Fastnacht 01

004

 リューシャは闇の中に佇んでいた。四方は黒に包まれ、光もこの空間の出口らしきものも何も見えない。
 海の光景と毛色は少々違うが、これもきっと夢なのだ。足下は妙にふわふわとしていて、現実感がない。だが裸足で波の寄せる浅瀬に立つような心地よさはなく、ひたすら寒々しい感覚だけがリューシャを襲う。
 闇の中に、自身のかつて発した声が降ってくる。
 ――神よ、神よ、何故愛してくれないのか。
 ――ここは古き国。神の血を伝える王国、自分はその王家の者なのに。
 ――どうして愛してくれない。
「やめろ……!」
 意味のない行為と知りながら、それでも耐え切れずリューシャは叫んでいた。鏡に映る幼い顔をした自分自身の弱さを否定するように。
「我は神の愛などいらぬ! 否……誰の愛もいらぬ! どんな運命が待とうと我は我として生きるのみ! 例え神だろうが人だろうがそれを解さない輩の、押し付けがましい憐れみなど欲しくもない!」
 呪われた神託の王子。災いをもたらす子。生まれて来てはいけなかった罪人。憐れなる破壊者。そんな名前で呼ばれるために、生きているわけではない。
 けれどわかっているのだ。その名を抱いて生まれてきた自分に、無償の愛を注げる者などいるはずもないと。どれほど無力であろうとそれでも自分と言う存在が皆の住む国を、愛する故郷を滅ぼすというのなら、愛せなくても無理はない。
 だから愛など乞わない。神のそれも人のそれも、自分には必要ない。
 それでも悩んだ時期があることを否定はできない。孤独を感じないと言えば嘘になる。
 だから闇の中で、目の前に幼い自分が立つのだ。何故父以外の誰も己を愛してくれないのかと、わざわざ神殿に足を運んでまで神の愛を乞いに行った愚かな自分が。
 ――どうして愛してくれない。
「そう、愚かだ」
 胸の裡で何度も繰り返してきた問いに、今初めて答らしきものが返る。
 背後から聞こえてきた声に、過去の自分へと背を向けて振り返ると、海の夢で見る銀髪の少年が立っていた。
「お前は……」
「神が君を愛することはない。そして君には、神の愛など必要ない。――欲しいのは人間からの愛だ。君はいつだって人間から愛されることを欲している。そう――」
 銀髪の少年はまるで過剰な演技のように、大袈裟な仕草で自らの心臓に手を当てる。紅と青の瞳が誘うように妖艶に笑う。
「僕の愛を」
「なっ――……」
 一言発し、リューシャは絶句した。酸素を求めて喘ぐ魚のように唇を震わせる彼を嘲笑うかのように、色違いの瞳を持つ少年は告げた。

「始まるよ。君の運命が」

 ◆◆◆◆◆

「殿下、リューシャ殿下」
「う……」
 心配そうなセルマの声に目覚めを促され、リューシャは痛む首を捻りながら半身を起こした。
 神殿でゲラーシムの兵に打たれて気を失ったことを思いだす。殴打を受けた首だけではなく、体のあちこちが痛い。床の上に直接放り出されていたようだ。
「大丈夫ですか? 殿下」
「セルマか……ここは」
「ゲラーシム閣下の屋敷です。申し訳ありません。剣を奪われました」
「我が早々に人質になったのが悪い。気に病むな。あとあんなクソ爺に閣下はいらん」
 もはや堂々と敵となった親戚の悪口をさらりと述べながら、リューシャは部屋の様子を見まわした。各々が派手だがその華やかさが見事に調和している高級家具は、確かにゲラーシムの趣味だ。
 ここは城ではなくゲラーシム自身の屋敷だというから、さすがに牢獄めいたものはないのだろう。リューシャたちも特に縛られることもなく、広い部屋の中央に転がされていた。リューシャが早々に意識を失ったので、セルマも抵抗する暇がなかったのだろう。武器を奪われた以外の別状はなさそうだ。
「――問題は、ここからどうやって脱出するかだな。父上が、」
 そこまで口にして、リューシャは眉を顰めると口元をゆっくり手で覆った。
「……殿下」
「大丈夫だ」
「ですが、陛下が――」
 リューシャの父、エレアザル王は殺された。下手人はリューシャとされているが、もちろん身に覚えがない。
 冷たい言い方ではあるが、リューシャとしてはエレアザル王を殺す利点がないからだ。呪われた神託の王子の唯一の庇護者である実父を殺してあえて苦境に立つような趣味はない。
 リューシャ自身の身の安全を思えば、父王を殺すはずがない。実の父であるエレアザル王は、この国で唯一リューシャを守れる立場にいた人間だ。彼が死ねば周囲が呪われた神託の王子を生かしておく理由もなくなる。王子としては父王には可能な限り長生きしてもらうことを望んでいた。
 そして息子としては――。
「愚かな父上。どう呼び出されたものか知らないが、我の生誕祭の当日に託宣の間に赴くなど」
 ゲラーシムがどのようにエレアザル王を脅したのかぐらい、リューシャにも見当はついている。どうせリューシャに関する託宣を神官に捏造させる取引でも持ちかけたのだろう。
 暗君と言うには凡庸すぎる程に、平凡な王だった父、エレアザル。
 国を滅ぼす託宣を受けた呪われた息子を持ち、息子がいくら妻の忘れ形見とはいえ、国の為にその命を奪う事もできなかったほどに愚鈍な王。
 そして息子のことを思う平凡な――ただの父親だった。
 十六年前あらゆる批難の中息子の命だけは繋いだものの、その力が国の破滅に向かわないようにと、リューシャに一切の才能を伸ばさない教育を施すことを選んだエレアザル。それが息子からわかりやすい笑顔や優しさを奪うことになると知っていても、彼にはそれを選ぶことしかできなかった。
 自分を無力に育てるという貴族たちの要求に乗ってしまった父のことを、恨んでいないとは言えない。
 だがリューシャは、王という冠を外したただ一人の父親としてのエレアザル王のことを、決して憎んではいなかったのだ。
「これも我のせいだというのか。我が受けた神託のせいか」
 ――この者はいずれ、総てを滅ぼす――
 ぎりぎりと音がする程きつく唇を噛みしめて、形のない痛みにリューシャは耐える。
 例えリューシャの存在がなくとも、ゲラーシムが王位を狙う以上、やがてエレアザル王との激しい対立は避けられなかったかもしれない。けれど今日この日、リューシャの存在がエレアザルを王を容易に死に至らしめる要因となったのは確かだ。
 優しい性格のエレアザル王を愛する民は多いが、王家に対する忠心が深い分だけ、呪われた王子であるリューシャへの嫌悪も募る。エレアザル王は常に難しい立場にいた。王宮には王の味方は大勢いたがその中でもリューシャの存在を危険視する者は多く、国王派ではない貴族たちは、ダーフィトの存在を盾にここぞとばかりにゲラーシムの権威を主張する。
 せめて生まれたばかりだったリューシャを殺すことができれば他の者たちの見方も変わったかもしれないのに、エレアザル王はそうしなかった。
 彼はとても愚かな王で――リューシャにとっては優しい父だったのだ。
「ゲラーシムの奴め……」
「殿下……これからどうしますか?」
 悲しいが、嘆いている暇はない。ここでぼやぼやすれば、父の仇を怨む前に自分自身同じ相手に始末されそうな状況だ。
「一度逃げて、体勢を整えるしかないな。ゲラーシムに我を生かしておく理由はない。それどころか、呪われた王子を殺し自らの名声を引き上げながら、争う相手がいなくなったのをいいことに玉座を握ることだろう」
 アレスヴァルド国内には、あまりにもリューシャの味方が少なかった。父王が死んだ今、ここにいるセルマ以外は、信頼どころかろくに信用できる相手すらいない。
 ならばいっそ国内に潜伏するのではなく、国外に出ると言う手を考える。例え自分たちを取り逃がしたとしても、ゲラーシムが玉座に着き実権を握れば国中を虱潰しに捜索するだろう。今でさえそれに近いことができるくらいだ。ならばここはひとまず、ゲラーシムの手の届かないこの国の外に出なければ。――どこに逃げよう?
「殿下!」
 セルマが弾かれたように扉の方を振り返る。
「誰かがこの部屋にやってきます! 後ろに武人を引き連れた、この気配は――」
「ふん。いよいよお出ましか」
 リューシャはセルマより一歩前に立ち、腕を組んで扉を睨む。今から入り口脇に隠れて奇襲をかけても返り討ちにあるのが関の山だ。ならば堂々と、恐れの欠片もなく相手を睨み据えて出迎えるのみ。
 扉が開き、後ろに護衛の兵士を引き連れた貴族の男が入ってくる。息子のダーフィトと同じ色の髪、瞳。しかしその中に浮かぶ光が暗いせいか、瞳の色は息子よりも暗く濁って見える。
 威風堂々とした長身の男性。男盛りの整った顔立ちには、しかし狡猾な野心が滲んでいる。
「ご機嫌はいかがかな? 麗しの王子殿下よ」
 ディアヌハーデ公爵にして、現在この国の玉座に最も近い男、ゲラーシムが姿を現した。