043
「リューシャ王子ってのは、そんなに重要な人物なのか?」
「ああ。何せかつてこの僕と引きわけたくらいだからね」
温い風が吹く。シャルカント宮殿に囚われている少年二人を助け出す作戦会議を途中放棄した辰砂に無理矢理つき合わされ、銀月は中空に身を浮かせていた。
足元には皇帝のいますシャルカントの宮殿が存在する。一足早く現場を見に来た形だ。
あの宮殿に今いるのは、皇帝とリューシャ王子たちだけではない。
辰砂とウルリークの話に寄れば、そもそもリューシャ王子たちを捕らえて帝国に連れてきたのはベラルーダ王ラウルフィカだったという。銀月自身も別大陸にまでベラルーダ軍が出張っていたのを見た事だし、あの国の最近の情勢を思えば容易に納得できる話だ。
(陛下……)
ラウルフィカには昔から敵が多かった。父王の急逝によってあまりにも早く玉座に着いた少年王を利用せんと近づく者が多かったからだ。
当時からラウルフィカの摂政であり、宰相であるゾルタがその筆頭だ。しかし彼は同時に、少年王の最大の庇護者でもあった。ゾルタの野心は自らが権力を握り国を上手く治めることに向いていて、例えばお伽噺の悪役に登場するような民に重税をかけて豪遊するような方向のものではなかったからだ。だからこそラウルフィカは最初の脅迫の時点ではゾルタの言うことに従った。
しかしゾルタと彼が引き込んだ男たちは、国において自らの役割を果たす代わりにラウルフィカへの扱いがぞんざいだった。彼らにとってラウルフィカは敬うべき国王ではなく、美しい容姿を一方的に愛でるだけの奴隷だった。
そして銀月――ザッハール自身も、そういった男たちの一人だったのだ。
今は彼を始め自分を脅迫し辱めた五人の男たちへの復讐を果たしたラウルフィカだが、その代わりに彼らよりもっと厄介な人物と繋がりを作ってしまった。
「ラウルフィカ」
一度拒絶された自分は、傍にはいてやれない。けれど風の噂に苦境を聞くたびに胸が痛む。
無事に復讐を果たしたのにまだ救われることのない王。しかも今度の事件はベラルーダやシャルカントだけではなく、不吉な神託の下に生まれたというアレスヴァルドの王子が関わっている。
それだけなら銀月も気にしなかっただろうが、アレスヴァルドの王子が只者でないということを、他でもない世界最強の魔術師の口から聞かされた。
ならば、その運命に巻き込まれる形となったラウルフィカはどうなる。
今更自分に何ができるとも思わないが、それでも目を逸らすことができない。
「馬鹿は死んでも治らないというけど、君のベラルーダ王好きも結局治らなかったよね」
辰砂の呆れ声を微笑んで聞く。
「いいんですよ。それが俺の望みなんだから」
「……本当に。君は馬鹿だね」
銀月は「おや?」と思った。顔色も声の調子も普通だが、辰砂の様子がおかしい。これまではラウルフィカにまつわる自分の考えに頭がいっぱいで気づかなかったが、そもそもラウズフィールを置き去りに自分だけを連れてここに転移してきた意味はなんだ?
「お師様。ラウズフィールのことは放っておいていいんですか?」
「あ。そういや忘れてた。……まぁいいか。どうせ向こうとの連絡役がいた方がいいだろうし」
何か意図があって彼だけ置いてきたのかと思ったらどうやら違うらしい。これは本格的におかしい。
銀月が問い質すよりも早く、辰砂の方から口を開いた。
「ねぇ、ザッハール。教えてよ。……どうして君はそうして笑っていられるの? 自分にとってとても大事な人に殺されるところだったのに。その死を、願われたのに」
「辰砂?」
彼は数えきれないほどの年月を、数えきれない程の転生を繰り返して生き続けた伝説の魔術師。しかし今の辰砂は、まるでその見た目通りのあどけなさを残すただの少年に見える。
「憎んだんだ。恨んだんだ。僕は僕を殺した相手を。大事にして大切にしていた分、目の前に敵として現れた時は、裏切られた気持ちだったんだ」
引き裂かれる心そのままに、色違いの両眼からその色の涙が零れそうな悲痛な告白だった。
近しい者の精神の揺らぎに自らも胸奥に漣が立ちそうなのを抑え込んで、銀月は告げる。
「……ならそれを聞くのは、俺にではありませんよ。俺は裏切られたことなんて一度もありません。ただ俺が、あの人を裏切っただけです」
もともと銀月の方がゾルタたちに唆されるままラウルフィカを裏切ったのだ。どの口で恨み言など言えよう。彼が自分を刺したのは当然の報いだ。肌に埋まる刃の痛みに比するだけのものはもうもらった。
「辰砂が気にしているのは、リューシャ王子ですか? 彼は一体、何なんです?」
「あいつは……」
そして、銀月は師からいち早く真実を聞いた。
◆◆◆◆◆
シャルカント城内に設けられた執務室でラウルフィカが欠伸を噛み殺していると、昨日と同じようにリューシャとシェイがラウルフィカを尋ねて顔を出した。
「今日はどうしたんだ?」
「図書室を借りたい」
「図書室?」
リューシャの手には昨日ラウルフィカが渡したばかりの資料があった。創造の魔術師に関しての調査結果だ。
「軽く目を通したが……読めん。そもそも我は神話に疎ければ、東側の文化にも疎いのだ。何のことを言っているかさっぱりわからん」
「リューシャが頭を抱えてたから、わからないことがあるなら人に聞いてみるか本でも読んで調べたら? ってことになったんです。僕も暇だから付き合おうかと」
シェイの補足にラウルフィカは頷く。なるほど、それで図書室か。リューシャは不機嫌そうに言う。
「どうせ城の外の図書館は使えないだろう? ならせめてここの王宮の図書室を貸せ」
「別に構わない。と、言いたいところだが私の城ではないしな。シャルカントの司書を一人貸してもらうか」
そこに、またしても丁度良くスヴァルがやってきた。相変わらず、見計らったかのような登場だ。
「図書室なら、私が案内できる」
「本当か? 頼めるものならお願いしたい」
こくりと頷き、スヴァルはリューシャの手を引いて宮殿に併設されている図書室へと向かった。
「図書室」とは言うものの宮殿のそれは規模で言うならば立派に「図書館」と称せるものだった。天井が講堂のように高く壁面にずらりと本棚が並んでいる。その本を取るためにはもはやいちいち梯子など使っていられないというように壁に設置された階段と細い通路を使うようになっていた。
床にもびっしりと本棚が並んでいる。足元に車輪がついているので、この棚自体も移動できるようだ。
本を直射日光に晒さないためか高い位置にある窓も小さく、最低限の視界を確保できるだけの光源にしかならない。天井の明るさと足下の昏さが不思議に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
宮殿内部に出入りできる者ならばこの図書室の本の貸し出しも自由らしいのだが、リューシャはそこまでする気はなかった。後で何かあった時問題になるのは御免なので、必要な記述だけ控えてさっさと部屋に戻るつもりだ。
「リューシャお兄ちゃん、何を探しているの? 私にわかるものなら何冊かとってくる」
「創造の魔術師について調べたいんだ。西側では魔術師の地位は低いため研究が進んでいない。初心者用のものを貸してくれ」
「わかった」
スヴァルは特に理由を聞くこともなくあっさりと頷くと、リューシャとシェイを席で待たせて自分は迷わず室内を進んでいく。床置きの本棚と壁面二階から合わせて数冊の本を引き抜くと、リューシャのもとへ持ってくる。
「辰砂について知りたいならこの辺り。こっちとこっちは簡単な文章だけど基本から意外と専門的なことまでしっかり書いてある。こっちは各地方のお伽噺や伝承で描かれる辰砂像。この二冊は推測が多くてあんまり役に立たないかも」
リューシャとシェイは思わずしばし無言になる。スヴァルの顔と卓の上に並べられた書物を見比べて溜息を吐きだした。
「普通一言辰砂と口にしただけで、即座にこの蔵書の中からこれだけ的確に探し出せるか?」
「スヴァルってなんていうか……凄いよね。きっと凄い皇帝陛下になるんだろうね」
スヴァルはふるふると首を振ると、後は何も言わずに席についた。己の役目はこれで終わりとばかりに傍観の姿勢に入るらしい。
「ところで、リューシャはなんで創造の魔術師について調べているの? 不老不死で今も生きているなんて言われているけど、あれって要は神話でしょ?」
今更と言えば今更、当然と言えば当然の問いをシェイが発する。シェイは昨日のリューシャとラウルフィカの会話については知らないし、リューシャは船の中でも自分が気になっている銀髪の少年が「辰砂かも知れない」という話まではしていない。
「神話だから調べるのだろう」
「?」
「?」
「神話ってお伽噺じゃないの?」
「神話なんだから歴史だろう。史実ではなくとも」
「?」
「?」
どうやら二人の認識には大きな差があるようだ。
「……そうか。その辺りも差があるか。西側では神々の勢力が強く、実際我が国では“神託”によって政治を決定する局面もある。だから神話とは過去の歴史の一部だ。それによって我々の歴史が創られていったのだから」
「東側では神話はただの物語に過ぎない。かつて地上に神々がいたということも、創造の魔術師の実在に関しても証明できた者はいないから。辰砂は優れた魔術師を選び出すとまことしやかに囁かれているけど、所詮は噂。ただの推測でお伽噺だよ」
「……どうでもいいけどお兄ちゃんたち、その辺の東西での認識の落差に関しては中央大陸の学者が論文を書いてるよ。アリオス・フェルナーって人」
「何?! どれだ?!」
「最初に言ったそれとそれ」
スヴァルの指摘通り、彼が実用的だと示した専門書の二冊ともがその著者だった。魔術の門外漢にもわかりやすい平易な語り口だが内容はかなり込み入った「創造の魔術師研究書」とでも呼ぶべきものだ。
リューシャはそのうちの一冊をまず手に取り、最終頁で発行の日付を確認した。順序として先に書かれた方から本文に目を通し始めていく。とはいえ、どちらもここ十年以内に書かれた比較的新しい研究書だ。
「じゃあ僕はこっちを借りようかな」
リューシャが専門書を手元に引き寄せたので、シェイは逆にスヴァルが信憑性は薄いと評した伝承記録の方を手に取る。各地方で伝えられる神々や創造の魔術師にまつわる小さな物語が幾つも載っていて、読み物としてはこちらの方が小説を読んでいる感覚で面白い。
「……シェイお兄ちゃんがさっき聞いたことと重なるけど、リューシャお兄ちゃんはどうして辰砂について調べているの?」
「それはだから、神話が――」
「なんで辰砂について調べているの? 東側の歴史に興味があるの?」
重ねて問われ、リューシャはようやく意図を読みとった。
「ああ、そっちか。我が生まれつき不吉な神託を与えられたというのは船で話しただろう。その神託の解釈の手がかりが神話時代の人間である辰砂の記録にないかと探しているだけだ。事故とはいえせっかくこうして東に来たのだし」
「……そう」
その理由で納得したのかしていないのか、スヴァルはそのまま引き下がる。と、思ったが。
「辰砂と言えば、三年前に行方不明になったベラルーダの宮廷魔術師長が辰砂に見出されたんじゃないかって噂があるよ」
「やはり有名な話なのか? それは」
「事件そのものは隠されそうな性質だけれど、下手人の魔術師が見つからないってことでベラルーダの怖い話扱い」
「……だろうよな」
もはや真相がどうかなど関係なく何代にも渡って語り継がれるかもしれない。
「リューシャお兄ちゃん、昨日はそれをラウルフィカに聞きに行ったの?」
「……」
「そっか……」
スヴァルが辰砂に関してある程度の知識を有しているのは、それがラウルフィカ関連の事柄だかららしい。彼は“銀の月”――ラウルフィカの望んだその男がベラルーダの元宮廷魔術師長であることも恐らく知っているのだろう。
本人が言わずともあの皇帝ならば面白がって教えかねない。実際、リューシャにその話をしたのもスワドの興味本位のようだった。
しかし、残念ながら皇帝の期待にはどうやら応えられない。昨日はラウルフィカに話を聞き、今日は一日かけて研究書を読みこんだが結局リューシャも辰砂の核心に迫るような情報は得られなかった。
スヴァルが薦めたアリオス・フェルナーの研究書は各伝承や目撃談に出典や事件の経緯を明記してかなり信憑性が高い良書だったが、それで今も本当に辰砂という魔術師が存在しているのかどうかという疑問に関してはわざと話の矛先を逸らしているような印象を覚えた。
人界においては銀髪に紫の瞳の少年姿で現れる辰砂。リューシャがリマーニで見かけた少年もその記述には当てはまるが、いくらなんでも銀髪紫瞳だけでは範囲が広すぎる。
せめていつも夢に見る色違いの瞳を持つ少年の方だったらまだ目撃談も絞れそうなものだが、さすがにそういった記述はない。リューシャにそれを教えたウルリークは一体どこでそんな情報を知ったのだろう?
そして進展のないまま、辰砂に関する調査も進まなければこの帝国から解放される目処も立たないまま、一日が過ぎて行った。
そろそろ与えられた部屋に戻るべきかとリューシャとシェイが図書室を出ようとしたところで、暗い顔をしたラウルフィカに出くわす。
彼はあからさまに気乗りのしない調子で告げた。
「……リューシャ。皇帝陛下がお呼びだ」
大人の男の腕で掴まれた肩は、リューシャの細腕では振りほどくことができなかった。