Fastnacht 02

008

「リューシャ……おい……リューシャ!」
 どうせまたセルマの声で目覚めるのだと思っていた。だが悪夢の外から呼びかける声は彼女のものではない。そして彼女以上に聞き覚えがある。
「……ダーフィト?」
 リューシャが目を開けると、ダーフィトとセルマが二人して彼の顔を覗き込んでいた。
 横たわっていた長椅子から上体を起こして周りを見回すと、まだゲラーシムに閉じ込められた部屋の中だった。体力のないリューシャはゲラーシムと口論した後、またもや眠ってしまったのだ。
 それでも、時間はあまり経っていないらしい。窓の外は薄闇が落ちようとしている。これは夕暮れか。日付が変わった様子はない。――まだ、父が殺されたその日の夕方だ。
 ダーフィトは勝手知ったる実家だ。見張りの目を盗むか誤魔化すかして入ってきたらしい。否、上手く言いくるめられるならば、誤魔化す必要すらない。
「ダーフィト! お前、どうして……!」
 父の仇であり自分自身をも罠に嵌めた公爵の息子の姿に、リューシャは一気に警戒心を募らせる。
「しっ、二人とも大きな声出すなよ」
 布包みを抱えたダーフィトはそれを開いて中身を見せる。
「私の剣!」
 軍学校時代から付き合いのあるセルマはダーフィトを完全に信頼している。すぐに手を伸ばして、奪われた自分の武器を腰に戻した。
「……何をしにきた?」
 半信半疑の疑り深い眼差しで睨みながら問いかけてくるリューシャに、ダーフィトは困った顔をして見せた。
「お前らを助けに」
「そうやって油断させる気か」
「いや、違うって」
 無理もない状況とは言え疑心暗鬼極まれりと言った状態の再従兄弟を説得するのは骨が折れるとダーフィトは肩をすくめた。そして悠長に話しこんでいる時間はないと、言葉よりも行動で示す。
 リューシャの手にもともと彼の持ち物である飾り短剣を押し付けると、自分は胸元から小さな鍵の束を取り出して窓へと近付く。専用の鍵でなければ開閉できない窓を開くと、二人を手招きした。
「三階だが、バルコニー伝いに角の部屋から降りられるんだ。子どもの頃遊んだから確かな話だぞ。たぶんリューシャ程度の身長でもさほど苦労せずに行けるはずだ」
「ダーフィト……貴様何のつもりだ」
 もはや聞かずともわかることを、それでもリューシャはあえて尋ねる。
「いいから早く来いよ。説明は後だ」
 ダーフィトはゲラーシムの息子。立場を考えれば明らかに敵である存在だが、彼がそういう人物ではないことはリューシャたちにもわかっている。神殿前で挨拶と祈りの言葉をかけてくれた再従兄弟の言葉に揺れるリューシャの背を押したのは、セルマだった。
「……行きましょう。殿下」
「だが」
「ダーフィトは恐らく信用できるでしょう。いざ戦闘になるにしても、この屋敷の中では敵の手の中にいるのと同じです。向こうが屋敷の外で特に私たちを殺す理由もないのですから、今脱出できる機会をふいにしてはなりません」
 疑るような表情をしていたリューシャも結局同じ結論に辿り着き、二人はダーフィトの手招きに従ってバルコニーから外へと出る。この屋敷で大人しくしていても、冤罪での処刑を待つばかりだ。例えこれが罠だとしても、扉周辺に兵士が詰めていないだけ処刑のために引き出される時よりは逃亡の好機である。
 貴族の屋敷の周辺には付き物の小さな森の中をダーフィトの先導で駆ける。狩猟用の小さな森だが、人目を誤魔化すにはここ以外にない。
「こっちだ。隣接した荘園の端に通じている」
 あの屋敷で育ったダーフィトにとって、この森は庭も同然だ。彼の導きに従って森を進むうちに景色が変わってきた。
 開けた丘の向こうに、長閑な田畑の広がる田舎村の風景が見える。
「ここから真っ直ぐに行けば、ロディーテ領だ。人目を忍ぶなら南の森に降った方がいいんだが、あっちは父上の手下の領地だからな」
 大貴族で王位継承権をも持つディアヌハーデ公爵ゲラーシムには、子飼いの貴族が何人もいる。相手が相手だけあって子飼いと言えど相当の権力を持つ名門貴族の当主なのだが、ダーフィトはそれらを「手下」の一言で言い捨てた。
「ロディーテ領を通る間に追手に掴まらなければ、国境を超えることも可能なはずだ。――逃げ切れよ、リューシャ」
 ダーフィトは一歩後ろに下がり、リューシャとセルマから距離をとった。
「ダーフィト」
 セルマが思わずと言うように手を伸ばす。しかしダーフィトが退いた一歩分の距離だけ、その手は届かない。
「俺は行けない。父を裏切ることはできない。俺は――」
 そこから先を続けることは、ダーフィトにとっても覚悟のいることだったのだろう。声が震えている。彼は泣きそうな顔で続けた。
「俺は、お前らの味方なんかじゃない」
 ダーフィトが本当にリューシャたちの味方になるならば、彼らを匿うこともできるはずだ。一緒に逃げることも、父親に全面的に逆らうことも。
 けれどダーフィトはそうしない。彼はリューシャたちを救いたい。命だけは助けようと思っている。けれどそれは、父であるゲラーシムに逆らってまでの行動とはならないのだ。
 ゲラーシムはリューシャに国王殺しの冤罪を着せることに成功した。このままリューシャが逃げ、この国に二度と戻って来なければゲラーシムの目的は達せられたことになる。
「ダーフィト、お前……」
 軍学校時代からダーフィトと付き合いのあるセルマが悲しげに表情を歪めた。彼女にとっては、ダーフィトはいつでも背中を預けられる大切な仲間だったのだ。このような形で敵対することを望んでいたわけではない。
「すまない、リューシャ。……本当にすまない」
 リューシャは嘆息して一度目を閉じる。仕方がない。ダーフィトに父親を裏切る道を強要はできない。彼には彼の人生があるのだから。そう思った。――だが。
 何かがその考えを引きとめている。
「――ダーフィト」
 今、彼と離れてはならぬ。わけもわからずただ心の奥底で、リューシャはそう感じた。
 その奥底は深淵すぎて、表層に伝わる頃にはそれは別の言葉となっていた。
「我と共に来い」
「リューシャ?」
「殿下?!」
 リューシャらしくもない行動に、誘われたダーフィトも傍らでその様子を見ていたセルマも驚きの声を上げた。
 リューシャが味方を欲することは珍しい。心の奥では望んでいても、神託がそれを許さなかったからだ。リューシャはいつだって独りで戦ってきた。
 総てを滅ぼす者。この国も滅ぼすのだと予言されている神託の王子は、どんなに庇ったところで仇を返す。
 リューシャの味方をするということは、いずれ必ずアレスヴァルド王国の滅びに力を貸すということ。だからリューシャへの憎悪は、翻っては古王国への愛情の裏返しだった。
 この国を愛する者ほど呪われた神託の王子を疎む。いつか全てを滅ぼす王子に、誰が味方したいと思うだろう。
 そしてリューシャ自身、自らの生まれた国を嫌ってはいない。
 だから愛する国を滅ぼすという覚悟を誰かに背負わせてまで味方を欲することはなかった。唯一の例外である護衛騎士セルマは国外の人間だ。彼女はアレスヴァルド王国のことなどどうでもよく、ただひたすらリューシャ個人に忠誠を誓うのみ。
 けれど今、リューシャはダーフィトに手を伸ばす。袖口から覗く白い掌にダーフィトの目線が釘付けとなった。
「我はやがて必ずこの国に戻る。アレスヴァルドを見捨てることはない。だがそれには、今ここにいるセルマと二人だけでは難しい。お前の力が必要だ」
「けど、俺は」
「父親を裏切れない。だから常に父の意志に従う。それは本当に貴様の望みなのか?」
「何?」
「ゲラーシムに心底賛同しているならば、我らを助けたりしないだろう。貴様は本当は、ゲラーシムの策謀を止めさせたいと思っている。違うか」
「ち……」
 違わない。そのことは誰よりも、ダーフィト自身がよく知っている。だが、と彼は苦しげに声を絞り出す。だが、リューシャ、俺は。
 いくら非常事態だって――否、非常事態だからこそ、何故悠長にこんな話をしているのだろう。
 リューシャの青い瞳は告白を促す。誰にも知らせずに胸の奥に秘めて封印していた感情を引きずり出し曝け出させるのだ。まるで断罪の刃のように。
「この世界で俺を本当に必要としてくれるのは、父だけだ。俺はあの人を見捨てることはできない。それでは俺自身が生きていけない」
 父親が間違っているなんてこと、ダーフィトだとてわかっている。
 ずっと前からその妄執に気づいていた。それでも、父を止めることができなかった。
 この世界で彼を見捨て、彼に見捨てられたらダーフィトは独りだ。
「リューシャ。俺はお前の影だ。不吉な神託の王子が本来こうあるべきだった王子の影」
 優秀でなくていい。有能でなくていい。そのぐらいならば臣下が補える。健康で快活で呪われていない、普通の王族ならそれで十分。
 リューシャに対する失望の分だけ、ダーフィトへの期待は大きくなった。
 けれどそれは中身のない仮初の期待。
 リューシャが呪われた神託を授からなければ、誰もダーフィトのことなど見向きもしなかった。それもわかっている。ダーフィトは確かに王の血縁ではあるが、王位を狙うには遠すぎる。彼がそれでも期待されるのは、リューシャという呪われた王子の存在のため。
 王位を狙うこともできない普通の貴族の青年であれば、ダーフィトの性格は今とまるで違うものになっただろう。リューシャだって同じことだ。神託の影響がなければ彼は生活そのものががらりと変わるはず。
 ならば、自分の存在は一体何なのか。
 ダーフィト=ディアヌハーデと言う存在は、常にリューシャ王子のおこぼれの期待や悪意に左右されるだけ。彼自身が自分の力で手に入れたものは少なく、彼個人を無条件に愛してくれるのは実の父しかいない。――ゲラーシムはだからこそ、リューシャを廃してでもダーフィトを王位につけたがったのだから。
 もちろんダーフィト自身は自分の剣の腕や他の能力に自身を持っている。だがそれとこれとは別だ。
 ダーフィトの腕は誰もが評価するが、その評価とダーフィトを王位につけたがる周囲の気持ちは無関係だった。人々はリューシャが呪われた王子であればこそダーフィトがどのような人物でも玉座に望み、仮にリューシャが普通の王子であれば血統を重視するアレスヴァルドではダーフィトを王にすることなど冗談でも口にする者はいなかったに違いない。
 影は光の中に立つ者あってこそ生まれるもの。どんなに濃い影も、決してその本体を先回りすることなどできないのだから――。
「我が必要とする」
 ダーフィトに向けて差し出したリューシャの細い手。
 吹く風が剥き出しの肌を冷やしていく。その手はいつだって、自分を温めてくれる温もりを待ち続けていた。
「我が貴様を必要とする。ダーフィト=ディアヌハーデ」
 再従兄弟たちは初めて、“エレアザル王の息子”、“ゲラーシムの息子”ではない“リューシャ”と“ダーフィト”個人として向かい合った。
「我は人を簡単には信用しない。できない。あの神託を授けられて生まれた以上、どこに敵がいるかもわからない。いつ誰が我を害そうとするかもわからない。そして我は、この国の誰よりも無力だ。だが、だからこそ」
 視線が絡む。リューシャの青と、ダーフィトの碧が交錯した。
「お前を、必要とする」
 全身全霊でその存在を欲する。どんな些細なことでも、きっと自分よりうまくやるだろうダーフィトを。
「必要とする者こそがお前にとって必要なら、我がお前を必要としてやる。無力だからこそ人を簡単には信じない我が。無力だからこそ、他の誰よりも必死でお前を必要とする」
 リューシャの言っていることは滅茶苦茶だ。
 だがダーフィトは、そう思うと同時に胸が熱くなる自分を感じる。
「貴様の全てを必要としてやる! だから貴様は、我を必要としろ!」
 これだけの強さで、無条件な愛情でもなく、中身のない期待でもなく、ありのままの自分の力を必要とされたことは初めてなのだ。
「リューシャ、俺――」
 しかしダーフィトがそこで自らの心情を吐露することは叶わなかった。
「――見つけた」
 三人は弾かれたように声の方を振り返る。硝子の鈴を鳴らしたような女の声が、これまでの空気を切り裂き新たな緊張感を場にもたらしたのだ。
 追手?! だが、いつの間に?!
「追いかけっこは終わりです」
 凛とした声はリューシャたちの耳を打ち、全身を戦慄させた。