第2章 縁を結ぶ歌
10.黄金の檻
037
父親はいつも通りだった。自分もいつも通りだったが。
長い廊下を歩きながらスヴァルは考える。周囲に護衛の兵士はいるが、何の会話もない。重苦しい沈黙を携えて、葬列のように彼らは進む。
スヴァルにとっては、この状況がむしろ普通だった。シェイやリューシャと一緒にいた頃は自分の中ではよく喋っていた方だ。
皇太子として自分に課せられた役割は理解している。その役割に、自分の人格も性格も関係ないことも。
父である皇帝はそのような些事は何一つ気にしない。スヴァルが人買いに攫われて行方不明になったことは少しばかり帝国を揺らがせたかもしれないが、それだけだ。どれほど不利な状況からであろうとあの皇帝は嬉々として事態を自分に有利なように持ち込む。
スワド帝は生まれながらの皇帝だ。誰も彼を諌めるようなことはできない。
彼の息子で、この帝国を継ぐべき長子でありながらスヴァルにはそこまでの才は受け継がれなかった。宮殿に勤める者たちの反応はスヴァルにそこまでの才覚がないことを嘆く者と、父親の傍若無人な性格を引き継がなかったことを悦ぶ者と二分される。
スヴァルにも母親となる女性――皇帝にとっての正妃がいたはずだが、その辺りの記憶は酷く乏しい。
高貴な身分の女性が我が子の世話を乳母に任せきりにするなど上流階級ではごく当たり前のことだが、それにしてもスヴァルには母親に関する記憶がまったくない。皇太子の外戚ともなれば母方の親族がこぞって顔見せに来てもおかしくないのだが、ついぞそのような事態はなかったように思う。
つまり父である皇帝が止めているのか、とスヴァルは考える。あるいはもうすでに母妃は亡くなっているのか。よく、わからなかった。そしてどうでも良かった。
実の母など探さずとも後宮には父王の側室が溢れ返る程にいるのだ。そのうちの幾人かがスヴァルの弟妹にあたる皇子皇女を生んでいたはずだが、皇帝はその弟たちにもスヴァルとほとんど変わらぬ接し方をしている。
だから、現状に特に不満はない。そうならないようにスヴァルは育てられた。
市井に出ればこのような子どもは珍しいらしく、お忍びで出かける度に色々と言われたものだ。そこでようやくスヴァルは、自分が人と違うことを知った。
言われなければ気づけない。自分にとってはこれがずっと当たり前だったのだから。
それが変わりはじめたのは、ここ最近のこと。
教育係の顔触れはほとんど変わらぬまま、その筆頭に帝国の友好国の一つであるベラルーダの国王の名が増えた時からだった。
共に過ごす時間こそ短いものの、ラウルフィカはスヴァルにとってこの宮殿で生きてきて初めて人間らしい人間だった。使用人たちと同じ……と言っては失礼かもしれないが、つまりは皇族と直接接触するような出来の良過ぎる配下たちと違い、他愛ないお喋りに興じる時のメイドや厨房で威勢良く怒鳴りながら料理をする料理人たちのような、生きている人間らしさを感じるのだ。
作り物の仮面のような美しい笑みを貼り付けた、父の他の部下たちとは違う。
スヴァルはすぐにラウルフィカに魅せられた。それに比して宮殿内の良くない噂も以前より耳に入るようになった。皇太子のことはともかく、その教育係に任ぜられたベラルーダ王に対して不満を持つ者の多さからだ。
現在この帝国の後宮で最も皇帝の寵愛を集めている妃は誰かと問われたら、宮廷の者たちはどう答えたものか頭を悩ませるに違いない。けれど単に皇帝の寵愛を最も受けている者は誰かと聞かれたならば、彼らはこぞってこう答えるだろう。
それは、ベラルーダ国王ラウルフィカだ、と。
皇帝はラウルフィカをいたく気に入っている。ラウルフィカの方でも帝国には逆らえないという意識があるために、時には皇帝の無茶な要望に対して心を砕き、便宜を図る。
三年前、ベラルーダの貴族が皇帝スワドに対し不敬を働くと言った事件があったらしい。これは帝国内ではなく、ベラルーダ内で起きた事件だという。だからスヴァルも、この宮殿に住まう者たちもその詳細はほとんど知らない。別に聞かずとも皇帝の外遊に付き添った重鎮たちの口が重いことから、その経緯がろくでもないことだったのだろうとわかる。
しかし過程はどうあれ、皇帝はその事件をも利用してうまくベラルーダを支配下に置いた。ラウルフィカはスワド帝の言うことには基本的に逆らわず、見返りとして皇太子の教育係という地位まで手に入れた。
自らの状況をそうして皇帝と他国の王に上手く使われていることは、スヴァルもわかっている。けれどスヴァルはそれでもラウルフィカが好きだった。
お忍びで出た先でまさか人身売買組織に攫われるとは思わなかったが、それで帰れなくても別に構わないかという思いが存在したのも確かだ。それでも脱走までして逃げようとしたのは、自分がいなくなれば名目上とはいえ教育係を任じられているラウルフィカの不利になりそうだったからだ。
スヴァルの自我は弱い。弱くても構わなかった。強烈な個性を発揮して早くから才能を見せつけるように育てば、それはそれで父帝に利用される。
そして、皇帝と皇太子にとっては、お互いこそが玉座を廻る最大の敵なのだ。
そんなことをつらつらと考えながら廊下を歩いていると、向こうから人影がやってきた。
慣れた歩みは宮廷に縁深い人間を思わせる。けれど護衛らしき存在は屈強な男が一人だけで、貴族には見えない。
それもそのはずだった。華奢な人影の顔立ちを見てスヴァルは相手を悟る。
「……レネシャ殿」
「スヴァル殿下ではありませんか。お久しぶりですね。お加減がよろしくないと伺ったのですが、もう具合は大丈夫なのですか?」
流麗な挨拶の後にそうしてこちらの体調を気遣うような言葉をかけてきたのは、ベラルーダを本籍とする大商人、ヴェティエル商会の当主レネシャである。十六歳という若さで会長を務め、商会の隅々まで掌握している有能な商人だ。
肩を過ぎる程に伸ばした髪は金糸のよう。青い瞳は青玉のよう。リューシャとはまた違った意味で、少女のように可憐な美貌の少年。
しかし現在、この少年こそが黄の大陸の南東地域を商売と言う点で完全に支配している。
皇帝はベラルーダを訪れた際に王宮に出入りしていたレネシャと出会ったらしい。その頃のレネシャはまだ商会の当主ではなくその父が商会主であったが、すぐにレネシャが後を継ぐことになった。それ以来シャルカント帝国でもレネシャのヴェティエル商会を何かと贔屓にしている。
彼はスヴァルの身辺で最も油断ならない人間だ。今だってそう、口では皇帝が流した皇太子の病気の噂を真に受けたようでありながら、その眼は事情などすべてお見通しだと言わんばかりに微笑んでいる。
そもそも貴族でもないただの商人が平然とこうして他国の宮廷に出入りできるだけで只者ではない。スワドはベラルーダ関連という名目だけではなく、レネシャ個人をも気に入っているのだ。
父の性格もレネシャの裏の顔も知るスヴァルは、この二人が気の合う仲だというのはなんとなくわかる。むしろ二人を繋ぐ位置、間に挟まれた場所にいるラウルフィカの方が不思議だ。
まだ七歳のレネシャはラウルフィカにもレネシャにも会って間もない。ベラルーダで彼らに一体何があったのかもわからない。
でも、それでいい。自分が何かを知るのを望まれる日など来はしない。
「――それでは、御前を失礼いたします」
中身のない美しく整えられた社交辞令を一通り口にし終わってレネシャが場を辞す挨拶を口に乗せる。それもスヴァルはぼんやりと見送った。
どうせレネシャの方でも、スヴァルが何も聞いていないことなどわかっている。全部全部上辺だけのやりとりだ。なんて薄っぺらい。
――殿下は、それで良いのですか?
自我の希薄な自分にかつて向こうの方が泣きそうな顔で問いかけてきた人の言葉が一瞬脳裏を過ぎる。でも、それだけだ。凪いだ水面にはその言葉すら、僅かな漣も起こさない。
人攫いに攫われた。そこから助けられた。どちらもスヴァルの日常。人格を無視され役割だけを求められる中身のない人形として生きる。それは人身売買組織に扱われようと、この宮殿にいようと変わらない。
スヴァルの日常はそうして過ぎていく。
◆◆◆◆◆
「良いのですか、レネシャ様。皇太子殿下はあまり話を聞いていない様子でしたが」
「いいんですよ。今の内になんとなくでいい、お互いの顔を見知っている程度に繋がりがあるということが大事なんだから」
こちらに対しほぼ無関心な皇太子の反応まで正確に把握しながら、三年前からやり手の商人として生きる少年は部下に告げる。
「意外とああいう人物の方が、一皮むけて大人になった時怖い程の底力を発揮するもんなんですよ」
「そのようなものですか」
「ええ。生真面目さが鬱屈して爆発する人間って一番怖いんですよ」
レネシャはくすくすと笑う。その様だけ見れば愛らしいのに、その笑顔の意味するところは考えるだに恐ろしい。
彼が憶測と想像だけで中身のないことを言わないと知っている部下は戦慄する。レネシャがこういう時は、最低でも一人はそうした人間を見知っているということだろう。
「さて、殿下への御挨拶も終わったことですし、ようやく黄の大陸にお帰りになった愛しの陛下の方にお会いしに行きますか」
◆◆◆◆◆
ベラルーダ王に連れて行かれたリューシャとシェイの足取りを追い、アレスヴァルド組と辰砂組は手を組んで黄の大陸までやってきた。
とはいえ、海上で騒ぎを起こすわけにも行かず普通に船に乗って入港しただけだが。
黄の大陸の南東区域全体を支配するシャルカント帝国は栄えていた。緋色の大陸も荒んでいたわけではないのだが、それ以上の活気がこの国にはある。
とはいえ、旅の目的が目的だ。のんびりと観光などしている暇はない。
早速買った地図にいざと言う時の隠れ家や逃走経路になる場所を描き込み、具体的な行動の話に移る。
「――まずは何にせよ、皇帝の宮城に侵入しなきゃならないな」
「宮殿自体の構造や逃走経路を把握しておかないと。あとは――殿下方がどこにいらっしゃるのかも」
「そればっかりは、実際に忍び込むしか探る方法ないんじゃない?」
「忍び込むとは言っても、宮殿だよな。コソ泥が盗みを働くのと同じには考えない方がいい」
「もちろん。忍び込むとは言うものの、実際には何らかの方法で登城もしくは入城を許可される必要があるね」
しばらく彼らは、その入城方法に関して話し合う。出入りの業者に紛れる、侍従侍女など城で働く人間の募集に応募するなどだ。
「別に帝国側はちょっと少年二人を確保したところで通常運営だからね。大きな祭りの前でもないし、特に人手は必要としてないらしい」
メイドや料理人に紛れるという案は却下された。この事態の解決を強く望むラウズフィールが少々危険な発案をする。
「私が貴族の身分を明かしてそのまま入城許可を求めるのは?」
「シェイ君がどこまで事情を話しているかにもよるけど、どちらにしろ危険じゃない? 下手をすれば故郷の家族や知人にも迷惑をかけることになるよ」
「それは……」
生まれ育った大陸を一度は離れたラウズフィール。すでに故郷を捨てているも同然だが、それでも家族や知己を巻き込みたいわけではない。
「正面からは無理。正攻法は駄目。……じゃあ、あとはどうだろう」
「王城に出入りする貴族に雇われるとかどうでしょう?」
「そんな一朝一夕で雇った新人を宮殿に伴うとは思えないぞ」
ああでもない、こうでもないと言い合うが、良い案は浮かばない。
「普通の方法じゃ駄目ってことなら……何かこの国の偉い人特有の嗜好とかありませんかね? 例えば美少年好きとかそういうのだったら俺が男娼窟にでも売り込みに行きますけど」
「ウルリーク?! いくらお前でもそんな無茶は……」
過激な提案にダーフィトがぎょっとして止めようとする。その口から説得の言葉が飛び出すよりも、セルマが溜息をつく方が早かった。
「美少年漁りならそれこそお腹いっぱいの状況だろう。むしろ清廉潔白な人柄であれば殿下が手を出されずに済むと祈る方がいい」
「結構すごいこと言いますよね、セルマさんて」
皇帝が男女問わず美形を相手にするのが好きだとは言っても、今この状況で望むかはわからない。何せ囚われているリューシャはちょっと他では見ないような美少年なのだ。
「そのリューシャ王子とやらがどれだけ美形かは知らないけど、余計なことしなければそう酷い目には合わないと思うよ。非常識な程の美形ならうちの陛下がいるし」
「うちの?」
「……ベラルーダ王だよ」
「ああ、皇帝の愛人とかいう噂のある」
帝国に関して噂を集めるうちに幾度となく聞いた話をダーフィトは口にする。その台詞に銀月が苦い顔をするのを、不思議そうに見つめる。
「あー、前にそう言えば聞いたねぇ。皇帝は自分に媚び媚びの人間よりは真正面から刃向かってくる奴とか、表向き丁寧な態度をとりつつ裏では舌を出してる奴とかそういう方が好きなんでしょ」
「……性格悪いですね」
まったくだと各人頷く。とはいえラウズフィールだけは、そういうことならシェイはしばらくは無事だろうかと少し安心した様子だ。リューシャの性格を知っているアレスヴァルド組は逆に不安が募ったようだが。
「それで、そういう視点で言ったら皇帝には美少年以外の趣味ってなんかないの? ザッハール」
「趣味ねぇ……」
この中ではかつてベラルーダ宮廷に勤めていた経験から一番皇帝スワドの人柄に詳しいと思われる銀月に視線が集まる。
「気まぐれで好奇心の強い方ですから、興味を引く者はなんにでも手を出すって感じですよ。うちの陛下にも最初から興味津々でしたし、とにかく目の前で面白いことをやれば近づけるんじゃないでしょうかね」
「面白いこと……?」
漠然としたその言葉に、全員がそれぞれ何かを思い浮かべる。例えば、とウルリークが辰砂を横目で見ながら口を開いた。
「僕創造の魔術師でーすって突っ込んでったら気に入ってもらえます?」
「俺が帝国宮廷勤めなら皇帝の前に連れていかず叩き出しますね! そんな不審者」
明るいウルリークを爽やかに銀月が両断する。
「っていうか、やらないから! ったく、正体明かした途端にこれかよ!」
ウルリークにかまをかけられて創造の魔術師であることがバレた辰砂が深い溜息をつく。悪戯好きの淫魔は冗談ですよと惚けるものの誰も信用しない。
「まぁそれはそれとして、辰砂さんを見てたら思いついたことがあるんですよ。――こんなのいかがでしょう?」
続いて口にされたウルリークの発案に、一同はまたもや何とも言えない様子でお互いの顔を見合わせるのだった。