Fastnacht 02

006

 王太子リューシャによる国王殺害。その報は神殿を去り城を辞そうとしていたダーフィトの耳にも届いた。
 誰よりもその報せに驚いたのは、他でもないこのダーフィトだった。ついさっきまで顔を合わせていた再従兄弟が、実の父親を殺したというのだ。それも彼らはただの親子ではなく、この国の王とその唯一にして世継ぎの王子だ。
 神殿で見送ったリューシャの後ろ姿に、これから父親を殺害しに行くような、そんな気配があったかとダーフィトは混乱した頭で必死に思い返す。
 そして改めて届けられた資料を見て、自分が第三者ではなく「当事者」としての目線で見た矛盾に気が付いた。
「父上!」
 エレアザル王の補佐として、ディアヌハーデ公爵であり大臣職をも兼任するゲラーシムは常に城に詰めている。下手人が王太子とあってはそのまま牢に放り込むのも躊躇う人々の感情に配慮して、という理由で父がリューシャを屋敷に拘束したことも聞いた。
 ダーフィトは父の返事も聞かず、乱暴に扉を開け執務室に乗り込む。国政を司るゲラーシムの執務室は一般貴族の書斎など比べ物にならない立派な部屋構えだ。
「どうした、ダーフィト。お前にしては随分と粗暴な訪問だな。挨拶ぐらいしないか」
「そんなことを言っている場合じゃないだろ! リューシャが国王陛下をって」
「ああ、もうお前の耳にも入ったのか。そうだ。非常に残念な話だが、殿下は実の父である陛下を――」
「違う! 父上、この資料が逐一正しいなら、リューシャは犯人にはなりえない!」
 ダーフィトは先程届けられたばかりの資料を父の執務机に叩き付けた。そこには犯行当時とその前後の神殿内の状況について報告がなされていた。
 そして国王殺害をリューシャの犯行と裏付ける内容の欄に、犯行時刻の神殿内の人員配置に関する記載があった。
 神殿の者が最後に国王や、共に殺された神官たちを目撃した時刻。リューシャが神殿に赴いた時刻。その頃神殿にいた者たちがリューシャを目撃した時刻。そしてそれら目撃証言と神殿の構造、逃走経路から判断した、リューシャ以外の者がその時刻前後に現場にいるのは不可能だという証言。
 だが。
「俺はリューシャが現場に入る直前に、あいつに会ってるんだよ! 僅かな時間の差だけど、それはこの資料との矛盾が出る! ここに書かれている他の人間の配置が本当なら、俺がリューシャと会った頃にはもう陛下は殺されていたことになる! リューシャに犯行は無理で、彼は無実だ! 俺がその証人だ!」
 国王が殺害されたと思しき時刻は、関係者や目撃者の位置情報を参考にした推論を下に算出されている。神殿の構造とリューシャの姿を目撃した者の証言、最後に国王の姿を見た者の証言した時刻から事件が発覚した時間までに犯人が人目につかず逃亡を図れる経路が存在しないこと。
 だが主には人々の証言で成り立っている犯行時間だからこそ、別の証言をする者が一人でもいれば、その論理は覆る。
「ふむ。そうか。だがダーフィトよ、人間の感覚など曖昧なものだ。それに普段から時間をそれほど細かく確認する者などいないだろう」
「そうだな。普段ならな。だが託宣の儀の当日で、誰もが準備に遅れのないよう時間を気にしながら生活していた一日だ。俺だって公式の挨拶じゃなくてあくまでも神殿に行く前にリューシャに声をかけたかっただけだから、すれ違わないように時間をとらせすぎないようにその辺りは凄く気にしていた」
 ダーフィトだけではない、儀式を行うはずだった神殿の人間も、生誕祭の準備をする城の人々も皆が時間を気にしながら作業していた特別な一日だ。だからこそ目撃証言による殺害推定時刻がこれだけ絞り込めたのだ。
 その時刻も、ダーフィトの証言一つで瓦解する。
 ゲラーシムが一つ溜息をついた。
「ダーフィト、お前はその話を誰かにしたか?」
「いや、まだだけど」
「そうか。証言を変える気はないのだな」
「もちろんだ」
 ダーフィトは強く頷いた。彼は誰になんと言われようと、自分の証言も意見も曲げる気はない。だが、それに対する父親の反応は、ダーフィトの期待とはまったく別の方向に向かった。
「そうか――ならば、神殿の者たちの証言の方が間違っていたのだろう」
「父上?!」
「そうだろう? ダーフィト、お前の証言が正しいとしたら、他の者たちの証言が間違っているのだ。でなければ、それが“リューシャ王子の犯行”にはなりえないのだから」
 神剣云々の話は、二人の間では出なかった。世継ぎの王子が神剣で国王を刺し殺した。話としては衝撃的だが、実際にリューシャをよく知るダーフィトは、そもそもリューシャが殺人を犯す際に剣を使うとは思えない。
 ダーフィトも見たことはあるが、あの神剣は華奢で小柄なリューシャには重すぎるのだ。確実性を期するリューシャの性格であれば、自分の手で武器を選ぶ際には長剣は使わない。そして仮にセルマに命じるのだとしたら、彼女自身の剣がある。セルマであれば素手で人を殺すことも容易い。
 リューシャが父王を殺すかについては……残念ながらダーフィトには完全に否定しきることはできない。感情ではそんなことするはずないと思っているし、リューシャにとって唯一の庇護者である父親を刺す利点もないと知っている。
 だが、人の心とはわからないものだ。身内であるからこそ他人に対するよりも割り切れない感情を抱くこともある。
 ダーフィトが今まさに、父親を信じきれないでいるように。
「どうしてそこまで、リューシャを犯人にしたがるんだよ!」
「どうして? お前がそれを言うのか?」
 ゲラーシムは立ち上がり、執務机を回ると身体を向けたダーフィトの真正面に立つ。自分とほとんど目線の変わらない息子の顔に手を伸ばし、その頬をそっと壊れ物のように包み込んだ。
 ダーフィトは知らないが、それはつい先程ゲラーシムがリューシャにとったものとよく似た仕草。だがリューシャにした時とは違い、今度のそれは本当に大事なものを包み込むような――父親が何より愛する息子に対してのものだった。
「本当にわからないというのか? ダーフィト、全てはお前のためなのに」
「父、上」
 ここまでくればダーフィトにももうわかっていた。あらかじめ立てていた嫌な推測に明確な根拠を与えられた。
 国王を殺害したこと。
 リューシャに罪を着せたこと。
 それは全てゲラーシムの仕業。それが全てダーフィトのため。
「俺は……俺はそんなこと少しも望んじゃいない!」
 ゲラーシムが息子に与えたい愛情は、ダーフィトの望みとは合致しない。
「父上! 今すぐリューシャを解放し、真実を明らかにしてくれ!」
「そして今度は、私に王子に殺されろと言うのか? 息子よ」
「違う! そりゃ、罪は裁かれるべきだと思うけれど、でも、リューシャとよく話し合って、なんとかこの国に、みんなにとって一番良い方法を」
「綺麗事だな、ダーフィト。お前の口にする理想論程に世界は上手く廻らない」
「でも!」
「私はあれの父を殺したのだ。それがどういう意味を持つのか、わからないわけではないだろう?」
「!」
 父の声は優しい。だがその声で語られる言葉は、どこまでも残酷だ。
「このまま殺さなければ、滅亡の王子がいよいよ牙を剥く」
 リューシャに与えられた神託。全てを滅ぼす者。けれど彼に国や世界を滅ぼす理由などなかった。――今日までは。
 再従兄弟としてダーフィトも知っている。愛らしい顔立ちとは裏腹に、リューシャはやられっぱなしで黙っているような人間ではない。
 それにエレアザル王を殺したゲラーシムを、リューシャは決して許さないだろう。
 エレアザル王は優しい王様でダーフィトは彼を敬愛していたが、身内という考えはあまりなかった。ダーフィトにとって大事だったのは、あくまでも実の父親であるゲラーシムと、可愛い年下の再従兄弟であるリューシャ。だから一瞬は二人が和解できないかと願った。だが指摘された通り、エレアザル王を殺したのはゲラーシムで、王はリューシャの父親なのだ。
 ダーフィトが父親であるゲラーシムを大切に思うように、リューシャもエレアザル王を大切に思っていただろう。
「もう……取り返しがつかないって言うのか」
 戦いは避けられない。リューシャとゲラーシムは反目し衝突する。和解はありえない。全てが終わった時、どちらかが消えることになるのだ。
「ああ。賽は投げられたのだ」
 運命の出す値はもう決まっている。人はそれによって駒を動かしていくだけ。

 ◆◆◆◆◆

 父の書斎と言う名の執務室を出て、ダーフィトはふらふらと廊下を歩いた。自分の屋敷に帰るのも億劫で、顔色が悪いことを出てきた執事に心配される。
 このまま今日は泊まらせてもらうと頼み、部屋へ移動する途中だった。
「あら、ダーフィト」
「……義母上」
 青い髪に橙色の瞳、神職者のような独特の格好をした女性。ゲラーシムの新しい妻であるナージュと広い廊下でばったり顔を合わせることになった。
 ゲラーシムが後妻を迎えたのはつい最近で、長い間親子二人きりだったから忘れていた。そう言えば今この屋敷にはこの女もいたのだった。
 リューシャが今監禁されているのもこの屋敷のどこかだろう。ダーフィトは成人してからは自分の屋敷を持ちそこで生活していたが、ゲラーシムはずっとここで暮らしていた。もしも一緒にここにいれば彼が屋敷で企んだ悪事の数々も見張ることができたのではないかと考えていたダーフィトだが、目の前の女の姿を見て考えが変わった。
 ゲラーシムは息子であるダーフィトに甘いが、それでもここ一年で確実に家を出されたことだろう。この女と結婚するために。
 義理の母となった、自分と同じ年頃のこの女をダーフィトは気に入っていなかった。彼が十歳若ければ父親をとられる嫉妬だと誤魔化すこともできただろうが、そうではない。
 ダーフィトは単純に、ナージュという人物自体が気に入らないのだ。
 彼女の周囲の評判は決して悪いものではない。大人しやかな見た目で性格も偉ぶらないナージュは、ダーフィトの実母を知る古参の使用人たちですら受け入れているように見える。
 だが、ダーフィトだけは何故かナージュに対し、ずっと胡散臭いものを感じ続けていた。自分でも理由のわからない不快感が、彼女に対する自分の反応を先程父の執務室に押しかけた時以上に粗雑なものにさせる。
「話は聞いたのだけれど、本当ね。あなた顔色が悪いわ。今日は色々なことがあったようだから、ゆっくり休んで行って」
「……言われなくとも、そのつもりです」
 普段は人当たりが良いと言われているし、実際に自分でもそのようにありたいと常に心掛けているダーフィトだが、どうしてもナージュの前に出ると態度が強張る。いつもの彼を知る者が驚くぐらいぶっきらぼうな口調で、突慳貪な態度をとってしまう。
 正直に言えば、ダーフィトは、この女が父を誑かし王位を奪うよう唆したのではないかと疑っている。
 だが同時に疑問が残る。ゲラーシムが王位に近いと言われる所以は、ゲラーシム自身の王位継承権よりも息子であるダーフィトの存在あってのことだ。
 しかしナージュがもしも自らの子を産んでその子に権力を持たせたいというのであれば、ダーフィトの存在は邪魔だ。邪魔なダーフィトを殺して新たにゲラーシムの子を産んでから王位を奪えば良い。そうでなければ意味がない。
 それとも、生まれた子の権力には母方の身分も影響することを考慮して、ダーフィトをいいように王位を得る手駒とするつもりなのか。
 話としてはその方がしっくりくるような気がするのだが、その割にナージュはダーフィトに対して無関心に見える。愛情が感じられないのは当然のこととして、害意すら感じ取れない。ダーフィト自身は彼女に対して無礼すれすれの態度をとっているのに、ナージュはそんなダーフィトに対して作ったような良き後妻の仮面を向けるだけだ。
 おかしい。目的も思惑も見えない。だが彼女が本当にゲラーシムを心から愛して公爵家に嫁いだとは思えない。そのぐらいはわかる。
 一体ナージュの関心はどこにあるのか。
「ダーフィト」
 すれ違う寸前に腕をとられて振り向かされた。恐ろしいことに、武人であり気にくわない相手を前にほとんど警戒状態であったダーフィトが、咄嗟に気付くことも出来なかった。
 この女はやはり只者ではない。
 それでもナージュは表情だけは優しい女の微笑を貼りつけながら、意外な名を口にした。
「あなたはリューシャ王子のことについて、何か知っている?」
「……リューシャ? リューシャがどうかしたのですか? 陛下の殺害容疑で父上が拘束したとは聞いているが」
「ええ。それはそうなのだけれど」
 いつも台本に書かれた台詞を読むような口調の彼女にしては珍しく、ナージュは少し考えて口を開くようだった。
「あなたは殿下と仲が良かったというでしょう? 他の人が知らない話を、何か聞いていない?」
 先程執務室で父に訴えた事が脳裏を過ぎる。しかしダーフィトはそれを正直にナージュに伝える気にはなれなかった。
「再従兄弟とは言っても、俺はあいつにとって身近な人間とはなりえませんでした。事件のことだって後で簡素な報告書が回ってきたくらいで、残念ながら何も」
「そう……」
 それだけ言うと、ナージュは今度こそ挨拶をして自分から踵を返す。廊下を去るその後ろ姿に、ダーフィトは今まで考えもしなかった可能性に思い当たる。
 リューシャなのではないか。
 ナージュが気にしているのは、ダーフィトでもゲラーシムでも、ましてや公爵に取り入って権力に近づくなんてことでもない。彼女が気にしているのはリューシャ。
 その名を口にした一瞬、ナージュが見せた仄暗い光が忘れられない。闇夜に井戸の底を覗いてしまった時のような、今にもその深淵から得体のしれない化け物が這い上がってくるかもしれぬという恐怖。
 それは、これまでダーフィトが生きてきた中で決して知ることのない感情だった。