第1章 運命の歯車
4.夢で見た場所
013
「ところでここはどこなのでしょうね」
辺りの景色を見回しながら、セルマが誰にともなく尋ねた。さすがと言うべきか、不自然なくらい動じていない。彼女にとっては突然殺されかけるのも見知らぬ場所に何も知らされず放り出されるのも、日常茶飯事なのだ。今更驚くことではないという。
「植生から見ると、熱帯のようだが」
「あ、殿下。できればその上着は着たままでお願いします」
植物には疎いセルマだが、危険な動物や虫への知識はある。暑いだけではなく湿気を伴った気候と周囲の様子から危険な生き物の気配を感じ取り、すぐさま主に忠告した。
幸か不幸か三人は涼しい土地からやってきたので、全員が長袖だ。リューシャは裾の長い外套じみた上位を羽織っているし、ダーフィトも軽鎧を身に着けた姿であるため、手と顔以外の肌は上手く隠れている。
「この森には蛇や毒蜘蛛がいるようですから、できるかぎり素肌を露出しないでください。ダーフィト、お前もだ」
「……鎧も駄目なのか……」
ダーフィトが萎れながらも、上着を脱ごうと胸にかけた手を元に戻した。こういった時のセルマの言うことには従った方がいいと、経験で知っている。
リューシャの護衛騎士であるセルマは、軍学校時代のダーフィトの一つ年上の同級生だ。元々アレスヴァルド人ではなく、リューシャが国外に出た際に知り合って騎士へと推挙したらしい。中途編入の関係で同級生より一年遅れている。
国内では呪われた王子の騎士になりたがる人間はおらず、世継ぎの王太子の護衛という誉れ高い役目ながら、セルマにライバルはいなかった。また、彼女自身の能力からも学内に張り合うような相手がおらず、卒業時の成績はあらゆる部門で首位を獲得していた。実技部門に関しての話だが。
そしてアレスヴァルドに知り合いのいないセルマは当然貴族たちの事情にも疎く、気さくに話しかけてくるダーフィトを長く平民だと思っていた。ディアヌハーデ公爵子息として遠巻きにされるダーフィトの扱いに気づいた頃にはすでに平民同士のような接し方が抜けきらず、ダーフィト自身が対等の扱いを望んだこともあり今でも気の置けない友人関係を続けている。
「噛まれてもいいなら止めないが……」
確かに鎧は暑いし、三人の中で一番着込んでいるのはダーフィトだ。しかし肌の露出が増えるとそれだけ蛇や虫に噛まれる危険性が上がる。
そのことを早速捕まえた蛇を片手に説明するセルマの様子を見て、ダーフィトは行動を改めた。セルマのように音もなく近づいてきた蛇を見もせずに捕らえるだけの反射神経はさすがにダーフィトにもない。
「とにかく、立ち止まっていても仕方がない。この森を抜けて、人里を探すぞ」
樹上から森の広さを図ろうにも、この森には登りにくい木々しか生えていない。どちらへ行けばいいかもわからないまま、三人はとりあえず歩き出す。
「殿下、何故こちらに?」
「何となくだが、何かある予感がする。お前は何か感じないか」
「そう言う意味での予感はありませんが、この森の空気はおかしいと思います。どこを歩いても、何かに誘導されているような」
「また魔術か? ディアヌハーデ領とは到底思えないんだが、ここにもナージュの手が回ってるのか?」
父の屋敷の近くで義母に追い立てられたことを思いだし、ダーフィトが顔を顰める。仮にも自分の身内でありながらナージュについてほとんど知らなかったことが、彼を暗鬱な気持ちにさせるのだ。
「どうだかな。魔術禁止令はアレスヴァルド特有の法律だ。他の国ならば森やその近くに住む魔術師が盗賊避けの術の一つや二つかけていてもおかしくはない……のわっ!」
「殿下!」
先頭を歩こうとしたリューシャだが、早速木の根に躓いて転びかけた。背後のセルマが慌ててその身を支え、歩く順番を入れ替わる。
「私が前を進みます。余計な木の枝葉も落としますから、少し後ろをついてきてください。道が分かれそうな時には指示を」
「~~ああ」
額に手を当て、半ば呻きながらリューシャは頷いた。いつものこととはいえ自分の鈍くささが憎い。
三人は一列になり森の中を進んだ。
しばらくは何事もなくただひたすら歩を稼ぐ。水場が発見できれば良いのだが、残念ながら目視できる範囲にはないようだ。小川の気配自体はあるとセルマが言うのだが、男二人にはわからない。そして小川の気配がするのは、もっと森の奥だと言う。
水場を確保するためにそれを追っても良かったのだが、リューシャは別の道を選んだ。水の気配にあえて背を向けてでも、早く人里に辿り着くための道だ。
どのみち食料や火を起こせそうな道具は心許ないのだ。少しでも人里近い場所に向かうのが先決だと判断する。幸いにも森の出口らしき道が、そう歩かぬうちに見えてきた。丸一日程度の強行軍は覚悟していたので、これは幸いだった。
「そう言えば、俺たち、夜って迎えてないよな」
「時差だな。やはりここはアレスヴァルドから大分離れた土地らしい」
今更ながら空の明るさに気づき、ダーフィトが言う。リューシャも眉をしかめながら、近隣諸国との時差を計算し始めた。魔道具の影響がなければ彼らはアレスヴァルドで夕方を迎えてから今この土地で昼空の真下にいることになる。
移動の際に意識を失うようなことがあればまた別だが、そんな記憶はない。だが――どうにも上手く計算が合わない。
自分の知識間違いだろうかとリューシャが指折り数える傍で、セルマが正面を見つめたまま声を上げた。
「森の出口が見えました、殿下」
「何? どこに繋がっている」
「――海です」
潮の匂いがする、とセルマは言った。三人は思わず顔を見合わせ、残り僅かな距離を一斉に駆け出した。
――海だ。
見渡す限りの広大な青。
「これが、海……」
リューシャは呆然とした。故郷のアレスヴァルドにいた頃、彼は海を見たことが一度もない。
けれど夢の中では何度も何度も、繰り返し見た光景そのままだった。遠い水平線に白い雲がかかり、空との境界線を溶かしている。太陽の光を反射する水面がきらきらと輝いていた。
「これは……」
まるで夢に見たままだ。――否、そうじゃない。
ここなのだ。この世界の他の場所にあるどこかの海ではなく、“ここ”こそがリューシャの夢に出てきた舞台なのだ。
リューシャは直感的にそれを知る。あまりの驚きに、言葉も出ない。
この光景を今までに何度も見てきた。
ダーフィトとセルマも森を抜けて突如として広がった光景に驚いている。鼻先を潮の匂いでくすぐる海風を浴びながら、ただ立ち尽くした。
「――それで」
いち早く我に返ったダーフィトが誰にともなく問いかける。
「ここは結局……どこなんだ?」
三人の間に再び沈黙が落ちた。追いうちのように規則正しい波音が響く。
「「さぁ……」」
無事に森を抜けられたのは良いが、結局現在地に関する情報は何もないのだ。どうにかして人里に向かうという目論見は外れ、辺りには村も何もない。
これからどうすればいいというのだ。
「殿下、何か聞こえます」
先程の感嘆とはまた別の意味で呆然とするリューシャたちに、セルマが首をきょろきょろと傾げながら声をかけた。音の出どころを探しあて、腕ごと伸ばして指差す。
彼女の示す方向には、小さな小屋のようなものが見えた。
「ここで呆けていても埒が明かん。とにかく向かうぞ」
砂に足を絡め取られながら、三人は再び歩き出した。
◆◆◆◆◆
聞こえてきたのは、竪琴の音だった。緩やかで物悲しげな旋律が次第に明らかになる。海風の合間に、澄んだ伸びやかな声が紛れた。
歌い手の姿を目視できる程近づいて、それがようやく少年だということに気づく。波の打ち寄せる浅瀬に突き出した岩の上に座り、彼は竪琴を奏でながら歌っていた。
「――あっ」
少年は彼らの姿に気づき振り返る。美しい旋律と歌声が途切れて、思わず聞き入っていたリューシャたちも我に返る。
目を閉じて歌っていた少年の、長い薄紫の髪がさらりと揺れた。開かれた瞳の深紅に、リューシャは反射的に違和感を覚える。
(違う)
夢の中で見たこの海辺で、いつも竪琴を奏でていたのは黒髪に黒い瞳の少女だった。
ついつい夢の記憶を重ねて密かに落胆する。リューシャが繰り返し見る夢の舞台はここなのだ。あれがその様子を映したものならばと、無意識に期待してしまった。
言葉を探す彼らに、竪琴を抱えた少年の方から声をかけてくる。
「ようこそいらっしゃいました。どうやらワケアリのようですね。お客人」
にっこりと人懐こい笑みを浮かべ、彼らの名を聞きもせずにそう断定する。
「我々は、その――」
「ああ、別にいいですよ。細かい事情なんか後回しで。この暑いのにそんな分厚い服着てるのみれば、この辺りの人間じゃないことは一目瞭然ですから」
岩から滑り降り、海水に裸足の足を浸して立ちながら少年は言う。
顔を見合わせるリューシャたちに構わず、実に気軽に彼らを誘った。
「あの小屋が俺の現在の住処です。ぜひ寄って行ってください」