第1章 運命の歯車
6.懐かしいお伽噺
021
「は?」
思いがけない目撃証言に、ラウズフィールは目を点にした。
「え? ちょ、連れ去られ……って何? どういうことすか」
詰め寄るラウズフィールに、銀貨一枚で情報提供してくれた男が肩を竦める。
「いや、だからさ。あれはそうなんじゃないかって。ここ最近港の方で人攫いが流行ってるらしいんだよ。どうもそれっぽいぞと」
「流行ってるってそんな風邪や水疱瘡みたいに! 人攫いは流行していいものじゃないでしょ!」
「おらが流行らせたわけじゃねーって。そういう話がいろいろ聞こえてくるんだよ。特に他の大陸からやってきたばかりの街に慣れない子どもを攫ってどこかに売ってるらしいってさ」
ラウズフィールはさーっと青褪めた。
今現在緋色の大陸と黄の大陸を結ぶ船の玄関口となっている港町リマーニでは、どうやら拉致誘拐が多発しているらしい。
黄の大陸からやってきたばかり。頼れる者もなく、独りきり。そして何より、すれ違う者が思わず振り返らずにはいられないような――美少年。
「う、うわ。うわぁあー! シェイー!」
自分のせいでこの大陸まで来る羽目になった少年の危地に、彼は動揺極まる叫びを上げた。
◆◆◆◆◆
この世界フローミア・フェーディアーダには神話があって、神々の話と銘打っているものの、その最も有名なものは神ではなくただの人間を中心に据えた教訓的お伽噺だ。
かつて、一人の人間の魔術師が驕り高ぶり、偉大なる神々に反旗を翻した。この世界の全てを生み出した母なる創造の女神からその名を奪い、自らが神になりかわらんとして数多の神を殺した。最終的には最強の闘神である破壊神と相討ちになったが、不死の魔術師であるその男は、今もまだ世界のどこかで生き続けているという話だ。
神話は神話であり、その話はもちろん事実ではない。しかし語られていることのいくつかは真実であり、確かにかつてこの世界で起きたことの一端を伝えている。
傲慢にして凶悪な異端者、神々に反旗を翻したその魔術師は、創造の女神の名を奪ったことにより、以後“創造の魔術師”と呼ばれるようになった。
神話によって細部は異なり、創造の魔術師が神々を裏切ったのは同じく邪悪な背徳の神に唆されただとか、背徳の神と契約して力を得ただとかの内容が付け加えられる。あるいは最後の戦いで、相討ちになったのではなく破壊神が勝っただとか、それ以後破壊神が人界に姿を見せなくなったので勝ったのは魔術師だとする説もある。
真実の全てが万人に伝わることはない。神々の創造の魔術師自身も、伝えたいと思ったことすらないだろう。
そもそも創造の魔術師の肖像自体が、地域差のある虚像だ。七つの大陸のうち中央部を除く六つは世界を西と東に分け、どちらに属するかで流布する神話も違えばその影響力も異なる。世界の東側は魔術師の勢力が強く、西側は神々への信仰が強い。
創造の魔術師という存在が、人類の本質全てを現すわけではない。だが神をも殺す力のある魔術師として彼の存在がこの世界に今も多大な影響力を与えているのは事実だ。
魔術師の勢力が強い東の地では、辰砂は忌み嫌われると同時に崇められる。魔術師でありながら神に逆らったものであり、只人でありながら神を超えたものとして奉られる。
一方神々の勢力地と呼ばれる西側では、創造の魔術師の存在は禁忌とされる。かの名は人類最大の汚点であり、その罪を雪ぐためにも人々は一層神々を信仰するべしと教会はのたまう。魔術師の絶対数が少ないこともあり、魔導技術と呼ばれるものは東側よりも相当遅れている。
最強にして最悪の人間。偉大なる創造の魔術師。その名は辰砂。
神々との最後の戦いで破壊神と相討ちとなったが、不死であるがために今もこの世のどこかで生き続けているという。魔術師に親しむ東の地では、悪い子は辰砂が攫って行ってしまうなどと子どもに言い聞かせるような、鬼や魔物と変わらない存在だ。
そんな伝説的魔術師は。
「やっほー銀月。調子はどう?」
今日も比較的気楽に生きている。
◆◆◆◆◆
人類の罪と恐怖の名と呼ばれる創造の魔術師辰砂は、人界に姿を現す際は十代半ばの少年の格好をしているという。その姿は銀髪に紫の瞳だと言われるが、実際の彼は白に近い銀髪に紅と青の色違いの瞳を持っていた。
今はもう何千年前のことか正確な年月は本人も忘れてしまった程昔、辰砂はその異相故に迫害を受けて世界各地を放浪していた。その後とある村に辿り着き、その村で起きた出来事がきっかけで神々に反旗を翻したのである。
彼が不死であるという噂はあくまでも噂、単なる信憑性のないお伽噺だ。だがしかし今もこの世界のどこかに生きているという話の方は概ね正解であり、今日もこうして元気でのんびりやっている。
普段人のいる場所に足を踏み入れる時は瞳の色を魔術で紫に変えるが、それ以外は元のままで過ごしている。白銀髪に色違いの瞳。十四、五歳の少年の姿をとるのは、それが神に反旗を翻したちょうどその頃の年齢だからだ。
「どうと言われましてもね」
辰砂に背後から話し掛けられて、銀髪の青年が振り返った。こちらは辰砂と違い白がかった色ではなく、鉄の輝きのようなはっきりとした銀髪だ。そして深い湖のような青い瞳を持つ。年の頃は辰砂の外見よりも十以上は上か。現在二十代半ばと言った見た目だ。
ただし銀月と呼ばれたこの青年も、見た目の年齢は若干実年齢と異なっている。
彼は三年程前、瀕死のところを辰砂に拾われ命を救われた。元々高位の魔術師であった青年はそのまま辰砂の弟子となり、肉体の時を止めて彼につき従う界律師“銀月”となったのである。
「緋色の大陸の情勢はいつも通りですよ。泰然とした西側に比べて東部は争いが絶えません。ただ……」
「ただ?」
その魔力で世界中どこでも一瞬で訪れることができる辰砂は、持てる力が強大過ぎるあまり常に退屈している。弟子である銀月を拾ったのもそれが理由であり、彼や他の弟子たちに大陸ごとの情勢を見張らせているのも同じだ。だからこそひとたび面白いことを見つけたならば、何があっても首を突っ込む気満々だ。
「つい先日なんですがね、流星海岸の方で大きな魔力のぶつかり合いが感じられました。規模から言って人間同士の戦いとも思えませんね」
「流星海岸……?」
辰砂はそこで初めて眉根を寄せた。
「本当にその場所でか?」
「はい。それに関しては間違いありません。ほら、あそこに一人魔族が住んでたでしょう。そいつがなんだか他の魔族だか神だかと問題起こしたみたいなんですよ」
「なんで魔族だか神だかって曖昧なんだ?」
「連中がいなくなった後に行ってみたんですけど、気配が入り混じってよくわからない感じなんですよね。基本は魔族なんですけど、神の気配もするし。どこかで感じたことのある気配なんですけど」
銀月が魔力の気配を感じるには、その場に立ち会うか少なくとも近いうちに現場に赴いて残り香を嗅ぎ分けねばならない。だが辰砂にはそんな手間暇をかける必要なく、一つの大陸内の出来事ならば感知網を少し広げるだけで把握することができる。
「どれどれ……ああ、これか。これは神の眷属の気配だな。お前は紅焔たちと違って滅多に天界に来ないから一発でわからないんだよ。魔族から神の眷属になるとこういう気配になる……って。げっ。規律神?」
「辰砂?」
苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔で辰砂が呻く。異相とはいえ、せっかくの美少年ぶりも台無しだ。
「なんでこいつが今更……いや、なんでそもそもあの海岸に住みついた淫魔のところなんかに眷属を送ったんだ? なあ、他に何かないか?」
「その淫魔なんですが、眷属の襲撃を受けた直後に海岸を離れてます。どうやら連れがいたようなんですが、よくわかりませんでした」
「連れ?」
「小屋に複数の人間が過ごした痕跡が残ってたもんで」
それを聞いて辰砂は何かを考え込む様子になる。
「規律神の眷属ね……。あいつ、どういうわけか今、青の大陸にいるみたいなんだよな」
「青には今シファが行ってましたっけ」
「ああ。その紅焔からの報告だが、青の大陸ではアレスヴァルド王国で大きな動きがあったらしい」
「アレスヴァルドというと、確か今時神託で全てを決めるっていう古王国? あそこは魔術師が排斥されるってことで魔術師には評判悪いはずだけど」
「かなり大きな事件だから、近隣諸国にすでに情報が広まってるんだと。なんでも世継ぎの王子が父王を殺したとか」
「……は?」
今度は銀月が変な顔をする。辰砂の言葉を理解したからこそ、意味がわからない。
「よっぽど親子関係が悪かったんですか。世継ぎなら何もしなくても王位がそのまま転がりこんでくるでしょうに。あるいは継承権を廻る陰謀とか」
「後者だな。ちなみにその王子は濡れ衣っぽいね。アレスヴァルドは王の血縁の公爵がずっと王位を狙ってて、唯一の世継ぎの王子が邪魔だったらしい」
「あらまー」
軽い口調で銀月が頭を掻く間も、辰砂は思考を続ける。
アレスヴァルドで行方不明となった王子は今も見つかっていない。そして流星海岸に眷属を送ってきた規律神はどうやら今現在、かの国にいるようなのだ。これは偶然か。それとも。
「ところでお師様、ここに来たってことはまたこの間の人買いの件ですか?」
情報量が少なすぎて埒の明かない思考を止め、辰砂は銀月が尋ねて来た問題へと意識を切り替える。
「ああ。白蝋から連絡があったよ。緋色と黄金の二大陸にまたがって人身売買を繰り広げてる連中の足を掴めそうだって」
「へぇ。やるなぁ。アリオス」
名前は最も短い呪だという。存在そのものが力を持つ界律師は自らの名を利用されぬよう、本名を捨て界律名と呼ばれるものを名乗るようになる。
紅焔の本名はシファ、白蝋の本名はアリオス。銀月はザッハール。もちろん“辰砂”も界律名だ。しかし銀月たち三人は辰砂に弟子入りする前からの知り合いであり、ついつい慣れた名の方で呼んでしまうらしい。
その白蝋ことアリオスという名の弟子は、世界の中央に坐す大陸で様々な情報を収集している。師である辰砂を中心とする彼ら四人の興味は今、主に二大陸をまたいで行われる人身売買組織の活動に向けられていた。
「よっぽどの理由がなければ、生まれ育った大陸を出て旅をする奴なんかいないからね。わざわざ大陸をまたぐなんてよくやったもんだよ」
辰砂が酷薄な笑みを浮かべる。それだけで殺気の籠もった魔力が伝わってくるようであり、銀月は内心で身を震わせた。
ひょんなことから人身売買組織と関わってしまった彼らは、売られた喧嘩は百倍返しと言わんばかりに組織を撲滅するため動き回っていた。魔術でぱっと潰してもいいのだが、それでは面白くないという辰砂の言で連中が人界の法できっちり裁かれるようあれこれ手回しをしているところなのである。
「嬉しいかい? 銀月。これで君の故郷たる砂漠の王国や、それを監視下に置く帝国の人間が攫われることもなくなる」
「いや、まぁ。嬉しいっちゃ嬉しいですけど」
三人の弟子のうち銀月は人身売買組織の被害地域の一つである黄の大陸出身だ。とはいえ彼は元々孤児の上、訳あって国を捨てる形で辰砂と共にいるため、あまり興味はない。
「紅焔に手出しかけた変態も粛清できるし」
「アリオスが張り切ってますからね」
「まぁ、これでもうすぐに――ん?」
魔術での連絡が入ったらしく、辰砂が小首を傾げながら懐から小さな宝石を取り出す。
「はいはい僕だけど。紅焔。どうしたの……」
通信の相手はシファこと紅焔だった。三人の弟子中最も若いながら最も高い能力を持つ彼であれば、実力的にほぼ辰砂の代行ができる。辰砂との付き合いも一番長く滅多なことで師の手を煩わせることのない紅焔が緊急連絡など珍しい。
「は? 召喚された? え? なんでそんな……魔王? 魔王がいんのそこに?」
「……?」
魔術での通信は一見独り言のようで、相手方の声まではこちらに届かない。先程より辰砂の口から零れる単語の数々に、銀月は目をぱちくりと瞬いた。単語から会話の中身がまったく予想できない。
「あー……わかった。行く。とりあえずここに銀月もいるし、すぐそっち行くから待って」
通信を切った辰砂は銀月の方を向いて一言で事情を説明する。
「シファが魔王に召喚されて人身売買組織の壊滅を頼まれたんだって」
「……一体何が起きてるんですか」
説明を聞いてもまったく意味がわからない。
「召喚って、あの召喚ですか? 召喚されたんですかシファ。俺の友人は魔物か何かですか」
「他人事じゃないよザッハール。どうやら相手さん、“創造の魔術師”の関連で召喚かけたらしいから、もしかしたら僕だったかもしれないし君だったかも」
「だ、だとしても伝説の魔術師を召喚するなんて普通の人間にできるはずが――」
「うん。だからその相手が、魔王」
「……魔王ってのはそんじょそこらを普通に歩いてるもんなんですか。魔王だとしても創造の魔術師の縁者を召喚したりするもんなんですか」
「なんでも向こうも恋人を攫われて相当パニクってるらしいよ。駄目元で召喚かけたら魔王の生まれ変わりだけに偶然成功しちゃったらしいんだよねー」
「だって魔王って……」
「思わず勇者を探したくなる響きだけど残念ながら依頼人だ。そしてどちらにしろ僕らは勇者という柄じゃない。ま、ちょうどこっちも連中は絞めようぜ話してたところだし。まあいいんじゃない。頼みを引き受けてもさ」
辰砂は事もなげに言うが銀月はまだ動揺を抑えきれない。人間なのに召喚された経験もなければ、魔王に頼みごとをされたこともないからだ。一つだけでも大事件なのに二つ重なればもう到底自分の手には負えない。負えないのだが。
「そういうわけで。行くぞ、ザッハール!」
「ちょ、ちょっと待ってく――わぁああ!」
辰砂は銀月の首根っこを引っ掴んで魔術の移動を開始する。
そして今まで彼らが平然と話していた非常識な場所。強い風の吹く高い空には、もう何の姿も見えなくなった。
◆◆◆◆◆
「とんだ失態だな。ベラルーダ王」
「……申し訳ございません」
黄の大陸の南東地域一帯を支配するシャルカント帝国。その侵略の過激さと強固な支配でここ数十年に渡り領土を減らさないその権威から、この国は通称南東帝国と呼ばれる。
シャルカントの近隣地域の国々は、その支配下に在る国もいまだ独立を保ち友好関係を続けている国も、いつ気まぐれな獣のようなこの国が牙を剥くかを危惧して常に冷や汗をかいている。
宮殿の一室にて、一人の青年が皇帝の前で跪き床に額を擦りつけていた。
青年は大陸南部の砂漠地域に在る王国、ベラルーダの国王だ。ベラルーダ王国はつい三年程前に実質的にシャルカントの支配下となり。国王である彼――ラウルフィカがまるで人質のように何度もこの国を訪れ、長く逗留させられている。
シャルカントの皇帝スワドは彼を気に入り、同性でありながら並の女では太刀打ちできない美貌の持ち主であるラウルフィカをまるで愛人のように扱っているとの評判だった。最近はそのラウルフィカに実子である皇太子の教育をも任せていたのだが、その皇太子が現在行方不明なのである。
「まぁ、宮殿を抜け出したアレにも問題はある。むしろ、あやつは問題だらけだな」
「皇帝陛下、どうかお命じ下さい。殿下は必ずやわたくしが取り戻してみせます」
「当てはあるのか?」
「……近年、この辺りの地域を横行する人身売買組織が勢力を伸ばしていると。殿下が街で姿を消した際、その組織の手の者と目されている輩の出入りも見受けられました。まずは彼奴らを追います」
「なるほどな。――ならば頼もう」
自らの子どもの命を左右する問題だとは思えぬ気楽さでスワドは簡単に許可を出した。叱責のぬるさに安堵しながらも、言葉の上ではすでに半ば見捨てられているような当の少年のことを思い、ラウルフィカは複雑な気分になる。
「なぁ、皇子が無事に戻って来なかったら」
「……不吉なことを仰らないでください」
「良いではないか。為政者として後継者問題は常に考えておくべきことだろう。そう――第一皇子が戻らなかった場合は他の後継者を立てる必要がある。その時には婚約者として、お前のベラルーダからラティーファ姫をもらおうか」
娘の名を出され、ラウルフィカがきつく睨み付けるような眼差しで顔を上げた。彼の目線の先、優雅に寛いだ様子の皇帝に挑戦的な言葉を投げる。
「殿下は無事に取り戻して参ります。そんな手回しは必要ありません!」
そのまま仕草だけは完璧な礼をして、隠しきれない怒りも露わにラウルフィカは皇帝の前を辞す。
後に残された皇帝は、この世に何の憂いもないかの様子でくつくつと楽しげな笑い声を上げた。