Fastnacht 03

011

 落ちたのはどこか森の中だった。
 元いたアレスヴァルドのディアヌハーデの館周りの森とは生えている木が違う。下生えの色も違うし、生き物の気配も違う。
 やや寒冷よりの温暖な気候のアレスヴァルドとは違い、この森の植物は熱帯のものに近い。辺り一面に生い茂る植物は水っぽく、気温が高くて汗ばむくらいだ。
 アレスヴァルドの鬱蒼とした森の様子に慣れた目には、真昼の燦々とした陽光が木漏れ日となって緑の影を落とす光景が不思議に見えた。生える木々の種類が違うだけで、同じ言葉で表される土地の雰囲気がこんなにも違うのだ。
 ここは一体どこだろう? アレスヴァルドの近隣の国々に、このような気候の地があっただろうか。ここがどこだかはわからないが、少なくともアレスヴァルド国内ではない。それだけは確信できる。それほどこの地の空気は、祖国のある地域とは違った。
 それでも物騒な魔術を使うあの女――ナージュから逃れられたという安堵で、三人は深く息を吐いた。
「はぁ……」
 リューシャが隠し持っていた魔道具によって一瞬で長距離を移動したはいいが、ここがどこかもわからない。
 当面の敵となるゲラーシムもナージュもディアヌハーデの兵士もここには現れないが、その代わりどんな猛獣や蛇や毒虫などに出くわすかもわからない。
 現在地がわからないことにはどうやってアレスヴァルドに戻ればいいかわからないし。わかったところでこの場所からアレスヴァルドに戻るには、もしかしたら何年もかかってしまうのかもしれない。少々の金目のものくらいは持っているが、旅用の道具はおろか食料の一つさえ携帯していない。
 それどころか、この森の中から無事に人里まで出られるかどうかわからない。木々の茂みの中からいつ猛獣が飛びだしてくるかもわからない。
「おいおいリューシャよ……どうしてくれるんだこの状況?」
 湿気は多いが、よく日の当たる地面はしっかりと乾いている。そこに情けなく座り込んで長い髪をかきあげながら、ダーフィトがまず口を開いた。
「どうにもこうにも、どうにかこうにかするしかないだろう。我はアレスヴァルドへと戻らねばならぬ。どんな手段を使ってでもな」
 具体的な策は何一つないにも関わらず、リューシャははっきりそう言った。
「貴様は我を選んだのだろう、ダーフィト」
「ああ……」
 直前まで迷っていた。それでも来いという言葉に、手を伸ばしたのはダーフィト自身だ。
「ならば我に従え。必ず戻るぞ、アレスヴァルドへ。セルマ、お前もだ」
「ええ。殿下」
 リューシャの唯一の従者であるセルマが彼の傍らに跪いて頷く。
 しかしダーフィトは、髪をかきあげた手を離して渋い顔になった。
「本当にアレスヴァルドに戻るのか? リューシャ」
「不満か?」
「不満というわけじゃないが……本当にそれでいいのか? 国に戻っても、お前に与えられた神託は変わらない。かけられた冤罪を晴らすのだって困難だ。――それなのに、戻るのか?」
 つまり、このまま逃げてしまえ、ということだ。
 ただし無責任で言っているわけでもない。ダーフィトの目には、生まれながらに呪われた神託を授かり受難の生を歩むことになった再従兄弟を案じる想いが確かにある。
「なぁ、リューシャ。お前は王子ではないただの子どもとして生まれてきたかったと思うことはないのか? もしここがアレスヴァルドから相当離れた地域なら、お前のことを知る者は誰もいない。神託そのものを信用しない国だってある。今なら自分に不都合な何もかもをなかったことにして、やり直すことだってできるんだ」
 呪われた神託の為に、リューシャはこれまで窮屈な暮らしを強いられ続けてきた。だが、アレスヴァルドのように生まれた子の人生を神託によって占う伝統がある国は大陸にもそう多くはない。例え同じ神託を持って生まれて来ても、それを知ることもなく一生を終える可能性だとてあったはずだ。
 仮にアレスヴァルドでそのように生まれたとしても、あるいは王子ではなければリューシャの運命は変わっていただろう。褒められた話ではないが、不吉な神託を与えられた子をその瞬間に殺してしまうという話はないわけでもない。残酷な話だが、その場合苦しみは一瞬で終わる。
 無能になるよう育てられながら、その無能を責められる。そんな理不尽な環境に長年身を置くことは、リューシャがアレスヴァルドの王子として生まれたのでなければありえなかったはず。
「……その思考に至る道筋は違うが、お前はやはりゲラーシムの息子だな、ダーフィト」
 意味合いは全く違うが似たような取引をゲラーシムに持ちかけられたことを思いだして、リューシャはこれ見よがしに嘆息してみせる。
「やっぱり、親子ってことなんだろ。俺も父上も、神託なんてものを信用していないんだ。名ばかりで地上の人間を救うこともない神様に何ができるってね。侯爵を廃業しても、生憎と俺に聖職者の道は向きそうにないよ」
「誰もお前にそんなことは求めないから気にするな」
 軽口を叩きながらも、歳の離れた再従兄弟同士は与えられた宿命について憂慮する。
 逃げてしまえ、とダーフィトは言う。捨ててしまっていいのではないか、とリューシャ自身も思う。セルマにいたっては最初から王国の運命などどうでもよく、リューシャが来いと言えばどこへだってつき従うだろう。
 逃げてしまえばいいのではないか。
 かの国にリューシャの帰還を望む者は誰もいない。リューシャという少年を待っていてくれる人間も、世継ぎの王子に期待をかける人間もいない。
 ダーフィトが国に残ればまた違っただろう。少なくとも彼は王子ではないただの再従兄弟としてのリューシャを案じている。けれどその彼もここにいて、ダーフィトと別れて彼だけが国に戻ることもできるのだ。
 ゲラーシムは為政者としての能力は高い。彼の領地はその血筋に応じた広さを持つが、それら全てをゲラーシムは見事な手腕で治め、受け継いだ時よりも発展させている。
 そのゲラーシム以上の手腕をリューシャが持っているはずもなく、例え簒奪者であろうとゲラーシムを玉座から退けることを望む民はいないだろう。エレアザル王は暗君でこそないものの、ゲラーシムより政治的手腕は劣っていた。
 リューシャがアレスヴァルドに戻っても、混乱を巻き起こすだけだ。
 それでも戻るのか、と。
「我は――少なくとも我に与えられた神託を信じている。それがどういう意味かはまだわからないが」
「それなのに、戻るのか?」
 ダーフィトの言葉に責める響きを聞くのは、リューシャ自身が誰よりそう考えているからだろう。
 それではまるで、神託を成就させるためだけに、祖国を混乱に陥れ滅亡させるためだけに戻るようではないか、と。
 それでも。
「だが我は必ず戻る。あの国でまだなすべきことがある」
「何をなすと言うんだ?」
「わからない。ただお前を引きとめた時のように、我はあの国に戻らねばならないと、誰かが内側で叫ぶのだ」
「リューシャ……?」
 ダーフィトがいよいよ狼狽する。リューシャの発言の意味が、彼にはわからないのだ。
 自分の中だけにある感覚を他人に伝えるのは難しい。少し考えればわかるようなことでも、人は自分大事で他人のことに関してはすぐに鈍感になれる生き物なのだ。そしてそうしなければ生きていくことすらできない。憐れでか弱い生き物。
 だからと言って感情を伝えることは放棄しても、自らの意志を伝えることまで放棄する気はリューシャにはない。
「まぁ、そうでなくとも我は戻るがな。やられっぱなしは性に合わん。ゲラーシムに一泡吹かせるまでは、意地でも死んでなどやるものか!」
 今度の言葉はダーフィトにも通じた。年上の再従兄弟は呆気にとられた顔をしていたが、次いで軽く噴き出しながら言った。
「お前らしいよ」
 と――。

 ◆◆◆◆◆

 答は出たのだ。否、道など最初から決まっている。
 歓迎されない帰還のために、リューシャは長い長い道のりを歩むことを決意する。
「リューシャ」
 歩き出す前に呼吸を整え精神を落ち着けるために三人は少し休みを取った。ここは気候から言ってアレスヴァルドから遠く、まるで知らない場所だ。
 その間中沈み込んだ表情をしていたダーフィトが、すっくと顔を上げリューシャに告げた。ようやく気持ちを切り替えたようだ。
「どこまでできるかはわからないが、俺は父上を説得するよ」
 ゲラーシムが罪の全てを償うことは、もう不可能だろう。死人は還らない。リューシャを嵌めるためだとしても、そのためにゲラーシムは自らの従兄弟でもあり主君である国王の命を奪ったのだ。
 だが未来にこれ以上罪を重ねないよう、父を説得することはできるとダーフィトは言う。誰かを傷つけたその力を、王国の為に使うことはできる。今までだってずっとそうしてきたのだ。その場所に立ち返るだけだ。
 リューシャが国に戻ると言うのであれば、その居場所を奪ったゲラーシムのことは必ず問題になる。何かの手段で、ゲラーシムを排除しなければならない。だがそれをするならば、自分に彼を説得させてくれとダーフィトは頼み込んだ。
 リューシャの父を殺した自らの父を見逃せとは、虫のいい話ではあるがと詫びながら。
「それでいい。ゲラーシムの内政能力自体は、アレスヴァルドに必要なものだ」
 ゲラーシムのことで、リューシャは一つだけ気がかりなことがある。
 もともと滅亡の王子であるリューシャではなく、ダーフィトに王位をという話はあったのだ。リューシャの成人まではまだ数年ある。そして成人云々に関わらず、リューシャが王位を継ぐ可能性は世継ぎの王子でありながら恐ろしい程低かった。
 あのままでも人格的、能力的にはもちろん何より神託的に問題のなかったダーフィトが王位を継ぐ可能性の方が高かったのに、何故ゲラーシムは急いて事を起こしたのか。
 長い青い髪の残像が過ぎる。長い間男やもめを通していたゲラーシムの突如の再婚と、恐らく人外であるナージュと言う名の女の存在。
 ゲラーシムがナージュに唆されたり、洗脳されている可能性はあるだろう。リューシャが見た限りゲラーシムは自分の意志で行動しているように見えたし、操られるにしても元々ゲラーシム自身の中に王位の簒奪に関する欲望があったに違いないが、それでもナージュの存在なしにゲラーシムが行動を起こしたかどうかはわからない。
 それが確かであれば、やはり何を差し置いてもかの国に戻るべきなのだろう。
「我はリューシャ=アレスヴァルドだ。何処にいても、どのように生きても、それは変わらない」
 運命は彼を逃がしはしない。このまま何もかも捨てて逃亡するのが一番だとわかっているのに、祖国には気がかりが山積みだ。
「だから必ず帰るぞ。我々の故郷に」

 そして、リューシャ=アレスヴァルドの運命が始まる。