030
馬車は絶え間なく揺れながら走り続けている。
外装は巧妙に偽装されていて、この馬車が人身売買組織に捕らえられた少年たちの乗る馬車だということは、外から見た限りではまったくわからないだろう。
街道を行く車輪の音だけが響く中、ほとんどの少年が泣きつかれて寝入ってしまったらしい。まだ昼日中にも関わらずとても静かだった。
起きているのは三人だけだ。脱出の隙を常に窺っているリューシャとシェイ。そして二人の傍を離れない幼い少年スヴァル。
何かワケアリの様子を見せるスヴァルは、リューシャに素性を尋ねられたりシェイにそこから何かを勘付かれたりと予想外の攻撃を受けて動揺が激しい。それでも彼は二人から離れて他の人間の傍に行くのではなく、リューシャやシェイと共にいることを選んでいた。
胸中に複雑な想いを抱えつつも、彼もまた二人と同じくここから逃げ出すことを諦めていないのだろう。
そんなスヴァルに先程からじっと見つめられているような気がして、リューシャはようやく口を開いた。
「なんだ? 我の顔に何かついているか?」
スヴァルは首を横に振る。
「では何故そんなにも注視する」
「……ここにいる人たちはみんな綺麗だけど、お兄ちゃんは特に綺麗」
「そうか。見物料はとらぬから存分に見ておけ」
「リューシャ、凄い返しだね……」
シェイが呆れたように笑う。
確かにこの箱馬車の中に十人近くいる少年の中でも、リューシャの美貌は突出している。
シェイもスヴァルも大層愛らしい顔立ちをしているが、その気になれば市井の人々に溶け込むことが可能な程度だ。
一方、アレスヴァルドにいた時代から面倒な輩に目をつけられ愛されるどころか疎ましがられるばかりだったリューシャの美貌とは、そうしてどこにいても人の中に埋没しない異質なものだ。何が違うというわけでもないのに、人々は感じる。それが自分と違う生き物であることを。
リューシャの持つ美とは、そういうものだった。あどけない印象の強い「少年」の顔立ちでありながら、それはすでに完成されている。永遠に老いることのない人形のように、この先どのように成長するかがまったく予測できない、凍りついた美貌。
「こんなに綺麗な人、ラウルフィカぐらいしか知らない」
しかし意外なことに、スヴァルはそのリューシャに匹敵するだろう美貌の持ち主が他にいることを伝えてきた。あくまで彼自身の主観ではあろうが、自分がある意味特異な外見をしている自覚があるリューシャとしては予想外だった。
他に綺麗と言えばウルリークもかなりの美形なのだが……あれは魔族、しかもその美貌を餌に他者を惑わす淫魔なので論外としておく。
「ラウ……なんだって?」
「スヴァル君……前にもそう言ってたよね? ねぇ、もしかして君は……」
リューシャには馴染みのない音の羅列も、この地域ではよくある名前なのかシェイは簡単に聞き取った。確かこの二人は以前もこんなやりとりを交わしていたのではなかったか? シェイがうちの王様がどうこう言っていた気がする。
「リューシャお兄ちゃんとは違うけれど、ラウルフィカはとっても綺麗。だから父上はラウルフィカを気に入って、何度もうちの国に呼び寄せたりしてた」
「……」
スヴァルの言葉にシェイが複雑な顔で押し黙る。リューシャとしては、いまいち二人の話題の先が見えずに沈黙するしかない。
「私がいなくなれば、父上はたぶんラウルフィカに取引を持ちかける。私の今の教育係はラウルフィカだから、このまま私が国に帰らなければあの人が責任をとらされることになる」
まだ七つ、八つ、間違っても十にはなっていないだろう幼い顔立ちに、街で育ったただの少年には出せない複雑な影が落ちる。
「そんなのは――駄目だ。だから、私も帰る。ここから逃げ出したい」
「そうか」
その結論を伝えるために、今までの話があったらしい。
「なら、三人で脱出の手段を考えるぞ――シェイ」
「うん。見張りの意識も今は逸れてる。馬車の中が静かだからね。ほとんど寝てるって思ってるみたい」
箱馬車の壁面の幌の隙間からそっと外の様子を窺っていたシェイが答える。
リューシャより何日も前に捕まったシェイは、虎視眈々と脱出の機会を狙っていた。他に捕まった少年たちを残していくのも気が引けるが、彼の他に自力脱出を目論む気概のある少年がいなかったのでこれまで誰にも相談していない。
けれど黄の大陸から攫われて来て、船を降りる際に一度脱走を試みたというスヴァル。連れて来られた当初から自分を攫った人買いたちへの敵意を隠そうともしなかったリューシャなどの同士を得て、決意を新たにした。
とにかくここから逃げ出して安全を確保しないことには話にならない。他の少年たちを助け出すにしても、武器を取り上げられたシェイの腕では無理だ。一番確実なのはここから脱出し、近くの街の警備隊に伝えて人身売買組織を逮捕してもらうこと。
「リューシャは、剣とか使えない?」
「全然駄目だ。何の訓練もしてない。下手に振り回す方が危ぶまれる」
「スヴァル君は?」
「小刀くらいなら……でも重い剣は持てない」
「小刀か。見つかればいいんだけど難しいな。目につく武器と言えばあいつらが腰につけてる普通の剣ぐらいだけど、ふいをついて奪っても使える人間がいなきゃどうしようもないな」
「その前にまずはこの手枷をどうにかするべきだろう」
「気づかれないように逃げるなら、馬車の出入り口の鍵もだね。それでも走行中に飛び降りるのは危険だよ」
「かなり速度が出ているからな。第一それでは気づかれるだろう」
「でも休憩時に逃げても見つかるんじゃあ……」
「難しいな……」
シェイは剣さえあればそれなりに戦えると言うが、何しろ人身売買組織とは人数が違う。華奢な少年ばかりとはいえ「商品」が人であるので、向こうも人数を揃えているのだ。
リューシャは戦闘に関してはからきしで、スヴァルはまだ子どもで貴族の子弟の手慰み程度にしか武器を扱えない。
そもそも武器自体この馬車には積まれていないのだから、どこかで調達する必要がある。
とにかく絶対的に戦力が足りなかった。見張りのふいをついて逃げるにしても、強行突破できるだけの力が足りない。
「とにかく機を待つべきだろう。どちらにしろ走行中の馬車から逃げ出すことはできない。奴らだって不眠不休で走らせることはないだろう。どこか大きな街で速度を落とすようなことがあれば、その時が狙い目だ」
「じゃあそれまでに、せめてこの手枷をどうにかしなきゃね」
シェイが自らの腕を拘束する枷を忌々しげに睨んだ。
馬車に乗せられる際の負担を考えてか、手枷は今後ろ手ではなく腕を身体の前にまとめる形でつけられていた。おかげで負担は少なくなったが、身動きとれないことにはかわりない。
「と言っても、どうやって外すんだこれ……」
手枷を睨みながらシェイは眉根を寄せる。
彼はこれまで脱出の機会をうかがうために見張りの交替の時間などは地道に調べ上げていたのだが、どうしてもこの手枷を外すことができず、また他の少年たちの説得にも失敗して協力者が得られなかったため、上手く脱出できずにいたのだ。
だが人身売買組織が逃亡と取引のために拠点であったリマーニを離れたのだ。もう迷っている時間はない。ぐずぐずしていたら、本当に売られてしまう。
「せめてこういった手枷じゃなくて手錠だったらもう少し余裕あるんだけど……」
彼らの手に嵌められているのは、半円状の二つの穴が開いた二枚の金属板を上下に合わせて固定する形の枷だ。しかも金属でできているので、少しぶつけただけでは壊れそうにない。鍵は彼らの前に直接は現れない組織の上の方の人間が所持しているらしい。
「あの……仮病とか使って、相手が油断したところを取り押さえるとかは?」
スヴァルがおずおずと提案する。シェイは目を輝かせたが、リューシャは首を横に振った。
「それだと見張り以外の連中にも余計な情報が伝わって警戒される恐れがある。それに、枷を外さない治療なら無意味だ。うまく枷を外されたとしても、その方法に期待するならば一人しか自由になれない」
「そっか……」
仮にリューシャに多少の武術の心得があれば、それでもうまく言っただろう。組織の人間を一人二人程度でもいいから捌けるならば危険を冒して枷を外しても利がある。シェイの他にもう一人戦える人間がいるなら、多少の無茶もできた。しかしリューシャはこの中では自分が一番足手まといになるだろう自覚がある。
「できれば、奴らに見つからずに抜け出すのが一番だ」
手枷を外さずとも見つからぬうちに遠くまで逃げられるなら良い。だがさすがにそこまで上手く行くのを期待するのは楽観的すぎるだろう。
手枷を外す方法。見張りの目を盗み逃げる方法。警備隊に駆け込む機会。それらを何とかする必要がある。
「いや、でも本当に、この枷なんとか外せないか? 僕一人の時は無理だったけど、今は三人いるんだから」
「自分の分は無理でも、人のものなら外せるかもな」
シェイが腕を伸ばしてリューシャの手枷に触れる。二枚の金属板は頑丈な鍵で固定されていて、どれだけ揺すってもびくともしない。
さすがに金属板そのものを壊すことは難しいので、狙いを鍵に定めた。知恵の輪でも外すかのようにあらゆる方向から力を加え、押したり引いたり試してみるが上手く行かない。
一通り試し終えたところでリューシャはふとあることに気づいた。
「シェイ、交代だ。よく考えたら我の枷が外れたところで何にもならん。腕が自由になるなら剣が使えるというお前の方がいい」
この状況でシェイがリューシャの手枷を外すことができたとしても事態はあまり好転しない。
「あ、そうか。じゃあお願い」
一度体勢を変えて今度はリューシャがシェイの腕を戒める枷に指先を伸ばす。
「く……この状態では服の中の七つ道具すら探ることができん。今度から隠し場所を改良すべきだな」
「一体何を持ってんのさリューシャ……」
鍵開けにはそれなりの技術がいるのでリューシャにできるかどうかはわからないが、少しでも役に立つだろう道具は全て服の中だ。装飾が多くごてごてしているリューシャの服は脱がせるにも面倒な手順が必要で、腕を使えないこの状況では懐を探るのも難しい。
隠し持つのが目的だからすぐ出せるところに入れておくわけには行かないが、それでも手が使えないだけで必要な時にすぐ出せなくなるのは問題だなとリューシャは考えた。
今は何とか自力で、シェイの手枷の鍵を外すしかない。要領が掴めれば道具なしでも枷を外せるようになることを期待して指先を動かし続ける。
――だが、案の定上手く行かない。
「……くそっ」
焦りばかりが募る。単調な作業に焦れ、考えなくてもいいことを考えてしまう。
今自分がこうしている間にも、セルマたちは自分を探し回っているに違いない。シェイは自分を待つ人間はいないと言っていたが、待つ人間がいたらそれはそれで大変なのだ。
力が。
もう少しだけ自分に力があれば、こんなことにはならなかったのに。
今までで一番、心の底から力が欲しいと願う。その時だった。
「!?」
パキ、と微かな音を立ててリューシャとシェイの手枷の金属板に罅が入った。
「やった……!」
シェイが小さく歓声を上げる。二枚の板を閉じている鍵の部分ではなく、金属板の真ん中から砕けるようにして手枷が外れた。
「凄いじゃないかリューシャ! どうやったんだ?」
「いや……すまん。我が狙ってやったわけではない。どうして外れたのか……」
二人の手枷はリューシャの指が触れた場所から、外れるというよりもむしろ“壊れた”。
シェイは無邪気に喜んでいるが、すぐ傍でその光景を凝視していたスヴァルは言葉を失っている。
ずっと鍵の部分を弄り続けていたリューシャはたまたま手元が狂って金属板の方に指で触れた。それだけだ。それだけなのに。
「細かいことはどうでもいいよ。それより、スヴァルの枷も外せる?」
「いや、駄目だ」
先程のように指で触れても、鍵を壊そうと力を入れてもどうにもならない。
「それなら仕方がないね。スヴァル君、もう少しだけ我慢してね」
シェイはスヴァルに言い聞かせると、壊れた手枷の金属板を一枚手に取った。素手で殴るよりはマシだろうと、当面はそれを武器にするらしい。
リューシャも一枚拾うべきだろうかと考えたが、それよりも自分が元から持っている魔道具が何か役立つかもしれないと考えて懐を探る。
各々が脱出のための準備をしていると、そのうち馬車がゆっくり減速しはじめた。
「え? もう街についたの?」
その割には漏れ聞こえる人の気配が少ない。街に着いた時のように様々な生活音が聴こえるわけでもなければ、人買いたちが行き来する気配もない。
訳が分からないまま息を殺して身構えていると、遂に馬車が止まった。
「はいはーい。こんなもんでいいでしょ」
「全員を一瞬で眠らせるなんて、そんな便利な手が使えるならあんた一人で良かったんじゃないの?」
「えー、だって俺じゃ転移術が上手くないから移動に限界がありますもん。それに隙をついて眠らせることはできても、真正面から倒すのは苦手です」
幌の外から話し声が聞こえる。そのうちの一つに聞き覚えがあり、リューシャは思わず叫んだ。
「ウルリーク!」