Fastnacht 09

036

 潮風の吹きつける港町。港の様子などどこも変わらないだろうというリューシャの予測は、大きく裏切られた。
 ラウルフィカに連れられて上がった甲板からついに目前に迫った未知の大陸を目にし、その玄関口となる港の美しさに息を吐く。
 緋色の大陸で出航したリマーニの街は赤い煉瓦造りの建物と倉庫が多く雑多な印象のある街並みだったが、ここから見える到着予定の港町は白く整理されきっている。
 黄の大陸において現在最大の領土と勢力を誇るシャルカント帝国。通称南東帝国の領土の一つにその港はあった。
 建物が白いのは壁が漆喰だからだ。リマーニとはそもそも建築物の素材が違う。
 整った印象を与える要因の一つには、船の配置がある。この港はリマーニよりも船を寄せる位置に関しその船の規模で相当細かく整理しているようだった。特に今はベラルーダ軍の巨大な軍艦を迎え入れるためか、大きく場所を空けられている。
 そして、彼らは黄の大陸、黄金の大陸と呼ばれる、砂漠地帯の広さで有名な六時の大陸へと到着した。
「……帰って来ちゃった」
「あまり深く考えるな」
 シェイの脱力気味の呟きを聞き、リューシャは肩を叩いて慰める。商人や海兵でもない限り、余程のことがなければ生まれ育った大陸を飛び出してまで旅をする人間はいない。黄の大陸を出てラウズフィールを探すという選択はシェイにとっても大きな決断だったろうに、まさかこんなに早く帰ることになるとは思わないだろう。
 リューシャは声を潜めに潜め、すぐ隣に立ったシェイにだけ聞こえるよう囁く。
「……とにかく、ラウルフィカがスヴァルを皇帝に届けた後が勝負だ。隙を見て逃げ出すぞ」
「――うん」
 もちろん二人は黙ってシャルカント皇帝の言いなりになる気はない。なんとか隙を見て逃げ出すつもりだ。
 自分の知り合いがセルマとダーフィトだけだったなら、リューシャもそこまで逃亡の意志を見せなかったかもしれない。だが今は魔族のウルリークがいる。彼ならば例え自分の手持ちの札に有効なものがなくとも、いくらでも反則技を使って必ずリューシャを探し出してくれるはずだ。
 実際にウルリークは人身売買組織に囚われたリューシャを助けに来た時、アスティと言う名の少年と手を組んでいた。目の前で消えた二人の行動から察するに、あの少年は相当な魔術の使い手だ。その魔術師をも魔法のようにあっさりと懐柔するのが淫魔ウルリークの手腕なのだから、油断せずに機を窺っていれば逃亡の機会は絶対に巡ってくる。
 リューシャも自分一人ならばこれから会うはずの皇帝を懐柔するなど多少汚い手段を使う覚悟はあったが、今はシェイが一緒だ。彼をそのようなことに巻き込みたくはない。
「そろそろ接岸するぞ。作業の邪魔になるから一度中へ入れ」
 ラウルフィカに促されて船室に戻る。
 ――そして一行は、ついに黄の大陸へと辿り着いた。

◆◆◆◆◆

 宮殿はまさしく白亜の城だった。贅を凝らした純白と黄金で飾られた豪奢な外観はお伽噺の舞台とするにも相応しく、帝国の威容を一目で伝える。遠目にも瀟洒だが近くで見れば一層、溜息が出る程の芸術的な美しさが身に迫った。芸術的な彫刻の数々はそれだけでどのような美術館も比べ物にならない。
 内部に入れば目よ潰れろと言わんばかりの迫力ある浮彫の数々。値の張る素材を利用するばかりではなくきちんと太陽の光の角度まで計算され尽くしており、大理石の廊下は降り注ぐ陽光によって黄金の輝きを帯びていた。
 眩暈がしそうなほど長い廊下には装飾的な柱だけではなく、かっちりとした制服を着こむ衛士がずらりと並んでいた。宮殿の装飾を計算に入れてデザインされたのだろうその制服もまた素晴らしく、無数の柱の前に無数の衛士が並び、真紅の絨毯が歪みの一つもなく真っ直ぐに敷かれた道の眺めは壮観の一言に尽きる。
 その道をラウルフィカの先導により歩き、リューシャたちはこの帝国の「謁見の間」へと足を踏み入れた。
 シャルカント帝国。黄の大陸南東地域を支配するその国の現在の支配者は、スワド帝。
 今年で二十三歳になる若き皇帝。眩い黄金の髪と翡翠の瞳を持ち、精悍な男らしい容貌でありながら、王族の優雅さと高貴な雰囲気をも持ち合わせる堂々とした支配者。
 そして――皇太子スヴァルの父親だ。
「ようこそ。我がシャルカント帝国へ。今を時めくアレスヴァルドの王子よ」
 芝居がかった冗談交じりの物言いで彼らを迎えたのは、あらかじめラウルフィカに教えられていた通り、支配者然とした空気を纏う皇帝スワドだった。
「そしておかえり、ラウルフィカ。よくぞ皇子を取り戻してくれた」
 ラウルフィカが跪いて形式的な口上を述べる。船の上でシェイやリューシャの話に耳を傾けていた時の明るい表情とは打って変わり、今のラウルフィカは感情の掴みにくい無表情だった。
 仰々しい帰還の言葉と謝罪が終わり、ラウルフィカが口を閉じてようやく、スワドは己の息子に声をかけた。
「無事で何よりだ、スヴァル」
「……ご迷惑をおかけしました。皇帝陛下」
 親子のやりとりは、皇帝に挨拶をするラウルフィカの口調より更に素っ気ない事務的なものだった。どちらも、何も感じていない。スワドの息子を案じる台詞は言葉だけの薄っぺらいもので、スヴァルは本心の欠片も見せずただ国の権力とベラルーダの海軍を使わせたことに対する謝罪を述べるのみだ。
 離れ離れになり、下手をすればスヴァルの命の危険さえあったはずなのに、心配も不安も、会えて良かったという安堵も何もない。
 リューシャも若干顔を顰めたが、その隣に居心地悪そうに立っていたシェイの顔がだんだん曇っていく。
「ではな、スヴァル。お前はゆっくり休め。明日になったら各部署に顔を出して皆に“病気から快復した”報告をするといい」
「……かしこまりました」
 仕草だけ優雅な礼をとり、見事な皇太子そのものの動作でスヴァルが退出する。けれど少年の顔に感情はまるでなく、お人形が綺麗に歩いているようにしか見えなかった。
「さて。本題はここからだな。――近う寄れ」
 スワドの促しに反射的に彼を睨み付けたリューシャの肩を、ラウルフィカが掴む。薄らと実用的な筋肉のついた成人男性の体格であるラウルフィカと、少女のように華奢で小柄なリューシャでは初めから力勝負になどなりはしない。
 シェイもおずおずと二人の後をついていく形で、三人は玉座に座る皇帝の前に立った。
「まずは皇帝として、君たちを歓待しよう」
 自分が許せないことには妥協せず暴走しがちなリューシャの性格を見越してか、皇帝の前に立ったリューシャをラウルフィカがその脇で監視している。
「スヴァルの誘拐に関しては現在この国最大の重要機密だ。外で簡単に言いふらされては困る。そのことはわかってもらえるな」
「我はそちらの事情に従う理由はないが、この国をかき乱す理由も別にない。スヴァルとは多少の縁がある。わざわざ好んで不名誉な噂を立てるような真似は趣味ではない」
「趣味じゃない、か。報告通り、中々面白い奴のようだな」
 ラウルフィカが部下に魔術か何かででも連絡をしていたのだろう。スワドにはある程度リューシャの人となりも伝わっていたようだ。
「だがそういう奴は好きだ。利益で動く人間は簡単に乗り換える。馬鹿高い程の矜持を持つ人間の方が簡単に裏切ったりしないものだ」
 皇帝は翡翠の瞳でじっくりと値踏みするようにリューシャを見つめる。
「歓迎しよう。アレスヴァルド王子リューシャ殿下。どうせ我が国は貴国から離れすぎている。わざわざ青の大陸に懇切丁寧に罪人を届けてやる義務もない」
「生憎だが冤罪だ」
「なら尚更だな。見つけ次第処刑してかまわないとの通達だが、実行してあとで面倒に巻き込まれるのは困る。私はシャルカント皇帝。この帝国を支配できればそれでいい」
 あっさりと言い切って、スワドは玉座の肘掛に頬杖を突く。
「ふふ。今日は歓迎の宴でも開くか? こんなに可愛らしい客人が訪れるのは滅多にないからな」
 獲物を探す肉食獣の眼差しがリューシャから今度はシェイへと向けられる。
「そちらの少年も綺麗だな。見事な銀髪だ」
 そこで、彼はちらりと意味ありげにラウルフィカに視線を移した。
「皇帝陛下」
「なんだ、ラウルフィカ? よもや、この私に逆らうのではあるまいな」
「――いいえ。滅相もない」
 ラウルフィカは、暗い瞳で続けた。
「けれど今日ぐらいは、“病から快復した”ばかりのスヴァル殿下の傍にいてさしあげてはどうかと」
「なあに。あれの傍にはお前がいてやればいい。あれもお前に懐いている。教育係にしたのは正解だったな」
 確かにスヴァルは船の中でもラウルフィカが好きだと口にしていた。けれど今ラウルフィカが言いたいのはそういう問題ではない。
「私はスヴァル殿下の父親ではありません。この帝国の皇帝はいずれあなたではなくなりますが、スヴァル殿下の父親は、この世界にたった一人、あなただけなのですよ」
 諌めるようなラウルフィカの言葉にも、スワドは平然と返した。
「ああ。この帝国の皇帝の首など簡単に挿げ替えられる。だからこそ私はいついかなる時も油断せずこうして玉座に着いていなければならないのだ。父親役を放棄して被害に遭うのは息子たちだけだが、私が皇帝でなくなれば数千万の生活が左右されるからな」
 だから民ではなく子を斬り捨てるのだと、スワドは平然と言ってのける。人身売買組織に攫われた息子を気遣うこともしない。生まれ育った大陸から異大陸に売られかけスヴァルがどれだけ不安だったか、知ろうともしないのだ。
「だいたい、あれが護衛もつけずに勝手に城を抜け出したのが今回の発端だろう。自業自得だ。それともあれの手落ちを無視して他の者の責任を追及すべきだというのか? なぁ、皇太子の教育係であるラウルフィカ王?」
 そう言われればラウルフィカは黙るしかない。彼はスヴァルよりも自国の民、ベラルーダを守らなければならないのだから。
 歪んでいる。リューシャは思った。この街の、この宮殿の、そうした見せかけの美しさと反比例するように、この帝国の在り方は今までリューシャが見てきたどの国よりも歪んでいる。
 その歪みを生み出しているのは、目の前の男。
 じっと睨んでいたらそのスワドが視線に気づいた。リューシャの険のある眼差しをそよ風のように受け止め、口元に笑みを浮かべる。
「さて、客人たち、それにラウルフィカ王よ。
長旅御苦労だった。どうやら宴を開いたところで三人とも出席できるような顔色ではないな。客室の支度はすでにしてある。今日はゆっくりと休むが良い」
 その言葉を合図にラウルフィカが退出の礼をする。彫像のように一言も発さず緞帳の影に控えていた使用人たちが進み出る。
「リューシャ王子」
 去り際にスワドが呼びかけてきた。
「我々の友好的な関係を深めるのは、明日以降の話としようじゃないか」
「……そうだな」
 正直今すぐにでもこの宮殿を脱出したいところだが確かに体は疲れ切っている。
「我らへの歓待はすでにラウルフィカ王に十分受けた。皇帝よ、御身はその時間で息子に会いに行ってやれ」
 告げると、何が面白いのかスワドは笑い出した。だがリューシャはこんな男の考えなど慮りたくはない。どうせ不快な推測しか成り立たないであろうから。
「そうだな。たまにはそうしてやろうか。もっとも、スヴァルの方で私を嫌がるだろうがな」
 妙に上機嫌な皇帝の前を辞して、三人の謁見はようやく終わった。