023
いつの間にか広場に人だかりができていた。あちらこちらで散らばるように遊んでいた幼い子どもたちが一塊になり、その周囲にちらほらと大人たちも立っている。彼らの瞳はその輪の中心に腰かけた一人の少年へと向けられていた。
遠く聞こえてくる歌声に誘われるように、リューシャも彼らの方へと足を向けた。途切れ途切れに聞こえる単語が興味深い。
竪琴の音と歌声がはっきりと聴こえてくるようになった場所で、リューシャは目を瞠り足を止めた。
ここまでくれば、竪琴を奏でる少年の造作もよく見える。
さらさらと零れ落ちてやわらかに毛先が跳ねる雪のような銀の髪。伏せられた瞳にけぶる長い睫毛。
竪琴の腕は正直それほど特筆するべき腕前ではない。こう言ってはなんだが、リューシャが知る人間の中ではセルマの方が上だ。
あの女騎士は一部の技術が突出している分誰でも知っているようなことを知らなかったりするのだが、ある日勧めてみた竪琴が性に合ったらしく、実は今では吟遊詩人で食べていけるだろう程の腕前だ。戦いの才能に加え、そんな才能まであるセルマを、楽器を習うことも許されなかったリューシャは密かに羨んでいる。
けれど王族として最高峰の音楽を聞きなれたリューシャの耳にさえ、銀髪の少年の奏でるその音は胸に迫るものがあった。
朗らかでありながらどこか哀切を含む声が透明な竪琴の音に絡み、不思議な感慨を植え付ける。悲しく愛おしい音色と歌声に、感情が引きずられる。――ここが人前でなければ、我を忘れて泣きたくなるくらいに。
魅せられて更に彼を注視する。華奢な体つきの、少女のように整った造作の少年だ。リューシャ自身やウルリークのように絶世のという枕詞こそつかないものの、綺麗に左右対称なその面差しは端正で、思わずハッとする程美しい。
少女じみた印象を受けるのはリューシャたちよりもいくつか幼いからだろう。リューシャは先日、例の忌まわしい日に十六になったばかりだが、少年は十三か、四か。そのくらいだ。
淡く色づく健康的ながら透き通った白い肌。ほっそりとした首筋。寛げられた襟元から覗く鎖骨が妙に色っぽい。
瞳の色は――紫。
良く晴れた明け方の空のような、淡い菫色だ。
だが、リューシャは少年が伏せていた瞳を上げたその一瞬、彼の双眸が色違いであることを期待した。消えない炎の紅と溶けぬ氷の青を。
眩い銀髪。整った造作。
彼は、リューシャが幾度も夢に見た、海辺の少年そのものだった。
「な、ぜ……」
からからに乾いた唇が喘ぐ魚のように何度も開かれて、ようやくそれだけを絞り出した。
目が離せない。その少年の一挙手一動を視線が追う。
竪琴を奏でる指の先を。けぶる睫毛の下の瞳を。滑らかに歌い続けながらも笑みを絶やさない唇を。僅かな動きにふわりと揺れる髪を。
泣いて、しまいたかった。
今すぐにでもその足元に跪いて泣いてしまいたかった。
これまでに培った忍耐を総動員してリューシャはその衝動を抑え込む。ここで妙な行動をとるわけにはいかない。
けれど、泣いてしまいたかった。今までずっと追いかけ続けてきた人が、今、すぐ目の前にいる。
(今までずっと? そんな、まるで長い時間求め続けた恋人でもあるまいし)
確かにリューシャは彼を探し続けていた。夢でその姿を見る度に会いたいと願っていた。
けれどそれは、彼の存在を知ることが自分に与えられた神託を正しく解読するための鍵となると思っていたからだ。
頭ではそのように理屈を立てるものの、想いは裏切れなかった。――会いたかった。自分はただ、彼に会いたかったのだ。
(いや、落ち着け。……そもそも、本人と確定したわけでもない)
リューシャが何度も夢に見た少年は、銀髪に紅と青の色違いの双眸。しかしここにいる銀髪の少年は、紫色の瞳。
ウルリークはリューシャと同じような海の夢を見続けていると言った。彼はその中に登場するかの少年を、恐らく創造の魔術師・辰砂だと告げた。銀の髪に色違いの瞳を持つ、かつて神に反逆した伝説の魔術師。
目の前の人物は、一体何者だ?
例えそれが夢の中の人物にしても、そうではないにしても、確かめる必要だけはある。
呆然と立ち尽くすリューシャの耳には今も少年の歌声と竪琴の音が聴こえている。
少年はどうやらそれで食っていく吟遊詩人というわけではないらしく、竪琴を奏ではするが金を取っている様子はない。まぁ周囲にいるのは僅かな大人たちを除けばほとんどが十にも満たない子どもばかりだ。おひねりを期待するような状況でもないのだろう。
細い指先が最後の一弦を爪弾き、演奏が終わる。大人たちを真似て子どもたちも次々に手を合わせ、まばらな拍手が向けられた。
にっこりと笑顔でそれを受け取った少年は優雅な礼をとって見せると、再び座り込んで竪琴を構えなおす。
「この地方でお約束の神話を聴いていただいたところで、次は中央大陸から伝わった少し珍しい形式のお伽噺を披露しましょう」
「珍しい?」
神が魔術師がと特徴的な単語を繰り返していたのは、どうやら神話だったらしい。吟遊詩人の披露する物語としては定番のそれで人々の心を掴んだところで、次は少し型破りな物語を歌うと言う。
その語りに引き込まれ、時間に余裕のある人間や子どもたちは興味津々で二曲目を待った。まだセルマたちが戻ってくる様子のないリューシャももう少し少年に近づいて耳を澄ます。
少年がすっと息を吸い、最初の一音と共にその言葉が流れ出した。
「むかしむかし、一人の少年が海辺の村に辿り着きました――」
リューシャは目を瞠り、凍りついたようにその歌に聞き入る。
むかしむかし、一人の少年が海辺の村に流れ着きました
忌まわしい異形の子 呪われた魔術師
けれど村の人々は彼を受け入れて、魔術師の少年はそこで初めて幸せを知りました
その村は邪神を崇める背徳の村
夜毎繰り返されるは快楽の宴
ある日秩序の神様がやってきて、村人たちを諭しました
あなた方が信ずる神は邪悪なもの
ただちに邪神への信仰を捨て、正しき神々を信じなさい
けれど村人はその忠告を拒んだので、秩序の神様は村を滅ぼしました
呪われた魔術師は誰よりも強い力を持っていたため、一人無事に生き延びます
そして自らの民を殺されて嘆く邪神に囁きました
泣かないで、わたしたちの神様
あなたの民を殺した天上の神々に復讐しましょう
魔術師は邪神を引き連れ、神々へ戦争を仕掛けます
――そう、これは後に創造の魔術師と呼ばれる、邪悪な魔術師のお話
ぱちぱちとまたもまばらな拍手が上がった。
先程の定番の神話物語のように手放しで賞賛できる内容ではないが、人々の興味を引くには十分だ。幼子たちはこれまで聞いたことのない神話裏話に興味を持ったようで、次の曲を待たずに少年を質問攻めにしている。
その微笑ましい光景を少し離れた場所で見つめながら、リューシャは呆然としていた。
胸が酷く騒ぐ。呼吸が苦しい。
――知っている。自分はこの話をどこかで知った。だが――どこで? 青の大陸は神の勢力地であり、創造の魔術師の名前すら呼ぶのを忌避される。神話に新たな解釈を加えるような斬新な「お伽噺」を、よりによってアレスヴァルドの人間である自分が知る機会などない。
これまでの旅の途中にウルリークがぽろりと零しでもしたのだったか。否……これまでの旅路でならここ数週間の間に聞いた内容ということになる。それほど最近の話を忘れるはずがない。
そもそも、自分はこの話を本当に誰かから聞いたのか?
おかしなことに、何故かそういう気がしない。話自体は知っている。だが誰かから聞いたというわけではなく。まるで最初からそのことを知っていたかのような……。
何故だ。おかしい。
違和感ばかりがつきまとう。この大陸に来てから、理由のわからない既視感を覚えることが多くなっている。
見たことのない景色。聞いたことのない話。
なのに自分はそれらを知っているのだ。まるで最初から、魂に刻み込まれてでもいたように。
物思いを遮るように、短い鐘の音が鳴った。
正午の鐘ならばセルマたちがそろそろ戻ってくるはずだ。だが、違った。広場で休んでいた者たちの中にはちらほら立ち上がって仕事に戻る人間が出てくるが、まだ半数以上は落ち着いている。
遠い時計台を何とか眺めると、正午までまだあと半時間はある。だから鐘の回数も中途半端だったのだ。
まだ少しだけ時間がある。それならば――。
いっそのこと行動に移そうかと振り返ったリューシャの視線の先に、先程まで竪琴を奏でていた少年はいない。驚いて思わずそこらにいた子どもたちに話しかける。
「なぁ! さっき歌っていた人はどこに行ったんだ?!」
「歌のお兄ちゃん? 今日はもう終わりって、向こうに行ったよ」
まったく威圧感のないリューシャの容姿にか、子どもたちも警戒することなく教えてくれた。確かに彼らが指差す方に、それらしき後ろ姿がある。
「ありがとう!」
礼もそこそこにリューシャは少年を追って駆け出した。ただでさえ運動神経に優れているとはいえないリューシャだ。慣れないこの街でその姿を見失えば、追いつくことは叶わない。
ここを動かないというセルマたちとの約束が脳裏を過ぎるが、リューシャは脳内の天秤をあっさりと少年を追う方へ傾ける。
ずっと探し続けていた人物が、今、手の届く距離にいるのだ。それに自分たちは船の調達が上手く行けば早くて翌朝にはこの街を離れる。ぐずぐずしている暇はない。この機会を逃がしたら、次はないのだ。
竪琴といい白っぽい装束といい光をやわらかく反射する銀髪といい目立つことこの上ない吟遊詩人もどきの少年を追い、裏通りへと入り込む。大丈夫。まだこの距離なら、道に迷わず広場に戻れるはずだ。このまままっすぐ、あの少年を捕まえることができれば。
「うわっ!」
「わぁ!」
だが世の中はそう上手く行かないものということか。リューシャは建物の角を曲がる途中で誰かとぶつかった。結構な勢いでぶつかったためにお互い非力にも関わらず思わず地面に尻餅をついた。
「ごめんなさい!」
なんとか立ち上がると相手が澄んだ高い声で反射のように謝ってくる。その声は決して背が高い方ではないリューシャの腰の辺りから聞こえてきた。
先程広場で声をかけた子どもと大差ない、幼い少年だった。まだ十にもなっていないだろう。
眩い金の髪に翡翠の瞳を持つ、愛らしい容姿の少年だ。年齢に比して利発そうな顔立ちをしている。
「いや、すまない。こちらも前方不注意で――」
リューシャが言いかけたその時だった。
「見つけたぞ!」
荒々しい足音が裏路地に響く。リューシャと少年を囲むように、いかにも汚れ仕事に親しむならず者といった風体の男たちが現れた。