Fastnacht 07

027

 ひっく、ひっくとしゃくりあげるような声が聞こえてくる。
 痛いほど懸命に嗚咽を堪える音だ。
「このお兄ちゃん、大丈夫……?」
「大丈夫だよ。怪我をしてるわけじゃない。薬で眠っているだけ。きっともうすぐ目を醒ますよ」
 泣いている子どもを、もう一人少年のような声が慰めていた。怪我? 薬? そうだ――目を醒まさなければ。
 そう考えると、すっと体内から不快な成分が抜けていくように急速に思考がはっきりしてきた。何故自分が目を閉じているのかが不思議としか思えない勢いで身を起こし覚醒する。
「あ!」
 いきなり目覚めて身を起こしたリューシャに、室内の注目が集まってぎょっとした。場所といい傍にいる少年たちといい、どれもがリューシャに見覚えのない、予想のつかないものばかりだったからだ。
「ここは……」
 慌てて天井を見回す。小さな小屋の狭い部屋に、リューシャは数人の少年たちと一緒に詰め込まれていた。ご丁寧に後ろ手に手枷が嵌められ、脱出ができないように身体的な自由を拘束されている。同じ部屋の中にいる少年たちは誰も似たりよったりの格好で、今起きたリューシャ以外は皆、壁にもたれるようにして座っていた。
「ようこそ、新入りさん。具合の方はどう?」
 すぐ隣にいた少年が話しかけてきた。先程もっと幼い子どもの声を宥めるように話しかけていたのは彼だろう。リューシャよりほんの少し大人びた印象を持つ、銀髪の少年だ。
 その髪色に一瞬結局話しそびれた歌謡いの少年のことを思い出したが、彼とは別人だ。とても綺麗な銀髪の少年というところは同じだが、顔立ちはまるで違う。
 少年の背中に隠れるようにして、金髪の子どもがいた。その顔にどことなく見覚えがある。
「そうか……お前は――」
「思い出した? ここはリマーニ近くの人身売買組織の基地の一つ。君も彼らに攫われてここまで連れてこられたんだよ」
 そう。銀髪少年の影に隠れるようにしておずおずとこちらを見ている金髪の子どもは、港町リマーニの路地裏で衝突した少年だった。この子どもを追うようにして柄の悪い連中がやってきて、リューシャに薬を嗅がせて意識を奪ったのだ。
「……人身売買組織だと」
 どうにも不愉快な響きを持つその言葉に、リューシャは低く唸る。
「ちっ。あの破落戸共が。下郎の分際で我の邪魔をするとは良い度胸だ。いずれ血祭りにしてやる」
 奴らの横やりのおかげで、夢で見た少年とそっくりな銀髪の歌謡いに話しかける機会を失ってしまった。
 静かに激怒するリューシャの言葉に、室内が一瞬で凍りついた。これまでこの部屋に連れて来られてきた見目麗しい少年たちは誰もが自分の身の上に起きた不幸を嘆くばかりで、開口一番に「血祭り」などという物騒な単語を口にしたものはリューシャくらいだという。それも、内容的にどうも自分を攫ったこととは別の問題で起こっているようだとなれば、いよいよ珍しい。
「思ったより元気がいいね。眠ってる姿はどこの深層の御令嬢かと思ったのに」
 連れて来られたばかりにも関わらず意識を奪う薬の影響すら薄いようだと、銀髪少年は感心した顔を見せる。外見に比べて予想外に好戦的だと評されることの多いリューシャの発言を耳にして動じていないのは、この場では彼くらいのものだ。
「そういうお前はどうなんだ。他の者たちと雰囲気が違う。お前は剣を使う人間だろう」
「へぇ。よくわかったね。君自身が武人ってわけでもなさそうだけど」
「知り合いの剣士の雰囲気と似ている」
 銀髪少年の冷静な様子は、彼がそれなりに腕に覚えのある人間であることに由来するようだ。行く末を悲観してすすり泣く他の少年たちよりも大分肝が据わっている。
「まぁ、色々な話はあとにして、とりあえず自己紹介と行こうよ」
「……リューシャ。リューシャ=アレスヴァルド」
 この大陸では知る者もそうはいないだろうと、リューシャは本名で返す。案の定少年はアレスヴァルド王国の名に聞き覚えがないらしく、ごく自然な調子で名乗り返した。
「僕はシェイ。月の民の、シェイ=ラブラ」

 ◆◆◆◆◆

「アレスヴァルド……? 青の大陸のアレスヴァルド神聖王国……?」
「知っているのか?」
 この大陸では誰も知らないだろうと名乗った名前に、意外なところから反応が返ってきた。リューシャがリマーニで出会った金髪の子どもが、アレスヴァルド王国の名を知っていたのである。
「へ……父上に聞きました。この世界で最も格が高い古王国の名前だと」
「え、ちょっと待って? 君、そんなに偉い人なの?」
「別に偉くはない。偉ぶるのは得意だが」
「なんて微妙な返答を……」
 シェイと名乗った銀髪少年の問いに、リューシャは堂々と答える。実際、リューシャはアレスヴァルドの第一王子にも関わらず限りなくその玉座から遠いところにいるのだから、偉いようで偉くないというのもある意味真実ではある。
「それより、お前は何者だ? 我が国の名はこの大陸で長生きかつ博識な魔族でさえ印象が薄いと言っていた。それを知っているということは、お前自身相当な上流階級の人間なのだろう?」
「……」
 話の矛先を自分の方に向けられ、金髪の子どもはリューシャにさえ怯えたように、またもシェイの背後に隠れてしまった。
「どうした。別に素性の全てを話せとは言わぬ。せめて名前ぐらい名乗れ」
「……スヴァル」
「スヴァルか。やはり我には聞き覚えがない名だな」
 リューシャにしても一応青の大陸内の国家の重鎮なら記憶しているが、さすがに世界の反対側の王侯貴族の名前までは覚えていられない。
 ここ最近でようやく大陸間を渡す船舶の技術が発展してきたとはいえ、まだまだ大陸同士を渡るような旅は珍しいのだ。当然国交に関しても基本は同じ大陸内の国々の中で行う。異大陸との交流が活発なのはリマーニのような港町を抱える海岸沿いの国ぐらいで、それだってせいぜい隣の大陸との交流と、中央大陸との交流が限界だ。
 ただし船旅の安全がある程度確保されたことで、王族が大陸を移動するような交流はなくとも、情報や商売に関しての交流は近年活発である。離れた大陸に直接向かわずとも、中央大陸を経由する貿易の航路が確保されたことにより、様々な品物と、それから情報を大陸から大陸へ渡すことが以前よりも容易となった。
 これにより各国の王族たちは他大陸のことに関して、「なんとなく」知っているような状態が基本となった。それでもやはり、青の大陸と緋色の大陸のように世界のまるで反対側の事情はほとんど入って来ない。リューシャもスヴァルの名は知らなかったが、彼の属する国名を聞けばそれがどこであるかぐらいは分かったかもしれない。
 とはいえ、当の本人であるスヴァル自身がそれを言いたくなさそうだ。別段追求する理由もなければ、下手に関わって厄介事を増やしたくない。リューシャはあえてそこまで詮索しなかった。
 その代わりというわけでもないだろうが、リューシャの名乗りに関しては無反応だったシェイがスヴァルの名を聞いて首を傾げた。
「スヴァル……君? あれ、その名前、どこかで聞いたことがあるような」
「え……わ、私はこの大陸の人間じゃないよ」
「ああ、うん。僕もこの大陸の人間じゃないんだ。生まれは黄の大陸の砂漠地帯。あまりそういう感じはないけど一応ベラルーダ王国の領土に属する月の民の一族」
「ベラルーダ……?! ラウルフィカの……」
「うちの国の王様を知ってるの? やっぱりスヴァル君も偉い人なの?」
「ではお前も黄の大陸の人間か」
「う、ううう」
 年上の少年二人に次々に素性を当てられて、スヴァルがどことなく陰のある表情になる。
「私は……父上には望まれていないから……」
「えっと、それは……」
 落ち込んでしまったスヴァルをシェイがよしよしと慰め……ようとして断念する。お互いに手枷を嵌められているので話をする以外のことはできない。
リューシャがいつも通り淡々と口を開く。
「別にそれは……構わないだろう。誰かに望まれてここに自分がいるのではない。自分が生きると決めたから生きるのだ。何故この世に生まれてしまったのかと嘆いたところで、何も救われはしない。何も生み出しはしない」
 もしも自分が自分でなかったら。それはこの世で最も無意味な仮定だと、それでも止められない感情を何度も繰り返しながら、リューシャはそう自分にとっての答を出した。
「だから――ただ、生きるのだ。そこに理由も、価値もない。それでも生きる価値や理由が必要だと思うなら、それは誰かに与えられるのを待つのではなく、お前自身の手で作るべきものだろう」
 シェイとスヴァルが驚いた顔でリューシャを見つめていた。
「……なんだ」
「ううん。ちょっと、ね」
「それよりこの人身売買組織とやらに関してもう少し話してくれ。いざ脱出するとなっても、敵のことをよく知らねばうまく立ち回ることはできない」
「……逃げるつもりなの? 逃げられると思っているの?」
「逃げられずとも逃げなければならないのだ。我は役目を果たすまで死ぬわけにはいかぬ」
 生まれながらに与えられた神の託宣。その真の意味を知り、神意を果たすまでは死ぬわけにはいかない。
 それがアレスヴァルド王族の務めなのだから。
「――わかった。これまでに僕が知りえたことを教えてあげる」