012
『――むかし、むかし
創造神がかつて名を持っていた頃、かの方はその強大な力を持って世界と数多の神々、数多の種族、そして人間を作り出した。
創造の母の子たる神々は長兄である太陽神フィドラン、長姉である月神セーファを中心に協力して、生き物たちが暮らしやすいように世界の形を整えた。
フィドランが目覚めを促し、セーファが眠りを与える。大地神ディオーは様々な植物を生み出し、自らの力を分けて花神を作り上げた。海神アドーラは海とそこに住まう生き物を管理した。癒しの神ネルクが生き物たちの生活を支え、その終わりには冥神ゲッセルクが役目を終えた命を永遠の夜の国へ連れていく。そして創造の神が創り出し、神々の末子たる破壊神が壊す。
しかしこの世の平和は永く続かなかった。快楽と背徳の神、悪神と呼ばれたグラスヴェリアが神々の作り上げた平和を退屈に思い、セーファの領空たる夜空から悪意の星を一つ盗み出し、それを一人の人間に与えたのだ。
グラスヴェリアに悪意の星を与えられた者は辰砂と名乗る魔術師だった。辰砂は生来の魔力に加え神々の力の一部を手に入れたことにより、神々にも匹敵する実力を手に入れた。やがて彼は自らの力が神よりも優れていると驕り高ぶるようになり、世界を作り上げた創造神へと戦いを挑んだ。
辰砂の力は人とも思えず強大であり、彼はついに世界の母たる創造神からその「名」を奪った。しかし母神を守るために集まった神々の一人、破壊神と相討ちになり、彼自身も多くの力を奪われた。
創造神は名を奪われたために永き眠りにつき、創造の神と対の存在である破壊神も母神と同じく名を秘されて眠ることを余儀なくされた。辰砂は多くの力を破壊神に奪われたが創造神から奪った力で不老不死となり、今もこの世界のどこかで生きていると言われる。
創造神の名と力を奪った辰砂はこれ以後“創造の魔術師”と呼ばれることになった。
神々は母神の眠りを嘆き悲しみながら、創造神がいない分の世界の均衡を保つ役目につき、いつの日にか来(きた)るはずの創造神の目覚めを待つことにした。
――フローミア・フェーディアーダ神話 神々と創造の魔術師 』
◆◆◆◆◆
彼は眼下に広がる森を眺めながら呟いた。
「これで終わりだ」
息は荒く、全身は疲労に満ちている。何かが燃えた焦げ臭い匂いを、吹きすさぶ風が洗い流していった。晴れ渡った青い空に不釣り合いなほど、重苦しい嵐の気配。
つい先程、彼自身の手でとどめの一撃を加え、眼下の森林に叩き落とした相手は強大な力を持っていた。彼は天空に薄青い翼を広げて風の中に留まりながら、敵が緑の中から復活して来ないかを見張る。幸いにも森は沈黙するばかりで、あの悪夢のように強い魔術師が復活する様子はなさそうだ。
永い、永い戦いだった。その決着が、今まさについたのだ。
「******」
「風神」
軽い羽ばたきと共に一人の神がやってきた。彼の兄神でありこの戦いの味方の一人であった神、風神が話しかけてくる。しかし風神の口にした彼の名は、耳に届く音にはならなかった。
「母神は名を奪われた。我が名もまた形にならぬ記号と化そう」
「なんだと……」
彼は破壊神。創造の母たる神が創り出した全てのものはいずれ彼の手によって破壊される運命。
神々の中でも無類の戦闘力を誇る破壊神は、この戦いでも先陣切って敵を打ち砕く役目を与えられた。戦いの始まった当初、誰もがそれはすぐに終わる小さな反抗だと考えていた。しかし大方の予想を裏切り、長く激しく争いは続いた。
辰砂。そう名乗る一人の魔術師によって、この世界の事情は一変した。辰砂は万物を生み出す創造神から「名」を奪い、その力を我がものとして神々に逆らった。破壊神を筆頭に神々は協力して辰砂を退けたが、奪われた創造神の名を取り戻すことまではできなかった。
それどころか、辰砂の攻撃を受けたことで天界も神々も傷ついた。
戦いの終わったこれから、破壊神は永き眠りにつかなければならない。彼の対となる創造神が名を奪われたことにより、破壊神である彼の名もまた隠されしものとなったのだ。
その均衡が崩れた時、世界は滅ぶという――。
破壊神は仲間の神々に告げた。
――我が眠りを妨げることなかれ。
創造神と同じように、破壊神もその力を封じられ眠り続ける。
神々は信じて待つことにした。いつの日にか創造神が目覚める日を待ちながら、この世界をただひたすら維持していく。
人が生まれて死ぬように。善と悪が偏らぬように。時が淀まず流れるように。
神々は人の世界を見張り、見守り、時には神託などの形をとってその手助けをしながら、母なる神の目覚めを待つ。
不安はあった。創造神を封印し、破壊神にも大きな犠牲を払わせた魔術師・辰砂がこの世にまだ残っているのだ。すでに創造神から「名」――つまりはその偉大なる力の一部を奪った彼が再び神々に牙を剥くことは考えづらいが、創造主に逆らうような存在が神々のように世界の維持に貢献するとも思えない。
辰砂がいつ気まぐれを起こして世界を滅ぼそうとするかを危惧しながらも、とりあえず今日まで世界は続いてきた。
――我が眠りを妨げることなかれ。
遥か昔、神々の世の物語。
◆◆◆◆◆
朝日が昇る頃に彼は家を出た。
出たとは言っても、正直歩くだけの距離はない。彼の目的地はこの海辺で、自宅は海辺の小屋だった。竪琴一つ持ち、裸足のまま砂浜を歩きだす。
真っ白い砂浜は死骸で出来ている。有孔虫が死ぬとその殻だけが堆積するのだ。
足下で音を立てて砕けていく、役目を終えた無数の小さな命。風化した骨のようなそれを踏み拉いて、彼は歩く。波の打ち寄せる砂浜へ。
海の風は昼と夜とで変わる。陸から海へ、海から陸へと風が入れ替わる明け方と夕方のひととき、広大な海は静かに凪ぐ。
その時間を狙って彼は家を出たのだ。見渡す限りの水平線を染める黄金の黎明。空は刻々と色を変え、鳥たちが目覚め始める。
浅瀬に突き出た岩の上に座り、彼は竪琴に手をかけた。
その肩に、不意に小さな一羽の鳥が止まる。上空には仲間らしき数羽が待機していた。
海鳥ではなく森にすむ小鳥は、彼に何かを語りかけるようにその耳元で囀った。
「――ん? 侵入者ぁ?」
小鳥の言葉がわかったように、彼は声を上げる。幻想的な朝の風景に似合いの容姿を自ら打ち崩すような軽い口調だ。
「男が一人、女が一人に、子どもが一人ね。その子どもは男? 女? え? わからない?」
ぴるるるる、と小鳥が鳴く。人の世の騒ぎなど知らぬ気に。
「――ま、いいか。その位置にいれば、どうせ自動的にここまで来るだろうしね。来たら俺が相手をしてあげるよ。術は解いておくから、そいつらが何か妙なことをやらかしたらまた報せに来て」
鳥は了承したとでもいうように小首を傾げ、仲間たちと連れだって羽ばたいていった。
「それにしても久々の客だな。こんな何もない辺境に、一体何の用だろうね」
彼は一人、最初の一弦に指を掛け弾く。至上の音色を紡ぎながら、口の端を吊り上げて毒々しい笑みを浮かべた。