Fastnacht 05

020

 翌朝のウルリークはこれ以上なく上機嫌だった。もっとも彼はいつも比較的意味もなく上機嫌だが、昨日彼と会ったばかりのリューシャたちにそれがわかるはずもない。
 時差の関係で眠りが足りず、リューシャたちは昼まで眠っていた。彼らが起きたところで、ようやく一行は小屋を離れる。
「では行きますか」
「なんであんたが仕切ってんだ?」
 リューシャからウルリークが正式に仲間になったと聞かされたダーフィトとセルマはまだ実感も納得も充分ではないらしく、落ち着かない様子だった。ダーフィトは不満というほどではないが「なんだかなぁ」と言った気分、セルマは明らかに不満な顔をしていた。どうやらウルリークと気が合わないらしい。
「仕方がないだろう。魔術師に対抗するには、我らにも高位の魔術師が必要だ。魔族であるウルリークの実力は申し分ない。それにこんなところに住んでいる変わり者でもなければ、我らについて来る物好きもいないだろう」
「物好きってのは失礼ですねぇ。俺、こーんなに親切にしてあげましたのに」
「離れろ、リーク」
「リーク?」
 いつの間にかリューシャが呼び始めたウルリークの愛称に、ダーフィトが反応する。
「ええ。俺のことはリークって呼んでくださいね、ってお願いしたんです。ダーフィトさんもセルマさんもよろしく」
 表面上はどこまでも愛想良く、しかし内面では悪戯っぽさを隠しもしない笑みを浮かべてウルリークはそう告げた。
「まぁ……助かるけどな。ナージュみたいに攻撃型の魔術師に対抗するには、絶対に同じ土俵で戦える存在が必要になるだろうし。――よろしく」
 ダーフィトは最終的にその理由で納得したようだった。ウルリークと握手を交わす。
 ウルリークは自分より頭一つ分背の高いダーフィトを見上げた。
「あなたも随分いい男ですよねぇ」
「リーク!」
 淫魔の性分を疼かせるウルリークの気配を感じ取り、リューシャが大声を上げた。ダーフィトが驚いた顔をする。
「ちょ、どうしたんだよリューシャ。身内でもない相手にいきなり怒鳴りつけるお前なんて久々に見たぞ。使用人泣かせの氷の天使って言われてるくせに」
 周囲の者を信用せず、不愉快なことを言えば即座に毒舌で精神的な傷を与えて自ら退職願を書かせるリューシャの仇名の一つである。他にも色々と無能王子に関する愉快な仇名があるが、その披露はまたの機会にしておこう。
「……なんでもない。だがダーフィト、この男に気を許すなよ」
「は? お前が自分で仲間に引き入れたんだろう?」
「いいから。我に従え!」
「はぁ」
 ダーフィトはひたすら首を傾げながらも、とりあえず頷いた。セルマから荷物を半分引き取って歩き出す。
 昨日のその後の話し合いで、彼らはこれから西へと向かい、港街から中央大陸を経由して青の大陸に戻る路を辿ることに決定していた。
 ウルリークも短距離なら転移の術を使えると言うが、四人を一度に大陸から大陸へ移動させることなど不可能だ。リューシャが使用した魔道具は博打的な要素が強いので目的地がはっきりしている場合には使わない方がいい。これ以上遠くなることはないとはいえ、まったく見当違いの方向に放り出されても面倒だ。
 やはり地道に道を歩いていくのは変わりない。しかしとにかくこの海辺を囲む森さえ出て人通りのある場所に行ければ、どこかで馬車を拾ったりもできることだろう。
 今の彼らにできることは、ただひたすらアレスヴァルドに戻るために進むことだけだ。
 ゲラーシムのことも、リューシャの神託のことも、まだまだ上手い解決方法は見つからない。だがそんなものは、もともとこの十六年間祖国でどれだけ努力しても解決しなかったことだ。今更焦っても無意味だし、国を出たことで何かがわかるかもしれない。祖国へ帰るために世界を旅しながら、その情報も拾って行こうと相談していた。
 古き王国、アレスヴァルド。
 神々の勢力地で、魔術師を嫌い、神の血を伝えると言う特殊な国家。内側にいた時はわからなかったが、国どころか大陸を出たことでようやく祖国の特異性に気づけた。
 東側は魔術師の勢力地だが、それと同時に神々についても知識としてよく調べ蓄えているという。西側では不信心を理由に禁じられた神託関係の調査も、ここでなら進むかもしれない。
 だから、何をしてでも、何をおいても。
 リューシャは必ずあの国に帰るのだ。
「さて、こんなものですかね」
 小屋から必要なものだけを調達して、ウルリークが戸を閉める。鍵はかけない。いつ戻ってくるかもわからなければ、戻ってくるかもわからないという。
「やれやれ、これでこの海ともお別れか」
 そう言えばリューシャは結局、この海に関する謎を一つ置き去りにしたままだと思い出した。繰り返し見る彼の夢に出てくる海。ここは一体――何なのだろう。
 ウルリークはここを、辰砂の生まれた村だと言っていた。だが当然と言うべきか、お伽噺に伝えられるような伝説的存在がかつていた村などもはや影も形も残ってはいない。
「ウルリーク、お前は何故この海にいたんだ?」
「んー、だから、辰砂に会いにって」
「何故創造の魔術師に会いたいんだ? 人間にとっては伝説的存在でも、魔族にとっては長命も不老不死も珍しくないだろう」
「長命が珍しくなくとも、あれだけの魔術師は珍しいですよ。俺は魔族としては若造なんで、辰砂の方が断然年上ですしね。でもそうだな……確かに、俺は熱心な魔術師や神話好きが言うような意味で辰砂に会いたがっているわけではありませんよ」
 海はリューシャたちが訪れた時と同じように碧い。白い砂浜に波が打ち寄せては返る。
 ウルリークの手にする竪琴を見て、リューシャは馴染み深い夢とここにきた初めの時の両方を思い出した。
 夢の中では、いつも黒髪の少女が竪琴を奏でながら歌を歌っていた。ここに来たときは、まるでその少女をなぞるかのようにウルリークが。
 ウルリークの歌も演奏も決して悪くはなかった。今日からでも十分吟遊詩人としてやっていけるほどに。けれどそれでも、その歌と竪琴の腕は夢の中の少女の方が上手かったとリューシャは思う。
 ウルリークは竪琴の表面を撫でながらどこか懐かしい眼差しで海を見て笑う。
「昔からね、夢を見るんですよ。いつの頃だか、そこにいるのが誰だかははっきりとわからないんですけど、海辺の村で笑い暮らす人々の夢」
 リューシャは息を呑んだ。海を眺めるウルリークの横顔を、初めて見るもののようにまじまじと凝視する。
「波打ち際の浅瀬に一つだけ突き出した岩で、黒い髪の少女が一人竪琴を弾きながら歌っているんです。俺はそれを大抵すぐ近くで眺めている。時々は彼女に合わせて踊る。そんな夢です」
 朝には朝の歌を、夜には夜の歌を。求めるまま求められるまま、ただ歌い続ける少女。
 彼女の周囲の人々。
「この竪琴は、もともと小屋にあったものですよ。俺がここに来たとき、この海辺には村も何もなかった。けれど時の流れに忘れ去られたようにひっそりと佇む一件の小屋の中に、竪琴がありました」
 それからウルリークは、もっと海に近い場所に小屋を建て直した。そして夢の中の少女がするのを真似て、竪琴を奏でてみるようになったのだという。
 どこかで聞いたような話だ。
「それで……どうして、それが創造の魔術師と繋がるんだ」
 神について知らなかった。
 伝統を大事にすると言えば聞こえは良いが、アレスヴァルドは――閉ざされている。
 誰もが神託を抱いて生きていくしかないのに、その正確な意味すら本当はわからない。
 自分たちが信じる者の根拠も何も、お伽噺だと笑いながら、その残滓のような託宣に縛られて生きていく。
 アレスヴァルドという国が忘れたかった名前は、本当は神の名ではないのだろう。神を偉大すぎる天上の存在として日常から切り離すことで、彼らは恐らく神にまつわるもう一つの名を忘れたかったのだ。創造主を裏切った不遜な罪人の名を――。
「俺の夢には、一人特徴的な容姿の人物が出てきます。雪のように白い銀髪に、紅と青の色違いの瞳を持つ少年。俺は彼を夢の中で、この海から拾い上げるんです」
 ウルリークの夢は、リューシャの夢とは少し違うらしい。リューシャの夢にはそんな記憶はないし、彼はどちらかと言えば、黒髪の歌姫よりも銀髪の少年への印象が強い。
 だが、二人とも同じ相手を見ているのだろうと、何故か強く確信できた。
「神々の反逆者たる“創造の魔術師”はね、一説には銀髪に紅と青の色違いの瞳をしているそうですよ」
 ウルリークの言葉がすっと体内に染みわたり、思わず溜息が出る。
 ――辰砂。
 ああ。やっと知った。やっとわかった。やっと――思い出した。
「辰砂縁の地ということでこの海岸に来てみましたけれど、それで神出鬼没の界律師に会おうなんて甘かったですかね。海は確かに夢で見たのと同じ場所のようだけれど、打ち寄せる波はやはり何も答えてはくれません」
 碧い海は輝く。けれどその波打ち際に足を浸しても、何も変わらない。ここにはもう誰もいないのだから。
 夢の中で笑う彼らは、一体どこに行ってしまったのだろう。
「だから全てを知りたいと思えば――俺の方から会いに行かないと」
「ああ――そうだな」
 古びた小屋一つ残して、海辺の村は消え去った。あれはやはり予知夢などではなく、過去の夢なのだろうか。何故自分はあんなものを見るのだろう。
 これまではあれを過去や前世の記憶と仮定するのも嫌だった。けれど今この場所に来て、あの少年の存在はお伽噺でも夢物語でもなく、まだこの世界に生きているのかもしれないと知った。
 会いたい。その声で名前を呼ばれたい。
 痛いぐらいに望みが胸を衝く。
 会ったこともない相手にどうしてこうも惹かれるのだろう。生まれながらに与えられた呪われた神託のように謎でありながら、振り払えないその幻の影。
「我もそう思う」
 きっと自分はただの偶然や、何の意味もなくこの地に来たわけではない。
 ウルリークはリューシャの様子に何か感じたのか、ちらりと一瞥を寄越したものの、それ以上無駄口は叩かなかった。話ならいつでもできるとばかりに歩き出す。入れ替わりにいまだ動き出さずに海を眺めているリューシャに歩み寄ったのはセルマだ。
「殿下? ウルリーク殿? 行きますよ」
「セルマか。ウルリークが……」
「話なら歩きながらでも……大事なことですか?」
 彼の夢の内容を知るただ一人の騎士は、ひたすら不思議そうな顔をしていた。
「この海辺は、我の夢の舞台だ。そしてウルリークも、どうやら似たような夢を見ているらしい。あの夢に関して言えば、何かしら縁があるようだ」
「縁、ですか」
 セルマは首を傾げた。
「ですが殿下。――海は、ただの海です。きっと昨日も明日も、過去も未来も変わらない、ただの海」
「……そうだな」
 普段リューシャの言うことに逆らおうとはしないセルマの予想外に冷たい物言いに、リューシャは一瞬虚をつかれる。だがそれも正論だと、逆らわずに頷いた。
「殿下が知りたいのは、その海辺で暮らしていた住人の方でしょう。ここにはもう何もないじゃないですか。その行方を探るにしても、見たところこの海には何もありませんよ。他の手段を考えないと」
「あ――ああ! そうだな。確かにその通りだ」
 セルマの指摘は、ウルリークも言っていたことだ。海は何も答えてはくれない。
 だから自分の足で探しに行くのだ。
「行きましょう、殿下。どこまででもついていきますから」
 リューシャは頷く。セルマがにっこりと笑う。
 道の先ではダーフィトが手を振り、ウルリークが手持無沙汰な様子で腕を組んでいた。
 王子と騎士は連れだって歩き出す。彼らの向かうその先が、どんな運命に辿り着くのかをいまだ知らぬまま。
 今も昔も、お伽噺の頃から変わらない海だけが、その後ろ姿を静かに見送っていた。