪われた王子を始末し国民の憂いを取り除くというただ一点においては、ゲラーシムの行動は非難される筋合いのものではないのである。
 そうしてゲラーシムがリューシャの罪と自らの王位の正統性を諸侯たちに謳っている間、殺戮の場となった神殿では清めの儀式が行われていた。
 血塗れとなった託宣の間を洗い流し、神官たちの葬儀を始める。数日後にはエレアザルの盛大な葬儀も行われることだろう。ゲラーシムの思惑通りに事が進めば、そこにリューシャの名も並べられるかもしれない。否、罪人となった王子には王国の名で葬儀を出される権利もないか。
 それ以前に、リューシャ王子は生き延びられるだろうか。まだ彼を処刑したという話は聞かない。だが……。
「あのお優しい国王陛下がお亡くなりになるなんて……」
 この王城の神殿に長く勤める一人の神官は嘆いていた。
 確かに呪われた神託の王子リューシャも、その父親であり凡庸な王も、この国にとって有益な人材とは言えないかもしれない。だが優れた人物ではないからこそ、エレアザル王の優しさは本物だった。
 彼はアレスヴァルドの民の一人として、国王に忠誠を誓っていた。そのため国王や尊敬する目上の神官たちが殺された部屋の掃除役の一人として志願した。
 神殿の中には理由なく関係のない者は立ち入れない。よって神殿内部の掃除も在籍する神官たちに任されることとなった。犯人がまだ捕まっていないなら証拠保全の意味でそのままにしておくべきなのかもしれないが、すでにリューシャ王子が犯人だと国内に知らしめられている。それに殺害されたのが国王ともなればすぐに遺体を回収し、国家による葬儀を行う必要がある。
 彼を含む幾人かが、亡き国王と神官長、先輩神官の幾人かのことを偲びながら粛々とした様子で部屋を清めていた。
「そう言えば、祭壇の方は掃除をしたのか?」
「いえ、まだ……。ですが紗幕で遮られていたので、これを取り換えるだけで終わるかと」
「ならそちらは任せた」
「はい」
 彼は一人部屋に残り、神託を下す祭壇と、その奥の神剣を安置した台座を遮る紗幕を交換することにした。続きの間に立つ剣の輪郭を透かす薄い布は、殺された王や神官たちの血で赤黒く染まっている。
 そこでふと彼は違和感を覚えた。
「陛下を殺したとされるのは、この奥に安置されている神剣のはずだ。なのにどうして紗幕に血が?」
 リューシャ王子とされている襲撃者――が部屋奥の台座から剣を抜き取り室内にいる者たちに斬りつけたのであれば、紗幕は片側に寄せられたままのはずだ。まさかこれから殺人を犯そうとする犯人が丁寧に布を引き直したということは考え難い。
 否、そもそも、殺人があったというその状況そのものが不自然ではないのか? 室内にいる者たちを殺すのに、わざわざ部屋の「一番奥」にある神剣を引き抜いて、紗幕の布地を戻し、斬りつけたというのか。それも剣術の心得などあるはずもないリューシャ王子が一人で、王と神官合わせて六人を一人も残さず斬り殺したと?
 長年この神殿内で暮らし、この託宣の間にも何度も足を踏み入れた神官だからこそ気付いた違和感だ。少し考えればわかることではあるが、現場を見ていなければ想像がつかない。
 そしてこの現場を知る人間からすれば、例えどんな手練れだとしても、その行動で全員を殺すのは無理があると考える。リューシャ王子が剣を引き抜き護衛騎士のセルマ=メイフェンに渡したのだとしても、その時点で彼らの立ち位置は王子たちが部屋奥、神官たちは入り口側に控えることになるはずだ。誰も室内から出ようとした形跡すらないというのはおかしい。
 違和感を覚えながらも紗幕を取り換えようとして、彼はハッとした。
 神剣の様子がおかしい。何かが重なっている?!
 公爵はエレアザル王を殺害した凶器である神剣を、それでも国宝であるという理由で元通り台座に戻したはずだった。
 確かに台座にはいつものように神剣が突き刺さっている。だがその表面に、薄い何かが貼られていた。
 それは神剣の表面の装飾とよく似せたごくごく薄い絵だった。彼はその紙に手をかける。あっさりと剥がれたそれを手に気づく。――この絵を貼りつければ、同じ長さの剣を神剣に見せかけることができる!
 リューシャ王子は、はめられたのだ!
「やれやれ。重要な証拠物件なのだから手を触れないようにと言ったのに、連絡がきちんと伝わっていないとは……」
 彼が背後を振り向くと、そこには何故かディアヌハーデ公爵ゲラーシムがいた。
「こ、公爵、これはどういうことなんですか? 神剣が偽物で……」
「可哀想に。恨むのなら連絡不備の上官を恨みたまえ。私としても犠牲者を増やしたくはなかったのだが」
 パチリとゲラーシムが指を鳴らす、次の瞬間、怪しい黒尽くめの男たちが託宣の間に現れていた。
「やれ」
 神剣を安置する奥の間に血飛沫が飛ぶ。
「殿、下――」
 黒尽くめの男たちに斬られて絶命する瞬間、神官の流した血が神剣に触れた。
 アレスヴァルド王国において、王族に授けられる神託には血を媒介とするという。普通の教会で占いをする場合には本人の血を使うが、王族の命運を占う際にはこの神剣に血を捧げる習わしだ。
 最期の瞬間、彼は確かに神の言葉を聞いた。この国の定めにまつわる王子の託宣を。伝えられることのなかった神の言葉を。
『歯車は、動き出す。汝は運命に出会うだろう』
 リューシャ王子に伝えられるはずだった神託の言葉は、こうして虚空に消え去った。
 ――しかし驕り高ぶる人間は忘れている。伝える神官の言葉が消え去っても、神託が指し示す事実そのものが消えるわけではないことを。

「こちらも掃除が必要なようだな。さすがにここは自分で手配する必要があるか……」

 そして一人の神官の命を奪ったことなど気にも留めず、ゲラーシムは悠然と部屋の外に歩き出した。