第1章 運命の歯車
3.果てなき逃亡
009
ダーフィトがその名を叫ぶ。
「ナージュ!」
突如として背後に現れた女の姿に、三人は驚きを隠せない。
長い青い髪の、神官のような格好をした女。年齢はセルマやダーフィトと同じぐらいに見えるが、彼らのような若者らしくない不思議な落ち着きがある。
ダーフィトの叫んだ名とその様子から、リューシャはそれが一年近く前にゲラーシムの後妻に入った女だと思い出した。昼にゲラーシムと顔を合わせた時、一緒に部屋の中に入って来たのも彼女だ。
「どうしてここが……」
ダーフィトが言いかけて言葉を呑みこんだ。そんなことを聞いている場合ではない。未だ彼女以外の影は見えないが、包囲されているのであればすぐに逃げなければ。
セルマがダーフィトに渡されたばかりの剣を抜き、構える。丸腰にも関わらず、ナージュには動じる様子の欠片もない。
「殿下、騎士殿、ダーフィト。三人とも屋敷に戻ってもらいますよ」
「断る、と言ったら?」
ダーフィトの目には、ナージュの態度はいつもと変わりないように見える。だが表情はそのまま、瞳の奥の光だけが酷く冷たい。
その酷薄さはダーフィトでもセルマでもなく、ただただリューシャに向けられている。敵意を向けられている当人のリューシャも気づき、青い髪の見慣れぬ女を睨み付けた。けれど一瞬後、違和感に気づく。
見慣れぬ?
確かに初対面のはずなのに、リューシャは自分自身のその感覚に不調和を覚えた。
(我はこの女を知っている……? いや、そんなはずはない……。だが……)
昔から敵の多いリューシャは、人の顔や名前を覚えることが得意だ。元々の才能と言うより、さまざまなコツを見つけ出してあえて身に着けた特技だった。一度会った相手が自分に対してどういう反応をとり、誰と繋がっているのかを見抜くことができなければ、死活問題だからだ。
リューシャにとってナージュという女は今日が初対面。そのはずだ。ゲラーシムの再婚相手は名前こそ知っていたが、顔は見たことがない。
なのに目の前の女に、いつかどこかで会った気がする。それもここ一年やそこらというわけではなく、もっとずっと、遠い昔のような。
「――貴様は、一体何者だ?」
自らを庇うダーフィトとセルマを押しのけて、リューシャは前に出る。ナージュと真正面から向き合い、その表情の動き一つさえ見逃さぬようきつく睨み据えた。そのただならぬ様子に、庇おうと動きかけたセルマたちも思わず動きを止める。
知っている。何故かはわからないが、自分は確かに、この相手を知っている。
「おやおや。よもや、この私を忘れるなんて」
「何?」
底知れぬ笑みを浮かべたナージュの目に、もう見間違えようのない酷薄さを宿した光が浮かぶ。その感情の名も、リューシャは知っている。
これは憎悪だ。
だが何故? 知り合いかどうかですら定かではない相手に、こうして憎悪を向けられているのだろう。ナージュの浮かべる感情はこれでも抑えたもののようで、その根は恐らく外に出ている以上に深い。
これはリューシャが呪われた神託の王子だとか、王位をダーフィトやゲラーシムと争っているだとか、そう言った意味での恨みや憎しみではない。
ナージュの抱く憎悪は復讐者のそれだった。彼女はリューシャを己に不都合な相手と見ているのではなく、過去の確固とした経験から明白にリューシャを憎んでいるのだ。
だが、リューシャにはわからない。
滅びの託宣に関する憎悪ならば比較的慣れている。彼らが憎むのはリューシャという個人ではなく、あくまでもやがて国を滅ぼす託宣の王子に対する憎悪だ。リューシャではなく別の誰かがその立場であったならば、矛先は容易にそちらへと変わる。
けれどナージュが憎むのは、神託の王子ではなくリューシャ自身。
一体彼女と自分の間に何があると言うのか。自分でさえも知らないところで。
繰り返し見る夢の中、焦がれる銀髪の少年に対するものと正反対だが、感じる距離の長さは似ている。知っているのに知らない、知らないはずなのに知っているというこの感覚。
あなたは一体、自分にとって何なのか。
「私が何者かは、お前自身が一番よく知っているはず」
冷めた瞳でナージュは告げる。その言葉は公爵妃が世継ぎの王子に使うものでもなければ、貴族が罪人となった王子を見下すものでもない。
ただ、個人から個人に対する、ナージュからリューシャに対する憎悪と侮蔑。理由もなく形だけは明確な敵意。
「まだ完全に目覚めてはいないのか。お前はまだお前自身ではない」
「我が……何だと?」
ナージュの顔から表情が削げ落ち、急に無機質な仮面でも被ったかのようだ。そうしていると彼女はますます高位の神官か何かのように見え、ただの人間と対話をしているようには思えない。
まるで大神殿で託宣を受ける時のような静謐な緊張感に、リューシャは無意識に喉を鳴らして喘ぐ。
嫌な圧迫感。この感覚も知っている。自分自身でさえ知らない記憶の中で、よく似た誰かが……。
「リューシャ!」
「!」
そこで視線の呪縛は解けた。強引に手を伸ばしダーフィトがリューシャを背の裏に庇う。
セルマもすでに剣を抜き臨戦体勢だった。ダーフィトを盾にいつでも死角から飛び出してナージュを斬れるよう構えている。
「どういうことだナージュ! あんた、リューシャと知り合いなのか?!」
立場上彼女の義理の息子にあたるダーフィトは、義母を問い詰める。何せ数時間前に話した時には、ナージュはそのような素振りを一切見せなかったのだ。
それにこのことを、ゲラーシムは知っているのか。ナージュがそれをゲラーシムにも知らせているのかいないのかで、彼女に対する警戒が大幅に変わる。
ナージュの目的がリューシャであるならば、ゲラーシムに近づいた理由は何だ。二人は共犯者なのか、それともどちらかがどちらかを利用している関係なのか。
「知る必要はない。ダーフィト。あなたは“ただの人間”だから」
「どういう意味だ。俺はディアヌハーデ公爵の息子、ゲラーシムの息子で」
「それが一体何だと言うのか。私にはそんな事情関係ない」
ナージュの冷めた眼差し。
それがようやく、相手を自分と対等な立場の生き物だと見ていないからだと気が付いた。
ナージュが他者に向けるその眼が心底恐ろしいのは、まるで人が今から蛙を踏み潰す時のような目で相手を見ているからだ。
「ダーフィト、あの女の言うことは聞くな!」
「リューシャ……」
先程の自分と同じような状況に陥りそうなダーフィトに、今度はリューシャが声をかける。リューシャもダーフィトとナージュのやり取りを外から見て気づいた。彼女の言葉には、人を惹きこみ惑わせる何かがある。
「一つだけ聞きたい」
ダーフィトの背に庇われ油断なく警戒したまま、リューシャはナージュに問いかけた。
「貴様は、人間ではないのか」
ナージュは、これまでの見下すような静謐な笑みから一転、にっこりと満面の笑顔を浮かべた。
まるで、“正解だ”とでも言うように。
「セルマ!」
「殿下、お下がりください!」
それ以上悠長に考えている時間はなかった。剣を構えるダーフィトとセルマにも構わず、ナージュがこちらに歩み寄ってきたからだ。
「聞き分けのない子には、お仕置きが必要ですね」
無造作に伸ばされたその手の先に集まった光に、三人は目を剥いた。魔術! この魔術師を忌み嫌うアレスヴァルド国内で?!
放たれた光の矢を、進路上にいたダーフィトとセルマは咄嗟に避ける。彼らの後方で森の木々がバキバキと倒れる音が響いた。
「な……」
「嘘だろ?! あんなの一撃でもまともに食らったら死ぬだろうが!」
ナージュは魔術の光を放つのに、呪文の一つも必要としていなかった。魔術の知識に疎いアレスヴァルド人であるリューシャたちにも、彼女が相当な手練れだということだけはわかった。
「殿下を頼む」
「セルマ!」
リューシャをダーフィトに引き渡し、セルマが仕掛ける。駆け込み真正面から攻め込むと見せかけて下に屈みこみ、ナージュの一撃を躱した。
「!」
一瞬視界から消えたセルマをナージュが目で追う頃には、下から突き上げるように伸ばされたセルマの剣が迫る。しかし完全に不意を突いた一撃を、ナージュは辛くも躱した。
白い肌の顎から頬にかけて浅い傷が走る。ぱっと火の粉のように飛び散った血にも、ナージュは構わない。
彼女が反撃の手を伸ばそうとする頃には、セルマは後方に退いて十分な距離を取っていた。先程の魔術を使われれば厄介だが、自分一人だけなら躱すことができると確信しての距離だ。
セルマは隙なく剣を構え、再び踏み込む。
「お、おい……っ!」
慌てたのはリューシャを抱えたまま二人の女の戦いを見守るダーフィトだった。確かにナージュの力は厄介だし追手なので振り切らねばならないが、殺してしまえというわけにもいかないのだ。彼女はディアヌハーデ公爵妃で、ダーフィトにとっては義母にあたる。いくら国王殺しが冤罪だとしても、公爵妃に深手を追わせては罪は免れない。
「セルマ! 一度退け!」
ダーフィトの危惧を慮ったわけではないが、リューシャも己の騎士に制止の言葉をかける。セルマはいつでも反撃に移れるよう緊張感を保ったまま、一度リューシャたちのいる場所まで撤退してきた。