Fastnacht 10

040

 スヴァルと一緒にシャルカント宮殿内を散歩しているシェイは、次々に視界を埋め尽くす芸術に圧倒されていた。皇帝の城はもはや平民のような住居ではなく、それ自体が一つの作品のようである。
 月の民の集落を飛び出し旅をしていたシェイだが、その間はずっとラウズフィールを追うのに夢中で立ち寄った街などをじっくり見て回る時間もなかった。仕方のないこととはいえ強制的に足止めを喰らわされた現在、スヴァルの心遣いは身に染みる。
 もとより寡黙な性質らしく必要以外のことは喋らないスヴァルだが、感情を伴わない対外的なやりとりは皇太子らしく非常に洗練されて滑らかだ。宮殿の案内もこの歳の子どもとは思えない丁寧さと流暢さで、シェイは思わず感心してしまう。
「ありがとう、スヴァル。リューシャたちが話している間、僕が退屈しないようにしてくれたんだね」
 手を繋いで歩く少年に、シェイは笑顔で礼を告げる。無表情でそれを受け取ったスヴァルが、ふいに一角を指差した。
 二人は今、宮殿一階の中庭に来ている。庭なので一階で当たり前なのだが、この宮殿は空中庭園まで存在する大きなものだ。だがスヴァルが案内したのは特に珍しくもない地面に接した方の庭だ。
 もちろんこの中庭も庭師が丹精を込めて作り上げた自然の芸術となっているが、屋上の空中庭園程珍しいものではない。にもかかわらずスヴァルがシェイをここに案内したのは訳があった。
 緑の迷路の入り口まで辿り着き、スヴァルはシェイに再び声をかける。
「今から通る道を、しっかり覚えて」
「え? う、うん」
 スヴァルがシェイに教えたのは、そう複雑な道のりではなかった。迷路の出口まで辿り着く道順ではなく、その途中までのものだ。
 しかしその途中の道にシェイは違和感を覚えた。色鮮やかな花を咲かせる迷路庭園だが、この宮殿で用いられているのは南国の花だ。普通迷路庭園と言えば一年を通して緑の壁が楽しめるように常緑樹で拵えるそうだが、シャルカントの気候では南国の花を用いたらしい。
 そのため茂った枝葉が密集している常緑樹とは違い花枝の造り上げる空間が若干大き目に感じられるのだが、それにしても。
「ここ……頑張れば子どもくらいなら通り抜けられそうだね」
「実際に通ることができる。私はここを使って街に出た」
 スヴァルの台詞にシェイは息を呑む。
 つまり上手く見咎められずにこの道を使えば、宮殿の外に脱出することも可能だということだ。
「スヴァル……君、何を考えているの?」
 口数少なく、表情や声の抑揚にも乏しいスヴァル。その気になれば上手く喋ることはできるが、上手く自分の感情を伝えることはできない。恐ろしい程器用で、同時にとことん不器用な子ども。
 シェイとリューシャがこの宮殿に来る羽目になったのは、彼の存在によるところが大きい。けれどそれについてスヴァル自身がどう思っているのか、いまいちシェイたちには理解できなかった。
 人身売買組織に捕まっている間はすすり泣くだけの少年たちよりシェイたちに懐いていたが、無事に助け出された今はその必要もないだろう。
「……シェイお兄ちゃんは、どうしてそうなの?」
「そうって?」
「どうして絶望しないの?」
 可愛らしい唇が紡ぐ可愛らしさの欠片もない言葉に、シェイはぴたりと動きを止める。
「いつだって、どんな時だって、あなたは誰よりも諦めない。リューシャお兄ちゃんはまだわかる。あの人は合理的だから、それが汚い手段だとか考えず使えるものはなんでも使う」
 栗鼠のように丸い翡翠の瞳がシェイを見上げた。
「けど、シェイお兄ちゃんは違う。いつだってまっすぐだ」
 シェイの打算やつじつま合わせとは無縁の真摯な生き方は、リューシャも眩しさを感じたものだ。しかしスヴァルのそれに対する感じ方はリューシャともまた異なる。
 彼は空を飛ぶ鳥を眺めるような眼差しでシェイを眺めた。翼を持つ相手を自分とは違う生き物だと認識するその眼で。
「私はそれが知りたかった。だから二人をここに来ることに巻き込んだ。でも、二人が出て行きたいなら、行けばいい」
 観察を終えた実験動物を放すかのようにあっさりと脱出口を指し示す。
「スヴァル……」
 困惑したのはシェイの方だ。スヴァルが自分に対して何らかの思惑を持っているのはわかっていたが、さすがにこの状況は予想がつかない。
「スヴァルは……君は、今も絶望しているの? だから宮殿を抜け出したりしたの?」
 皇太子が人身売買組織に攫われたのは、お忍びで街に出ていたから。けれどスヴァルの性格からすると、「退屈な城の生活に嫌気がさして」だとか「街の人々の暮らしに興味を持って」などという絵物語の行動的な王族の肖像は当てはまらない。
「絶望……しているわけではないと思う。でも私は、今も昔もカラッポだ」
 シェイは否定をしなかった。否定せずに根拠を上げられるほどこの少年を知らない。そしてシェイの知る限り、スヴァルは確かに感情豊かで充実した人生を送っている訳ではなさそうだ。
 自身を空虚だと断じるスヴァルの発言には痛ましさを感じる。けれどそれを安っぽい言葉で慰められるだけの経験はシェイにも足りない。
 だが。
(この感じ、前にもどこかで――)
 シェイは一年と少し前のことを思い出した。まだ彼がベラルーダを出る前のことだ。
 ああ、そうだ。
 ――私は周囲の人々を不幸にする力を持っている。血を見ると我を忘れて暴れてしまうんだ。これもどうやら前世からの因縁らしくてね。
 ――君とここで会って、ちょうど良かったよ。彼女を上手く丸め込むことができたからね。
 ――え? 何、本気にした?
 本心を見せない男。スヴァルのような無表情ではなく、明るい笑顔の道化の仮面を被る青年。真剣な悩み事もまるで何気ない嘘のように誤魔化して、傷ついた胸を押し隠す。
「そうか、君は……」
 スヴァルはラウズフィールに似ているのだ。自分は魔王の生まれ変わりだから、誰の傍にもいられないと独りで絶望していた彼に。
 魔王の力と皇太子の身分と権力、笑顔の仮面と人形じみた無表情。理由や表層の態度は違うけれど、しかし胸の奥にこの状況がどうにもならないという絶望を抱いている点は同じだった。
 二人とも自分は不幸などではないと言うだろう。スヴァルだって絶望という表現は否定した。
 確かに二人とも身分も財力も優れた容姿も持っている。どこに行ってもそれなりにもてはやされることは可能なだけの実力がある。これで不幸だなどと呟いたら、その日一日を生きるのに必死な人々にぶん殴られるだろう。
 けれど、本当の意味で他人に心を許すことはない。傷つけないためにも傷つけられないためにも最初から人を愛さない方がいいと思っている。彼らの心は虚ろだ。スヴァルが言うように、カラッポなのだ。
 シェイは別れ際のラウズフィールの様子を思い出した。あの頃、彼はシェイに対して少なくはない好意を抱いていてくれたと思う。
 そして、だからこそラウズフィールが自分の傍を離れたのだということもわかっている。相手を大事に想えば思う程ラウズフィールは離れていくのだ。彼の婚約者であった少女相手の時のように。
 シェイはそれを知っていた。知っているから追いかけてきたのだ。あの馬鹿男はきっと余計なことを考えすぎて今も独りだろうから、その傍にいるために。
 彼が自分から離れて、その後も幸せを掴むことができると思えたならシェイはどんなに好きでもラウズフィールを追いかけたりはしなかった。でもそうではない。ラウズフィールは独りになるためにシェイの傍から離れたのだから。
(ああ、馬鹿だな)
 一人で傷つき、誰にもそれを悟らせないまま、独りになる。彼はそういう人なのだ。
 ラウズフィールにはきっと自分が必要だ。シェイはそう信じている。彼が悲しみ苦しんでいる時は、何もできなくともただ傍にいてやりたい。心からそう思う。
(そうか。僕は……あいつを愛しているんだ)
 今まで何度も口にしてきた割に、自分でも明確な根拠を提示できなかった想い。けれど運命などという曖昧な言葉を使わずとも、今なら言える。
 彼の幸せのためなら離れられる。彼が不幸になるとわかっているから、追いかけずにはいられない。独りで泣かないで。そう言いたい。ただそれだけのために。
「……スヴァル」
 自分に答を与えてくれたこの年下の友人に感謝をしている。だからスヴァルにも、何らかの解を与えてやりたい。
 けれどシェイにもわかっている。自分ではスヴァルの虚ろを満たしてやることはできない。今スヴァルが最も懐いているラウルフィカにも無理だろう。船の中で彼の告白を聞いてしまった。自分たちはもう、一番大切な人を選んでしまっているのだから。
 それでも、シェイはこうも思っている。例えそれがいつも同じ意味の一番ではなくとも、人が人を愛し愛された経験は決して無駄にはならないと。
 シェイが今言えるのはこれだけだ。
「この世界で生きることから、そして自分自身の想いから、目を逸らさないで」
 目に見えず音にも聴こえない、けれど確かにそこに存在する叫びに耳を塞いでしまわないで。
「生きていくことは徒労を積み上げることかもしれない。君が皇太子としての立場は恵まれたものだと自覚すればする程、自分自身がカラッポであることが苦しくなるかもしれない。それでも」
 スヴァルが目を見開いた。初めて見るもののようにシェイの顔を凝視する。
「……君は自分自身で思う程に無感動な人間じゃないよ。本当は優しい子だ。優しいからこそ、その立場で多くを望み過ぎてはいけないと自制しすぎるんだ」
 自信に満ち溢れた皇帝スワドとその息子でありながら控えめな皇太子スヴァルは容姿以外一見似ていない。けれどスヴァルの心にはやはり父親の影があるのだろう。彼が父親と似ていないのは、父親を意識しすぎていることの裏返しだとシェイは思う。
 望めば全てが手に入るのだろう皇帝スワドは人としての権威だけでは飽きたらず、辰砂を足掛かりに神の領域にまで手を出そうとしている。スヴァルはそんな父親に反感を覚えるからこそ、自分の立場を自覚して節制するのだ。
 どちらが良いのか、正しいのかなどシェイにはわからない。元々月の民は純粋な王国民とはかけ離れているし、そうでなくとも庶民に王様の気持ちはわからない。
 少なくとも、スヴァルの在り方が間違っているようには思えないことだけは確かだ。
「僕はスヴァルが好きだよ。大事な友達だ」
 あの時、人身売買組織に捕まっていた暗い部屋で、リューシャが来る前にほんの少しだけ話をしていた。その時からシェイはスヴァルを友人として好きになった。
 容姿を除けば感情の起伏が分かりづらくて若干可愛げないとも言われそうなスヴァルだが、そんな自分を自覚して常に一番良い道を考え続ける姿には好感が持てる。今回この大陸までシェイたちを連れてきたのもあんまりろくな理由ではなかったようなのだが、それでもこの真正直さは嫌いになれない。
「君が望む通りではなくても、ラウルフィカ陛下だって君を大切にしている」
 スヴァルはこくりと頷いた。だが、瞳には影が落ちている。彼はやはりラウルフィカが好きなのだ。けれどその想いは恐らく報われないだろう。
 それでも彼が彼を愛したこと、愛されたことは無駄ではないのだ。
「目を開いていて。いつか誰よりも君が愛し、君を愛してくれる人のために。どうか、運命を捕まえて」
 感情に重いも軽いもないが、それでもシェイより十歳若いスヴァルの人生はまだまだこれからなのだ。成長すれば物の見方も変わる。新たな出会いや別れを経験して自分が変わることもあるだろう。
「……道を教えてくれてありがとう。その時の状況によっては別れの挨拶はできないかもしれないけど――君の幸せを願っている」
「うん」
 スヴァルが頷く。
「……うん、僕も」
 そろそろリューシャとラウルフィカの話も終わった頃だろう。部屋に戻ろうかと二人は手を繋いで歩き出す。道はわかっても、シェイにはこのままリューシャを置いていくなんてことはできない。
「……ありがとう。シェイお兄ちゃん。やっぱり、二人に来てもらって、よかった」
「どういたしまして」
 銀の太陽は、翳りなき光を投げかける。