032
何故人身売買組織の人間が皆眠らされ、馬車の扉も壊されていたのか? その問いにはリューシャが「商品を横取りしようとした盗賊たちが襲ってきたが軍隊の登場に恐れをなして何も取らずに逃げた」という設定を適当にでっちあげた。
細かく調べれば不自然なところは無数に見つかるだろうが、リューシャの口調があまりにも堂々としていたためか、執拗に疑われて閉口するというような事態にはならなかった。
その代わりもっと困った事態にはなっているが。
「スヴァル殿下!」
人身売買組織を討伐に来た一団は、リューシャが知るような鉄製の鎧ではなく、簡素な布だけの軍服を身につけている。その疑問にはシェイが答えてくれた。この軍人たちは、ベラルーダの軍人だと。
黄の大陸南部の砂漠地域に存在するベラルーダ王国では一年を通して暑いために鉄製の鎧は身につけないという。特に夏場は乾燥した空気に太陽が練り付け鎧など身につけた日には冗談でなく敵より前に暑さに殺される。
書物で知識として読んだことはあるが実感のなかったそれに、リューシャは感嘆を覚えると共に不穏を感じた。
どうしてそれだけ遠くの国が、わざわざ大陸を渡ってまで兵を寄越したのか。
その不安は、スヴァルの名を呼んでこちらに駆けてきた一人の青年の存在によって確信となった。
「ラウルフィカ」
「お、王様?!」
スヴァルが名を呼び、シェイが卒倒しそうに驚く。彼らの口から何度か聞いた名前だ。
それは砂漠の国を治める王の名。
「心配いたしました」
スヴァルの足下に駆けてきて跪き顔を見上げた青年は、見る者が思わず声を失う程の美貌だった。
スヴァルはリューシャも同じくらい綺麗だと言っていた気がするが、とんでもない。毎日自分の顔を鏡で見るリューシャも、これほど美しい人間を初めて見た。
年の頃は二十歳前後か。少年らしい不安定さを抜けたばかりの、まさしく青年という雰囲気を持つ男。
癖一つない真っ直ぐな漆黒の髪。砂漠の人間には珍しいほどの真っ白な肌。澄み渡る透明な湖を思わせる青い――青い瞳。
通った鼻梁にほんのりと色づいた唇。ほっそりとしたおとがいから視線を下にずらせば滑らかで不思議な色香を放つうなじ。
厳つい兵士の間に立っていると華奢に見えてしまうが、実際は実に芸術的なバランスの細身だ。戦士のような雄々しさはないが女性的ななよやかさではなく、男でも女でもない中性的な生き物のよう。
かといって少年体型というわけではなく、少年にしても小柄なリューシャからしてみれば羨ましいほど身長がある。一目で男だとはわかるが、所謂男臭さはないのだ。絵画の天使を見ているかのように、完全な美を誇る造形。
それでも表情豊かでスヴァルを案じるその様子から真剣に心配していたことが伝わってくる。お人形みたいに綺麗だが人間とは思えない冷酷さだと非難されるリューシャとは違う。
本当に――綺麗。
そっと聞こえた溜息をリューシャは自分が発したものかと思ったが、どうやら隣のシェイのものだったようだ。彼の眼もラウルフィカの美貌に釘付けになっている。うっとりと見惚れながら呟いた。
「あれが……かの有名なラウルフィカ王」
その声に当のラウルフィカが気づいたようで、スヴァルとの話をやめてこちらに視線を向けた。
「!」
他の少年たちと少し離れスヴァルの近くの微妙な位置に立っていたリューシャとシェイは気付けば取り残されたように二人だけで立っていた。彼らもリューシャたちの扱いに戸惑っているのかもしれない。
「君たちは?」
発見された時スヴァルがシェイにしがみつきリューシャの服の裾を掴んでいるという状況だったからだろう。ラウルフィカは端正な顔立ちを水辺の花のように綻ばせながら穏やかに尋ねてきた。
「あああ、あの、その、僕たちは」
「……緊張しすぎだぞ、シェイ」
見かねたのか、スヴァルが簡単に二人を紹介する。
「シェイお兄ちゃんと、リューシャお兄ちゃん。シェイお兄ちゃんは月の民、リューシャお兄ちゃんは、アレスヴァルドの人」
「アレスヴァルド?」
スヴァルがその名を聞いた時と同じく、ラウルフィカもアレスヴァルドの名に顔色を変えた。そして彼はスヴァルとは違い、スヴァルが明かさなかったその動揺の理由まで口にした。
「リューシャ? リューシャ=アレスヴァルド?! まさか、父王を弑逆して指名手配となっている第一王子――」
「違う!」
半ば予想されていた大陸間をまたぐ指名手配の報に、咄嗟にリューシャは叫び返していた。
「父上を殺したのは我ではない!」
リューシャはラウルフィカの瞳を真っ直ぐに睨み付ける。その叫び声と殺気立った表情に周囲の兵士たちが警戒し、一斉に槍をリューシャに向けた。
「リューシャ!」
シェイが庇おうとするがリューシャはその場を動かなかった。その代わり、ラウルフィカは自らの率いてきた兵士たちの動きを制するべく片腕を上げて掌を小隊長に向けている。
一瞬にして緊張が漂い場が硬直する。
「まさか……本当にリューシャ王子なのか……? どうしてアレスヴァルドの人間が、こんなところに……?」
ラウルフィカが困惑の声を上げる。その疑問は尤もだ。
緋色の大陸流星海岸に飛ばされてからリマーニに到着するまでの日数で、どうやらゲラーシムは各大陸にリューシャを指名手配する通達をしたらしい。だがその報を受け取った方も、まさかアレスヴァルドから世界の反対側である緋色の大陸にいるとは思っていなかっただろう。
これで逃げ場はどこにもなくなった。アレスヴァルドの名を出せば、世界の反対側でさえ上流階級にはバレることが判明したのだ。
「貴様が信じるかどうかは別だ。だが我は、エレアザル王を殺してなどいない」
「陛下になんという無礼な口の利き方を!」
謙る様子のまったくないリューシャの態度に周囲の兵士たちが気色ばむ。だが、ラウルフィカ王はそれも止めた。
「落ち着け。最古の王国とも呼ばれるアレスヴァルドの人間、それも王族なら気位が高くて当然だ。アレスヴァルドの王はそれこそ神にでもなければ頭を下げない人間らしいぞ」
「――詳しいな」
「何せ私はベラルーダ王だ。生憎と黄金の大陸は、誇りだけでは王の座につけないからな」
ちくりと皮肉の棘を刺すその言葉に、リューシャはラウルフィカへの評価を改める。穏やかそうだという初見の印象は迂闊過ぎた。この男は曲者だ。脳内で相手の印象を若干修正した。
ラウルフィカは彫像のように整った指を伸ばして、リューシャの華奢なあごを小鳥をそうするように指先で掬い上げる。
見つめ合うのか、睨み合うのか。
リューシャの瞳は空の青、ラウルフィカの瞳はオアシスの青。二つの青が交錯した。
先程リューシャが思わずラウルフィカに見惚れたのと同じくらいじっくり、今度はかの王がリューシャを値踏みする。
「……どうやら、本物のようだな」
騙っても旨味がない名を、虚栄のためだけに命懸けで名乗る理由はもとよりない。ラウルフィカはリューシャの背景を気にすることもなく、あっさりとそう断定して指を離した。
「そっちの少年は――」
「月の民の……シェイ=ラブラです」
「確かにその銀の瞳はイシャルー近辺の民の特徴だが……何故この大陸に? いや、愚問だったな。あの組織に攫われてきたのか」
正確にはシェイはラウズフィールを追いかけてきてこちらの大陸で攫われたのだが、スヴァルの例もあるのでそれでラウルフィカは納得した。
「他の者たちはいいとして、君たち二人はスヴァル様の素性を知っているのだったな」
本来そこに気づいていたのはラウルフィカが治めるベラルーダ国民でありその縁でシャルカント帝国にも多少知識のあるシェイだけだったのだが、彼らが到着する寸前にリューシャも暴露に巻き込まれた。
「悪いがそういう相手を、このままあっさり返すわけにはいかないんだ」
シャルカント帝国は、南東帝国とも呼ばれ黄の大陸南東地域を支配する帝国。もともと大陸の四方を支配する帝国はそれぞれの勢力が拮抗していたが、数年前に親帝国派のベラルーダ王国を取り込んだことにより一気に勢力地を広げたという。
スヴァルはそのシャルカントの皇太子。他に跡継ぎとなる皇子はいくらでもいるが、帝国の皇子が人買いに攫われたなどという話は外聞が良くないだろう。
ラウルフィカの青い瞳がじっとリューシャを見つめる。
「考えてみれば、良い機会だな。青の大陸で指名手配されているアレスヴァルドの王子を確保できた。この出兵もそのためと理由付けができれば、スワド帝はお喜びになるに違いない」
嫌な予感がする、とリューシャは思った。
その予感は再び確信となって、玲瓏な声で紡がれる。
「君たち二人は、我らが黄金の大陸にて歓待しよう」
逃がしはしないと。
微笑む目元が容赦なく告げる。
「え、で、でも僕はこの大陸で――」
「シェイ」
シェイの追うラウズフィールという青年がいるのはこの大陸だ。黄の大陸はシェイの故郷ではあるが、彼としては緋色の大陸に残りたいという気持ちの方が強い。
だがここでラウルフィカたちベラルーダ勢に逆らうのは得策ではない。リューシャは彼の手を握って気持ちを落ち着かせると、ありったけの矜持の欠片をかき集めて告げた。
「そのもてなし、承る」
「それでいい。……そう怯えずとも、スワド帝は君をアレスヴァルドに引き渡すことはないだろう」
先程スヴァルが浮かべたものとよく似た影のある表情で、ラウルフィカがそう言った。
「二人とも綺麗だからな。逆らわずに大人しくしていれば皇帝陛下は目をかけてくださる」
指示を飛ばすラウルフィカの言葉に、兵士たちが早速動き始めた。リューシャとシェイを有無を言わさず連れ出し、騎馬兵に遅れて到着した貴人用の馬車に乗せる。
「リュ、リューシャ……」
人身売買組織に囚われていてもあれほど気丈な態度をとり続けていたシェイが、今は青褪めて微かに震えている。善良な民としてこれまで生きてきたシェイにとっては、国の権力者から問答無用で目をつけられることはただの犯罪者を相手にするより恐ろしいのだろう。
しかもラウルフィカのあの憐れむような表情と言葉。彼についてシェイやスヴァルはなんと言っていた? 父上、皇帝がラウルフィカを気に入っている? それはきっと、まっとうな意味ではないに違いない。
「大丈夫だ」
震えるシェイの手を握りしめてリューシャはそう告げる。攫われてきた薄暗い部屋の中で、彼が最初に自分を気遣ってくれたように。
声を一段潜めて囁く。
「……アスティとウルリークは姿を消したが、どこかでこの状況を確認しているはず。あいつらがすぐに来る」
「そ、だね」
「お前を助けるよう手配した恋人もきっと」
「そう、だよね……!」
ぎゅっと縋りつく手に手を重ね、なんとか心を落ちつけようとするシェイを見守る。
馬車の外で兵士たちが行き交い出発の準備をする喧騒はまだ止まない。だが途中で入り口が開いた。
無表情のスヴァルがそっと中に入り、そのままリューシャとは逆側のシェイの隣に座り、腕を組むように絡める。
その透明な水のように何かが抜け落ちた表情からは、リューシャでも少年が何を考えているのか読み切れなかった。