010
「殿下、いかがなさいますか」
傍に来た己の騎士の目を見て、リューシャも相手がどれ程手強いかを知る。剣士と魔術師という属性の違いがあるとはいえ、この国一番の剣の使い手であるセルマがここまで厳しい表情をすることは滅多にない。
「セルマ、何か気づいたことはあるか?」
「あれは本当に女なのでしょうか。あえて顔を狙ったのですが、斬った時に少しも動揺しませんでした。暗殺者でも女なら顔が傷つくと少しは動揺するものなのですが」
そうでなければ余程の手練れだと。しかしセルマはこうも続けた。
「ですがあの女には、刺客特有の空気を感じません。手口は堂々としていて素人のようなのですが、私の剣を躱した時は反射で体が動いたようです。矛盾しています」
「何せ人間ではないらしいからな。お前の世界の常識など関係ないのだろう」
先程のナージュの表情を思いだし、リューシャは苦々しく吐き出した。
人間ではない、とは様々なことが考えられる。フローミア・フェーディアーダに棲息する無数の種族の中には、限りなく人間に近い姿の生き物も多い。
だがそれらの種族がどのような思惑でアレスヴァルドに――ここにいる自分たちに関わってきたのかはわからない。
これはやはり、リューシャに与えられた神託のせいなのか?
考えている時間はなかった。ナージュの目的がなんにせよ、敵に回すと厄介なのは確実だ。ここはどうにかしてその手から逃れる方法を考えねばならない。
だからこれは本当に気になって質問したわけではなく、ただの時間稼ぎだ。
「ナージュと言ったか。お前の目的はなんだ。我を殺すことか」
むしろそれしかないだろうという質問だが、返された言葉は意外にも否定だった。
「いいえ。そんなつもりはありませんよ」
リューシャたちは目を瞠る。
「ならば何故……」
「そんなもの、どうだっていいでしょう。私はただの見届け人。貴方がこの先どのような道を選ぶのか、それを見届けるのが役目です」
「見届けるって、思いっきり手出ししてるじゃないか」
呆れたようにダーフィトが口を挟む。リューシャはそれを片手で制した。
「そんなことはどうでもいい。それよりも――役目ということは、それを誰かに命じられたんだな? 貴様の背後にいるのは誰だ」
「この圧倒的に不利な場面で、よくもそれほど堂々としていられるものですね。いいでしょう――私に命じられる者なんて、今この世には存在しませんよ。私は志願してやってきたのです。貴方の行く末を見届けるために」
行く末? 見届ける?
ゲラーシムの追手に捕まれば、リューシャが処刑されるのは間違いない。ならばナージュの言う行く末とはなんだ。
それはやはり、いずれ全てを滅ぼすという宿命のことなのか?
どちらにしろリューシャは目の前の女にも、ゲラーシムにも、ましてや宿命なんてものにも従うつもりはない。
「でもゲラーシムの妻としてこの国に入り込んだからには、そちらの役目もきちんと果たさねばならないでしょうね」
無駄話は終わりだと、ナージュは再び片手に光を集め、矢としてつがえた。
「降伏しなさい。大丈夫です。今ここで心を入れ替えるのであれば、私からゲラーシムにとりなしてあげますから……」
穏やかな笑みを浮かべながらも、かするだけでも瀕死の重傷を負いそうな物騒な術の用意を見せつける。その手を今度はリューシャの方へと向ける。
そこに、一瞬の隙があった。
視線をナージュに固定したまま、リューシャは片手で懐から小さな石を取り出す。
「なっ……!」
「いまだ! 走れ!」
この至近距離ならば、運動が苦手なリューシャもナージュの足下に煙幕弾を投げ付けることができる。足元で弾けた塊から吹き出す煙に、魔術師は集中を切らして術を散らした。
それを合図としてリューシャとセルマが、遅れてダーフィトが駆け出す。
「くっ!」
リューシャの投げたものは、薬草と火薬を混ぜ込んで改良した煙幕の一種だ。煙を出すのに一定以上の衝撃を与える必要もあることから、投擲武器を兼ねて小石のようになっている。
自分の身を守る術を持たないリューシャは特にこれを服の装飾として改造させて持ち歩いていた。
吹き出す煙にナージュが咳き込む間に、三人はとにかく彼女から距離をとる。足の遅いリューシャは、半ばセルマに引っ張られるような形になりながらも懸命に走る。
「あの石の効果はそうもたないぞ! どうする、リューシャ!」
勢いで一緒に逃げてしまっているダーフィトが走りながらリューシャに聞いた。
彼らが走る道の横では多くの作物が育てられているがそれらは背が低く、何の目隠しにもならない。しかも徒歩である以上、馬などの移動手段を使われたらあっさりと追いつかれてしまう。
田畑に逃げるのは得策ではなかったが、ナージュの目をくらますために再び森に潜んでも、ディアヌハーデの兵士に見つかってしまっては意味がない。
それでもリューシャはまだ諦めてはいなかった。最終手段として封じていた奥の手を懐で探る。今なら十分にナージュから距離をとった。周囲に人もいない。この手段を使うには好都合だ。
ダーフィトへと視線を移す。ここでリューシャたちに手を貸せば、本当に父への反逆となる彼に。
「ダーフィト!」
「リューシャ、俺は……」
それでも手を差し伸べる。
いまだ迷いを振り切れないダーフィトが躊躇ううちにも、せっかく用意した煙が晴れてしまいそうだ。永遠とも思える一瞬が過ぎる。殺すつもりはないと言っていたが、ナージュのあの魔術なら、下手をすれば一瞬で命を刈り取ることもできるだろう。
その一瞬のうちに、ダーフィトの脳裏にあらゆる記憶と想像が巡る。父の事、国の事、そして目の前の少年の事。留まる理由はある。むしろそればかりだ。けれど――。
「我と共に来い!」
けれどもう一度その言葉を突きつけられた時、反射的にダーフィトはその手を取っていたのだ。
自分の手の中にすっぽりと収まってしまう、滑らかで小さな手。その手に、文字通り自らの全てを預ける。
リューシャが懐からもう一つ、魔道具を取り出した。咄嗟の判断で慌てて飛び込んできたセルマが彼の体に触れたところで、発動させる。
ようやく彼らに追いついたナージュが見たもの。それは転移の魔弾により光の塊となってこの場を離れる三人の姿だった。
◆◆◆◆◆
「なんということだ……ダーフィト閣下がリューシャ王子に誑かされるとは……」
「ああ。我が息子ダーフィトは私を手伝って屋敷にいたのだが、転移の魔道具で逃げたというリューシャ王子にそのまま連れて行かれてしまったのです」
ゲラーシムの顔色が悪い。これは演技ではなく本当だった。
誰よりも大事にしていた最愛の息子が、彼を裏切って罪人の王子と逃げたことによる心労だ。
ナージュから報告を受け取って以来、ゲラーシムはすぐに行動を開始した。王都に常駐している貴族たちを集め、国王代理としての自分の権威を認めさせたのである。
「お気の毒です。ゲラーシム閣下。ダーフィト様は、リューシャ王子よりもアレスヴァルドの次期王として望ましいと言われていた方でありますのに」
アレスヴァルド内にも貴族間の派閥争いがある。ゲラーシムを支持する一派、彼に反目する一派。ゲラーシムたちとはまた別の者が王位に立つ事を望む一派など、どこの国もそうであるように権力争いにこと欠かない。
「そう、あれほど王に相応しい青年も他におりませんでしたのに」
「ええ。まったく」
よって、貴族たちの語る言葉の全てがゲラーシムに対して好意的なものとはなりえない。あらゆる手段を用いて王位に着こうと画策するゲラーシムをあてこすったそんな台詞を向ける者たちもいる。
息子のダーフィトならば認めてやるが、貴様などいらぬのだと。しかしゲラーシムは譲るつもりはなかった。
王が亡くなった以上、国を取りまとめる存在は必要だ。まずは王位継承者の端くれとして国王代理として務めることを、貴族たちが会議に使う一室で宣言する。
「陛下が弑され、リューシャ殿下がああいうことになった以上、誰かがこの国を治めねばならない」
「それが、ディアヌハーデ公爵、卿ですと?」
「エレアザル陛下の従兄弟として、私にも責任がある。現在の国内の混乱を治め、民に愛されし王を失った糾弾を一手に引き受ける人物が他にいるというのであれば別だが」
あらゆる要素を考えると、現在のアレスヴァルドにおいてゲラーシムに血統の上でも、能力の上でも敵う者はいないと思われた。
そう、例え呪われた託宣を受けたとしても、アレスヴァルド王国の正統後継者、リューシャ=アレスヴァルド王子以外には。能力は別にしても、唯一の世継ぎの王子を差し置いて他の貴族が王になることはない。だがそのリューシャは現在父殺しの嫌疑を掛けられたまま逃亡中で行方不明である。
ゲラーシムは室内の貴族たちを見回して声をあげる。
「エレアザル王の喪に服す一年の間は、私は国王代理を名乗ろう。それ以降はどうするべきか、再びここに集まった皆で話し合わねばならないだろう」
一年経ってもこの状況は変わらない。自分以上に王位に近づける者はいないだろうというゲラーシムの自信に溢れる発言だった。
そう、リューシャ王子がこの一年以内に王殺しの汚名を雪いで再びこの国に現れでもしない限り不可能だ。
「それでは皆々様、すべてはこの、アレスヴァルド王国のために」
「「「王国のために」」」
唱和が響く。茶番における虚ろな誓いは、今この瞬間をもってその効力を発揮したのだ。